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第十七話 美しき無垢なる檻 - 3

 その言葉は氷の刃のように冷たく、動かしがたい事実として執務室の空気そのものを切り裂いた。四人の胸深くに、鋭く突き刺さる。


「"澄幽が出来てから"は、珠桜様のことはここから一度も出したことはない。律灯は珠桜様の護衛として、文字通り肌を離さずに仕えさせた」


 響哉の銀灰色の瞳が、ルイとシアをじっと見据える。冗談や誇張ではない——紛れもない事実としての重みが、その眼差しに宿っていた。


「外の地獄をくぐり、今も生きているのは、俺と琴葉だけ」


 声が、わずかに掠れる。



「数千いた調査部隊員の、たった二人」



 響哉は口元を歪めて笑った。琴葉のように自嘲に満ちた笑いでもなければ、笑い飛ばすような笑いでもない。


「……だから、次に来たヤツは絶対死なせないって躍起になってんのよ、アイツは。

 ホント馬鹿だよな。信念を奪う権利は俺たちにはないってのに。生きる権利も、戦う権利も、死ぬ権利も——全ては当人にあるのにさ」


 その時、珠桜が重い口を開いた。


「……無理に戦いに行く必要はない、どこにもない。澄幽には、琴葉と、響哉がいる」


 その声は、まるで千年の時を経た古木が風に揺れるように、深い深い疲労を帯びていた。

 珠桜は静かに、しかし力強く言い放った。


「全て忘れて、幸せに暮らす方法だってある。昔、伝えたと思うけれど……」


 珠桜の瞳が、遠い記憶の彼方を見つめる。それは楽しい回想というより、苦い決断の記憶を辿るような眼差しだった。


「ミコ様のお力で、外の世界に関する記憶を全て消して、"奥"に行くんだ。そこにはまだ多くの人々がいて、紛れもない平穏な日常を今も送っている」


 珠桜が静かに後ろを振り返る。

 ミコが眠る部屋へ繋がる戸と別に、もう一つ戸があった。その先の回廊を通り抜けた先に、"奥"へ繋がる門が存在する。


 この場で、その奥に踏み入れることができるのは、珠桜だけだ。律灯にも、響哉にも、奥へ行く権利はない。


 ——否、全ての記憶を消して、奥に永住するのであれば、行くことはできる。


 今いる、澄幽の"手前"について。珠桜が背負っている戦いについて。そして、その先に広がる滅びかけの世界について——今までの戦いの記憶も含めて、全て消したうえで。

 二度と手前に戻ってくることは許されない。奥に住む人々が、手前に消えた人を探さないように。外の世界の存在が露呈しないように。


「外の荒廃しきった世界も知らずに。血も、魔法も、星骸も知らない。死の恐怖も、絶望も知らない」


 珠桜の声が、わずかに震えた。


「子供たちが勉学に励み、家族で笑って暮らすことができる場所。それが……澄幽の"奥"。僅かだけど……私たちが、幾多の犠牲の上に、何とか守り抜いた最後の楽園だ」


 珠桜の声がわずかに震えた。希望への憧憬か、それとも自分たちだけが背負い続けている現実への悲哀か——判然としない複雑な感情が滲んでいる。


「ルイ君の異能も安定した。シアも、自分の力を自分の意思で制御できる。希望するのであれば君の弟と共に、奥で過ごせる住居を手配しよう」


 珠桜はそこで一拍置き、ルイとシアをしっかり見据えた。


「今後の進む道については、君たち自身で、自由に決めていい。ただ、全てを忘れてしまうとしても——」


 不退転の意志が込められた声で、珠桜は言い切った。



「幸せに生きる選択肢が常にあることだけは、決して忘れないでほしい」



 重い沈黙が執務室を包んだ。珠桜の言葉は、まるで遺言のような響きを持っていた。

 その中で、シアがふと口を開いた。


「……律灯さんと響哉さんは、どうして奥に行かないんですか?」


「俺は珠桜様を守らなきゃいけない。夜霧の人間として、黒華家当主を守る使命がある」


 響哉がいつもの調子で答える。その表情には、重荷を背負っているという暗さはなく、むしろどこか誇らしげな響きがあった。


「主を捨てて、使命も何もかも忘れて奥に自分だけ行くなんて俺にとっちゃ論外さ。最後の一代かもしれねえのに、夜霧の名に泥を塗るわけにはいかねえ」

「響哉は昔からこうなんだ。私がどこへ行くにもずっとついてきて、本当に大変だったんだよ」


 珠桜が微笑みながら補足する。


「『珠桜様のためなら何でもする』って。子どもの時からずっと、私のために無茶ばっかりして……」

「ガキの頃の話を蒸し返さないでくださいよ、珠桜様」


 響哉が少し照れたような表情を見せる。


「でも、珠桜様を守ると言っておきながら、血気盛んすぎて今は外に飛び出していったのが響哉ですから。珠桜様をお守りするために、僕もこちらに残っています」

「お前がいなかったら外には出ない」

「らしいですけど」


 律灯の言葉に、響哉がむっとした表情を見せる。そんな兄弟のやり取りを見て、ルイの表情がわずかに緩んだ。

 だが、シアにはもう一人気にかけている人がいる。



「なら、琴葉さんは?」



 三人の動きが止まる。

