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第十六話 紅が映す世界の真理 - 3

 琴葉は、ようやくシアの顎から手を離した。白い指先が少女の頬から離れる瞬間、まるで呪縛が解けたかのように、シアの体から緊張が溶けていった。けれど、シアの頬には琴葉の指の痕がくっきりと残り、それはまるで氷の烙印のように白く浮かんでいる。琴葉は何事もなかったかのように、飄々とした声で告げる。


「外には、こういうことを平然とやってくる野蛮な異能者も、魔法士も、たくさんいるわ。……これに懲りたら、もう二度と外には出ないこと。いい?」


 シアは震えていた。琴葉の冷たい指が頬に触れていた感触が、まだ生々しく残っている。あの瞬間、確かに死を予感した。自分の首が簡単に折られてしまうような、圧倒的な恐怖。けれど、それ以上に心を締め付けるのは、琴葉の言葉だった。

 魔法を否定された。自分の存在を否定された。外に出ることを否定された。


(……役に立ちたかったの。守られるだけじゃなくて、誰かを守れるように。守ってもらったから……今度は私が守りたいって)


 アメジストの瞳に、涙が溜まっていく。少女の胸に渦巻くのは悲しみだけではない。自分なりに見つけた生きる意味を、存在する理由を――あっさりと踏みにじられた、やり場のない憤りも混じっていた。


 ――その一言が、引き金になった。


 何かが、ルイの内側で音を立てて切れた。

 抑え込まれていた憤り。無力さへの屈辱。そして何より、大切なものを否定された痛み。それらが一つになり、静かに、しかし決定的に彼の中で崩壊していく。


 ルイの心の奥で、記憶が蘇る。

 初めてシアと出会った日。施設の薄暗い部屋で、震えながら縮こまっていた少女。「大丈夫?」と尋ねた時の、怯えきった表情。そして――澄幽に来て初めて見せた、希望に満ちた笑顔。

 あれから二年。シアは確かに成長した。外の世界への憧れを抱き、誰かを助けたいと願うようになった。ルイ自身も、彼女に支えられてここまで来た。彼女の純粋な想い、真摯な努力、そして何より――誰かを守りたいという美しい願い。

 そのすべてが、今、目の前で踏みにじられている。


 無意識に、一歩前に踏み出していた。拳が、自分の意思とは関係なく、強く握られていた。手のひらに爪が食い込み、僅かな痛みが意識を鮮明にする。

 ライムグリーンの瞳に、怒りの炎が宿る。


「……!」


 珠桜が息を呑む音が聞こえた。律灯も、響哉も、一瞬で空気の変化を察知していた。

 けれど、もう遅かった。



「――ッ!!!!」



 ルイの体が、琴葉へと飛びかかった。

 拳は迷いなく、真っ直ぐに伸びる。そこに込められたのは、憎しみではない。もっと純粋で、もっと切実な想い。シアを守りたい。彼女の笑顔を、魔法を、存在そのものを否定させたくない。


 ——これは決して"攻撃"ではない。


 "抗議"だ。


 認められない現実への、言葉にならない異議申し立て。守りたいものを傷つけた者への、本能的な反発。ルイの全存在が、それを訴えるように前へ飛びだしていた。



「はぁ……」


 だが――その拳は届かない。

 琴葉の手が、まるで風を払うように、ルイの手首を捉えていた。顔すら動かさず、瞬きひとつせずに。まるでルイの行動を予測していたかのような、完璧な迎撃。その動きは、戦場で数万の敵を屠ってきた者だけが持つ、死神のような正確さだった。


「……何か?」


 琴葉の声は平坦だった。その赤い瞳には、彼の怒りを見下ろす冷たさだけがあった。まるで害虫を見るような、取るに足らないものへの視線。


 その反応が、ルイの胸を更に締め付けた。自分の必死の想いが、蚊の鳴き声程度にしか受け取られていない。

 そんな態度が、さらにルイの怒りに火を点ける。拳を引き、再び突き出す。だが今度は、さらに鮮やかに受け流された。


「ぐっ……!」


 気付けば、床に叩きつけられていた。肩には重み。背中には膝が乗り、左腕はねじられている。床板の冷たさが頬に伝わり、髪が乱れている。

 だが琴葉の力に、どこか慎重さがあった。ルイを"敵"として捉えていなかった。"とるに足らない稚拙な子供"として扱っている――その事実が、さらに屈辱的だった。拳と同時に放たれた"叫び"も、必死の訴えも、まるで蚊の鳴くような扱いを受けている。


 それでも――ルイは声を上げた。



「シアの……シアの魔法を、"偽物"呼ばわりするな!!」


 床に頬を押し付けられながらも、その声は揺るがなかった。琴葉の膝に体を押さえつけられ、身動きが取れない。それでも、その瞳には確かな決意が宿っていた。澄幽の外で見てきた絶望を知っているからこそ、シアの魔法の尊さがわかる。


「誰かを癒す力を! 温もりを! お前はそれを"偽物"って言うのか!?」


 言葉に熱が宿る。怒りというより、強い信念が滲んでいた。自分自身のためではなく、目の前で傷つけられた大切な人のための――

 シアは、その声を聞いて、胸が熱くなった。ルイが自分のために怒ってくれている。自分を守ろうとしてくれている。いつも自分がルイを支えてきたつもりだった。でも今、逆になっている。濡れたアメジストの瞳に、希望の光が宿り始める。


