第十七話 美しき無垢なる檻 - 2
しばらくの沈黙が再び執務室を支配した後、響哉は深く息を吐くと、ゆっくりと振り返った。
その表情からは先ほまでの鋭さが消え、ルイが知る飄々とした笑みが浮かんでいる。軽い調子を装ってはいたが、その銀灰色の瞳の奥には、確かな感嘆の色が煌めいていた。
「……いやあ、なかなか見事だったぜ。あの琴葉に食ってかかるなんて、相当ガッツがあるじゃねえか、ルイ君」
ルイは困惑した。自分がしたのは、シアを守ろうとしただけの本能的な行動だ。それ以上でも以下でもない。しかも、結果的には何もできず、簡単にいなされてしまっている。
「食ってかかったって……俺はただ……」
「いいや、十分だ」
響哉はルイの言葉を優しく遮り、にこやかに笑いながら続けた。
「俺は、琴葉を目の前にしただけで失禁して泡吹いて倒れる異能者どもを散々見てきた」
「しっ……!?」
「中には気絶する前に『ママー!』って叫んだ奴もいたぜ」
「ひゃぁぁ……!」
ルイは若干、いやドン引きしながら青ざめ、シアは慌てて両手で顔を覆った。
「あ、でも一番ひどかったのは──」
響哉が人差し指を立てて、いかにも楽しそうに続けようとした瞬間。
「響哉」
珠桜の横にいる律灯が、低く警告するような声で響哉の名を呼ぶ。当の本人は「ワリィ」と、なんでもなさそうに笑いながら頭をかいた。
すると、響哉の右手に、橙色の柔らかな光が灯った。暖炉の炎のように温かく、生命そのものが形を成したかのような神聖な輝きを放つ。光は小さな球体となって宙に浮かび、周囲に心地よい熱の波紋を広げていく。
「あったかい……!」
シアが驚きと喜びの混じった声を上げ、思わずその光に手を伸ばす。凍てついていた頬に血色が戻り、瞳に生気が蘇っていくのが見て取れた。琴葉の氷のような魔法の残滓が、この優しい光に溶かされていく。
「ハハ、喜んでもらえて何よりだ」
「響哉、それって……?」
ルイが警戒しながら問う。魔法への不信感が、まだ完全には消えていない。
「ただの魔法だよ。魔力の膜に熱源を包んでるだけの、すっげえ初歩的なヤツ。アイツ、琴葉がいた国じゃ、外に出るなら習得は必須らしい。でなきゃ、あの極寒で即死だからな」
ふと、ルイの心に浮かんだ疑問が、思わず口をついて出た。
「それって……人を殺せるのか?」
一瞬、響哉は質問の意図が飲み込めず、ぽかんとした表情を浮かべた──が、その直後、噴き出すように笑い声を上げ、腹を抱えて豪快に笑った。
「ハハハッ! あー、なるほどなあ……ああ言われた後だから、そりゃ気になるよな。でもこれじゃあ、数分かけて雪を解かすのが精一杯だ。蚊一匹殺せねえよ」
「……でも、魔法は殺すための力って、琴葉が」
「それは違う」
響哉の笑みが、少しだけ柔らかくなった。
「ちゃんと役に立つ魔法、守るための魔法だって存在する。琴葉が使ってるのは、魔法のほんの一側面でしかない。見たことがあるから知っている。俺だけじゃなく、珠桜様も、律灯も」
響哉が視線をやった先で、珠桜と律灯は静かに、しかし力強く頷いた。
「アイツも、頭で理解してるはずだ。この魔法も、琴葉に最初に教えてもらったものだし」
響哉は右手でゆらゆらと浮かぶ橙色の光の球を弄びながら、遠い目をして続けた。
「教えてもらった……?」
ルイが疑念混じりに尋ねる。その横で、シアは温もりに包まれてほっとした息を吐いていた。
「ああ。澄幽の魔法の先生といえば、間違いなくアイツだ。俺も、アイツに同行する許可が出るまでは散々鍛えられたぜ」
響哉はそう言うと、何かを思い出したように顎に手をやり、苦笑いを浮かべた。執務室に差し込む日差しが彼の横顔を揺らめかせ、睫毛の影を落としている。
「響哉さんも、もしかしてさっきの私たちみたいな感じのことになった経験が……?」
シアが恐る恐る、しかし興味津々な眼差しで尋ねた。彼女の頬にはもう血色が戻り、先ほどの恐怖は影を潜めつつあった。好奇心が、まだ冷めやらぬ恐怖心に少しずつ勝ちはじめていた。
「おう、あるよ。そりゃもう、数年前は毎日が地獄の特訓だった。
「『感覚を体に叩き込む』とか言って、ガチで全身氷漬けにされた日は、三日間震えが止まらねえほどだったしな。辺り一面を蒸発させる熱波の真ん中に、うっすい防御魔法一枚で立たされたときは、魂が抜けかけたぜ。あと、圧力かけられて地面と一体化しそうになったり……」
「そ、そうだったのか……!?」
最も狼狽えていたのは珠桜だった。どうやら、これらの詳細は聞かされていなかったらしい。
「『無駄が多い』だの『今の最適解はこれ』だの、そりゃもう、機械のように淡々と、しかし執拗に指摘されてな……」
響哉は懐かしむよう天井の古びた梁を見上げた。
「でもな」
彼の口調が、わずかに力を帯びる。