 珍しく、響哉までもが動きを止め、何も返答しなかった。琴葉の名前が出た瞬間、執務室の空気が微妙に重くなる。珠桜も律灯も、同じように口を閉ざしていた。


「あの子は……」

「……行かないんですか。それとも、行けないんですか?」


 シアの問いは、核心をついていた。三人の表情が、わずかに曇る。


「……どっちもだ」


 珠桜が、言葉を選ぶように、慎重に口を開いた。


「ルイ君とシアも、ここへ来たときはそう判断していた。奥で何かあってはいけないからね。もう大丈夫だと思っているから、奥へ行っても大丈夫と言っているのだけど……」


 珠桜が丁寧に、しかしどこか苦しげに説明を始める。


「彼女は、奥には行かせられない。あ、でも精神性が、とかではなく、別の理由があって……」

「琴葉様自身も、行きたがらないんです」


 律灯が静かに補足する。彼の口調には、言いづらい事実を伝える際の慎ましさが滲んでいた。


「『自分が守っているものを見てみませんか?』と声をかけても、頑なに首を縦に振りません。彼女はこの執務室より先に立ち入ることを拒絶するんです」

「どうして……?」


 シアの純粋な疑問に、珠桜と律灯は再び重苦しい沈黙で応えた。答えにくい、複雑で深い理由があることは明白だった。

 響哉が、顎に手をやり、少しの間考えるような素振りを見せる。虚空を見つめるその銀灰色の瞳は、適切な言葉を探している——否、選んでいるように見えた。

 ようやく適切なものを一つ見つけたのか、深く息を吐いてから口を開いた。


「アイツは血を浴びすぎた。敵の血も——味方の血も」


 その言葉に、ルイとシアの表情が硬くなる。


「何をやっても血の臭いが取れない。だから、平穏を壊さないために、汚さないために奥に近付かない」

「……そんな」


 シアの声が詰まり、震える。


「そんなの、悲しすぎます……」

「悲しいよ」


 珠桜が静かに、しかし力強く頷いた。


「でも、それが彼女の選択であり……今のこの世界が突き付けてくる、現実だ」



 ルイはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、先ほどまでの迷いや同情は微塵もなく、響哉の"言葉の裏にある真実"を見据える、清冽で鋭い決意の輝きが宿っていた。

 響哉の説明を黙って聞いていたが、ルイは理解していた。「血の臭い」という言葉で包み隠そうとしているが、それは単なる誤魔化しに過ぎないことを。琴葉が背負っているものは、もっと重く、もっと別の何かだということを。

 そして、珠桜、律灯、響哉──この三人が、自分たちにはまだ語れない理由を抱えていることも。


「……俺は、戦い続けたいです」


 ルイの声は低く、しかし揺るぎなかった。珠桜の漆黒の瞳を真っ直ぐに見つめながら、彼は言葉を紡いだ。


「俺も、ここを守りたい。シアや、奥にいる人たちの平穏を守る力になりたいです。死にたくはないから……一生懸命、鍛えます」


 一呼吸おいて、ルイは続けた。今度は響哉の方を向き、その温和な瞳に自分の意志を伝えるように。


「それと……琴葉のことも、気になります。アイツが、何を抱えているのか。

 ……過去に、澄幽であったことも、きちんと知りたい」


 彼の声に込められた意志は、単なる好奇心ではなかった。理解したい、支えたい、という真摯な想いが滲んでいる。


「俺は弱いです。今のままじゃ、きっと足手まといにしかならない。でも……」


 ルイは拳を握りしめた。その手に、かすかな震えがあったが、それは恐怖からではなく、決意の証だった。


「だから、俺も、それらを一緒に背負えるまで成長します。琴葉さんの痛みも、澄幽の過去も、すべてを理解できるまで強くなります。だから、その時にはまた……包み隠さず、本当のことを話してほしいです」

「珠桜様、私も」


 シアの声が、ルイの決意に呼応するように響いた。その声には微かな震えがあったが、同時に芯の通った揺るぎない意志が宿っている。

 彼女もまた、響哉の言葉の奥に別の理由があることを、若干感じ取っていた。


「私も、力になれるならみんなを守りたいです! 珠桜様と、律灯さんと、響哉さんと……」


 シアは一度言葉を区切り、深く息を吸い込んだ。琴葉に恐怖を植え付けられた記憶がまだ生々しく残っているが、それでも彼女は前を向いた。


「それと、さっきのことはあるけど、でも琴葉さんだけに、全てを背負わせてこの絶望を忘れるなんて、絶対に嫌です! あと、私がちゃんと強くなって、琴葉さんに『こういう魔法もアリなんだ』って思ってもらわなくちゃ!」


 シアの拳は自然と握りしめられていた。彼女の瞳は輝きを取り戻し、確かな意志の炎が灯っている。恐怖を乗り越えて辿り着いた、純粋で力強い決意だった。


「二人とも……」


 珠桜の瞳に、久しく見ることのなかった温かい光が灯った。それは、長く続く冬の終わりを告げる、かすかなながらも確かな春の光のようだった。厳しい運命の中に芽生えた希望の光に、傍らで律灯もまた、わずかながら、しかし確かに口元を緩めている。厳格な表情の下で、深い感銘と安堵の息を静かに吐いていた。

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