「だったら――お前のその冷たい魔法の方が、"殺しのためだけの偽物"なんじゃないのかよ!!」


 執務室の空気が震えた。

 珠桜、律灯、そして響哉――三人の視線がルイに集まる。その目には驚きだけでなく、何か別のものがあった。感動とも呼べる、深い感銘。


「ルイ……」


 シアの小さな声。濡れたアメジストの瞳が、かすかに明るさを取り戻していく。

 今まで彼女がルイの手を引いてきた。たくさんの困難に巻き込まれがちな彼を守り、励まし、前に進ませてきた。いつもルイを引き上げるのは、彼女の役目だった。けれど今――その立場が逆転していた。

 ルイが、彼女を守るために声を上げている。その事実が、シアの胸に温かさを広げていった。自分を守るために叫ぶルイの姿に、彼女は希望の灯を見出していた。たとえ琴葉に押さえつけられていても、ルイの心は屈服していない。



「……誰かを癒す力ね」


 琴葉は淡々と呟き、手の力をわずかに緩める。その声に、かすかな変化があった。冷たさの奥に、腐敗した何かが蠢き始めている。

 その変化に、ルイとシアの背筋に冷たいものが走った。まるで地の底から這い上がってくる瘴気のような、不穏な気配。


「――そんなものでこの世界に立ち向かえるとでも?」


 琴葉の瞳が、一瞬だけ遠くを見るように揺らいだ。まるで地獄の底を覗き込むような、絶望に染まった表情。

 その表情に、ルイの呼吸が止まった。それは恐怖からくるものではなかった。もっと深い、魂を揺さぶるような何かを感じ取ったからだ。


(……なんだよ、それ……なんだよ、その目)


 ルイは酷く困惑していた。琴葉の瞳に映る絶望の深さが、想像を絶していた。


「……そもそも、癒しの力なんて、ただの幻想。夢。理想論よ。そんなものこの世界に存在しない」


 琴葉の声が僅かに震える。それは怒りではなく、もっと深い――魂を削るような絶望。

 言葉とともに、執務室の空気が重く沈んだ。まるで澄幽の外に広がる死の大地――灰と氷に覆われた荒野、星骸の徘徊する廃墟、終わりなき絶望の現実の匂いが、一瞬この部屋にも忍び込んだかのように。


「癒しの力が存在するなら――」


 琴葉の声が途切れ、かすかに震える。


「私の手の中で死んでいった、彼らは何だったの?」


 唇が、歪んだ笑みを作る。けれどそれは笑顔ではない。絶望が形を成した、醜悪な表情だった。


「温もりも、笑顔も、希望も――私はどれだけ握りしめても、指の隙間から零れ落ちていく砂のようにして失った」


 それを見て、シアがヒュ、と喉が渇いた音を鳴らした。震えが止まらない。

 ルイもだ。――こんな、絶望しきった表情を、ルイは今までに一度たりとも見たことがなかった。それはもはや人間の表情ではない。地獄に堕ちた魂が見せる、救いようのない虚無だった。


 声が低く、重く響く。琴葉の瞳に、狂気の光が宿る。美しい深紅の瞳が、どこか、知らないどこかを見つめていた。


「自由を失った人間たち。灰に埋もれた星。数え切れない墓、死体。血と硝煙と絶叫に満ちた地獄」


「一時の喜びなんて、死ねばすべて消える。温もりも、笑顔も、希望も――全部、全部嘘。死という現実の前では、何の意味もない」


「世界を取り戻すために必要なのは、脅威となる全てを殺し、壊すこと。不要な全てが消えてなくなれば、幸せを、安寧を取り戻せるはず。魔法はそのために作られた。私はそのために存在する」


「この美しい澄幽でさえ、ミコ様の力が尽きれば一瞬で灰に帰る。私たちが見ている"希望"なんて、所詮は砂上の楼閣」


「これ以上犠牲を出さないように。これ以上、私の目の前で誰かが死なないように。早く全てを壊さないといけない――全部、全部壊して、静かにしないといけない」


 言葉が零れ落ちるたびに、琴葉の表情から人間らしさが消えていく。まるで冬の湖面が凍りつくように、美しい顔に氷の仮面が張りついていく。

 その変化を見つめるルイとシアの心に、名状しがたい恐怖が忍び寄る。


「……理想を語るのはやめて。現実を見なさい。貴方たちはここにいればいいの。外の地獄を見る必要はない。知る必要もない。力を持たない貴方たちが外に出ても、無駄死にするだけ。私がまた……手の中で貴方たちの死体を抱くだけ」


 シアの顔が青ざめた。琴葉の言葉の一つひとつが、鋭い刃のように心を切り裂いていく。自分の魔法は偽物だと言われ、外に出ることは無駄だと言われ、死体になると予言され――。


「希望という名の毒に酔うのは、もうやめにしましょう――」


 琴葉は一呼吸おいて、今までで最も小さく、掠れた声で――



「ここにいて」



 その言葉だけは、命令でも脅迫でもなかった。


 それは純粋な――そして絶望的な懇願だった。

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