「そうやって死ぬ気で叩き込まれたからこそ、俺は長年外の地獄みたいな場所で戦ってても、どうにかこうにか生きて帰ってこれてる。どうやったら死なずに、かつ確実に敵を殲滅できるか。理不尽すぎる攻撃を喰らったとき、どうやって体を動かせば致命傷を免れるか──それがもう、骨の髄まで染み付いてる。俺だって、澄幽を守りてえからな。お前たちと同じだ」
響哉の視線がルイとシアに向けられる。その眼差しは、軽口を叩く時とはまるで違い、研ぎ澄まされた刃のように真っ直ぐで強い。
「本当に、アイツの本心は、さっき聞いた通りさ。『誰も死んでほしくないから、自分が戦って、他は全員安全な澄幽にいろ』。言い方や手段は最悪だが……」
ここで響哉は一度、言葉を切った。窓の外に広がる、霧に霞む深い森を見やり、複雑な想いを込めて細く息を吐いた。そして、重たい何かを振り払うようにゆっくりと振り返る。
「決して、根は悪じゃない。ただ、それが過剰でな。守りたいって想いが、時々、アイツ自身を飲み込んで暴走するんだ。自分を犠牲にすることすら、厭わないほどに。
だから、代わりに謝るよ。怖い思いをさせて、悪かった。ごめん」
響哉はそう言うと、ルイとシアの頭に、それぞれポンと軽く──しかし、そこには同志へのねぎらいと、未来への期待を込めるように──手を置いた。その掌は、数多の戦いで鍛え上げられた硬さと、先ほどの魔法の名残か、ほんのりと優しい温もりをたたえていた。
その後ろで、珠桜が一歩静かに前に進み出た。その足取りは、これまでの威厳あるものではなく、自らの無力さを認めるかのように重々しかった。
「すまない、ルイ、シア。さっきの琴葉は……さすがに行き過ぎていた。指導者として、あの状況を止められなかった責任は私にある。心から申し訳なく思っている」
彼は深々と頭を下げた。その動作には、澄幽の指導者としての威厳を完全に脱ぎ捨てた、一人の人間としての素直な謝罪があった。
律灯もまた、珠桜に続いて深く頭を下げる。その背筋はピンと伸びているが、そこにはルイとシアを守れなかった無念さがにじんでいた。
「僕からもお詫びします。あの状況を止められなくて……本当に申し訳ない」
ルイとシアはそれを見て、飛び上がらんばかりに驚いた。目を見開き、声も出せずに完全に硬直している。指導者である二人が頭を下げるなど、想像もしていない光景だった。
「み、珠桜様!? 律灯さんも、い、いきなりそんなっ!」
「か、顔を上げてください!! 別に大丈夫ですから! むしろ俺こそ、あんなこと言って琴葉を怒らせちゃって……!」
ゆっくりと珠桜と律灯が顔を上げる。彼らはルイとシアの慌てふためく様子に、わずかに困惑したような、それでいて申し訳なさそうな表情を浮かべた。
どうにか空気を変えたくて質問を探したが──
「あの人……過去に何かあったんですか? きっと、なにか大きなことが……」
ルイがそう問いかけた瞬間、珠桜と律灯の表情が一瞬で強張った。まるで鋭い刃で古傷をえぐられたかのような、耐え難い痛みが二人の顔を走る。珠桜の唇が微かに震え、律灯は目を伏せた。何か聞いてはいけない核心を突いてしまったと察したルイは、冷や汗をかきながら慌てて取り消そうとした。
「や、やっぱり、なんでもないです! すみません、変なこと聞いて……!」
だが、それを遮るように響哉がルイの頭を、まるで兄が弟をからかうようにガシッと掴んだ。
「おわっ!? 響哉……!」
「せっかくの流れだ。聞かれちまった以上、話さねえわけにもいかねえよな?」
響哉は口元こそ笑わせていたが、その声に含まれた軽薄さは完全に消えていた。代わりに、重い過去を語るのに相応しい、静謐で厳かな響きが執務室に満ちた。
彼は一瞬、視線を珠桜の方へ向けた。それは「いいよな? 別に。話したって」という、確認の意味が籠った無言の問いかけだった。
珠桜は苦虫を噛み潰したような表情で唇の端をきつく結び、目を閉じて、かすかに、しかし確かにうなずいた。「……ああ」という吐息が、ほとんど聞こえないほど微かに漏れた。それが了承の合図だった。
「澄幽って、できた頃はこっち……"手前"にも数千人くらい人がいたの。もっと場所も広くて、家もたくさんあってさあ……」
「え!? そうだったんですか!?」
シアが驚きの声を上げる。現在の、常に静寂と霧に包まれた印象からは想像もできない活気ある光景に、瞳を輝かせた。
「そうそう。八年前とかの話だ」
「で、でも……今って、私たちとリアン……私の弟と、あと数人しかいないですよね? 他のみなさんってどこに……」
シアの純粋無垢な問いが、重く静かな執務室に響く。
その瞬間、珠桜の息が完全に止まった。顔面から血の気が一気に引き、今にも崩れ落ちそうなほどに硬直する。
だが、すべてお構いなしに、響哉は静かに、しかし容赦なく、冷徹な事実を告げる刃を振り下ろした。
「──全員死んだよ。戦いに行って、みーんな死んだ」




