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第十八話 約束の履行 - 1

 ルイは一度深く息を吸い込んだ。これから話すことは、珠桜たちにとって重要な情報になるかもしれない。そして同時に、自分自身の決意を伝える機会でもあった。


「……それに、敵は明らかに俺を狙ってるみたいなんです」


 ルイの声に、もはや迷いの影は見えなかった。琴葉との対峙で晒された現実と向き合い、自分の実力を冷静に受け止めた上での言葉だった。


「ここで大人しくしているなんて、俺には無理です。俺がここにいる限り、澄幽に危険が及ぶかもしれない。だから、一度外に出たいんです」

「ルイ君を……狙ってる?」


 珠桜の優しい表情が、一瞬で警戒と憂慮に染まった。澄幽の指導者として、無数の危機を乗り越えてきた者の鋭い眼差しが、ルイを見据える。


「それって、ミコ様の予言の……」


 律灯も同じように、深刻な面持ちになった。執務室の空気が再び張り詰める。


「実は……それすらもよく分からないんです。敵が何者なのか、何が目的なのか……すべてが曖昧で」


 ルイは言葉を選びながら、忌まわしい記憶を辿るようにゆっくりと話し始めた。


「シアが助けに来てくれる前、俺は……色も、音も、感覚すらも歪んだ異常な空間にいました。気がついたらそこにいて──身動きひとつ取れなかった。そこで、ある男に襲われたんです」


 その瞬間、ルイの左手が無意識に疼いた。あの不気味な金色の瘢痕が刻まれた場所──まるで古傷が嵐の前兆を告げるように、嫌悪感を伴う鈍い痛みが走る。


「触れられた部分が、まるで溶けるように……徐々に、徐々に灼けた金に変わっていって……」


 ルイの声が震えた。あの瞬間の絶望的な感覚が、記憶と共に蘇ってくる。自分の身体が自分のものでなくなっていく恐怖、抗うことすらできない無力感。


「俺は多分、あの時……一度死んだんだと思います」


 その言葉に、執務室の全員が息を呑んだ。死と隣り合わせの日常を送る彼らでさえ、実際に「死を体験した」という告白には、言葉を失った。

 ルイは俯き、拳を握りしめる。無力感と憤怒が入り混じった表情だ。


「でも、その空間は男が『友人に作ってもらった"狭間"』『ここから出れば全てがリセットされる』と言っていました──だから今、こうして生きてるんです」


 ルイは俯き、拳を固く握りしめた。無力感と憤怒が入り混じった表情──だが、その瞳に恐れは宿っていなかった。彼の目の前には、頼れる人たちがいる。もう一人で抱え込む必要はないのだ。


「そいつは俺のことを知ってました。『ナティ』と……その名前を何度も繰り返して、それが俺の父親の名前だって」


 ルイの声に、わずかな困惑が滲む。何も記憶がないはずなのに、なぜか『ナティ』というその響きが懐かしく聞こえるから。


「そして、『必ず迎えに行く』とも言っていました」


 一度言葉を切り、ルイは深く息を吸った。この場にいる全員の顔を見回し、最後に珠桜を真っ直ぐに見つめる。


「ミレディーナが言っていた、その男の名前は……」



「"ファロン"……?」



 その名前を口にしたのはルイではなく、珠桜だった。

 瞬間、彼の美しい顔から血の気が完全に失せた。まるで心臓が止まったかのように、その表情は凍りついている。


「え? 珠桜さん、知ってるんですか?」


 珠桜の表情が劇的に変化した。瞳孔が見開かれ、長年封印してきた悪夢が突然眼前に蘇ったかのような、生理的な恐怖がその美貌を歪める。雷に打たれたように全身が硬直し、呼吸さえも止まっているようだった。


「……ああ、知っている。知っているよ」


 珠桜の声は震えていた。過去の記憶が、制御不能な濁流となって押し寄せているのだろう。


「当然、"奴"のことは」


 その声には、初めて激しい感情が混じっていた。美しい顔に浮かんだのは慈愛ではなく──純粋な殺意だった。

 ルイは一瞬、たじろいだ。この人も、こんな表情をするのか、と。


 珠桜は慌てたようにルイに詰め寄ると、細い両手でその肩を掴んだ――握り方は必死で、爪が食い込むほど強かった。


「……ルイ、一つ答えてくれないか」


 珠桜の声には、制御しきれない切迫感が滲んでいた。



「君は……君の家族の記憶を取り戻したのか」



 その時だった──突然、執務室の空気が異様な唸りを上げた。


「きゃあっ!?」


 脳脳髄に響く不快な金属音に、シアが両手で耳を塞ぐ。ルイも眩暈に襲われ、視界がぐらりと揺れた。まるで現実そのものが軋み、歪んでいくような不協和音が空間を支配する。

 深い闇の亀裂が空間を裂き、その奥から禍々しい光が漏れ出している。二つの入り口は、まるで獲物を狙う魔獣の口のように不気味に開かれていた。空気そのものが歪み、現実と虚無の境界が溶け始める。


「珠桜様!!」


 律灯の絶叫が響いた。しかし、その警告は既に遅すぎた。

 闇の裂け目から無数の、影のような腕が伸びてきた。それらは冷たく、鉄の枷のようにルイと珠桜の腕、足、胴体を捉え、強引に締め付ける。声を上げる暇もなく、二人の身体は地面から引き剥がされ──無慈悲に闇の向こうへと引きずり込まれていく。


「離せ……珠桜様ッ!!」

「ルイッ……!?!?」


 律灯とシアの絶叫が執務室を揺るがす。



『ようやく見つけた』


 別々の裂け目に引き込まれたルイと珠桜の脳内に、声が響いた。

 心の芯までを竦ませる、冷酷で懐かしい声。


『久しいな、ミオウ。そして……』


 一拍の間。


 そして。



『我が友の息子よ。可愛いルイ』



 ルイの全身に戦慄が走った。あの声だ。間違いない。狭間で自分を殺した男の声。


『約束通り、迎えに来た』



 その刹那、裂け目の外で、響哉が動いた。


「──シアちゃん、行くぜ」

「えっ!?」


 響哉がシアの華奢な身体をグッと引き寄せ、閉じかけている狭間へ勢いよく投げ込んだ。


「えええええええええぇぇぇぇぇぇっっっっ!?!?!?!?」


 シアの悲鳴が尾を引く中、響哉は律灯を振り返る。


「律灯、そっちは任せたぞ」


 珠桜が呑み込まれた狭間は既に縮み始めていた。律灯は一瞬の躊躇もなく、その消えゆく闇へと身を投じる。その眼差しには、揺るぎない決意が燃えていた。


「響哉も。必ず、"三人で"帰ってきてくださいね」


 響哉もまた躊躇なく、ルイが吸い込まれた狭間へと飛び込んだ。


 五人の姿が闇に呑み込まれた直後、二つの狭間は静かに、しかし確実に閉じた。歪んだ空気は徐々に収まり、執務室には何事もなかったかのような静寂が戻る。

 風だけが窓を通り抜け、古い書物のページを静かにめくっていく。



 執務室には、もう誰の姿もない。

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