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第十六話 紅が映す世界の真理 - 1

 部屋の空気が明確に変わった。

 ただ冷えるのではない。沈むように、染みるように。ひときわ重く凍てついていく。澄幽の常にある暖かさが、一瞬で消え去ったかのようだった。


 気配の変化に、珠桜、響哉、律灯が一斉に目を細めて琴葉を見た。三者三様の表情だが、いずれも緊張を孕んでいる。珠桜は静かに眉を寄せ、響哉は無表情のまま瞳だけが鋭く光り、律灯は微かに体を前傾させた。


 琴葉の言葉は問いではなかった。

 執行命令。裁きの通告。声量など関係ない。ただ一言が、静かに、淡々と告げられただけ。なのにその響きは、誰にも抗えない圧力となって、空間の隅々にまで染み渡る。古びた床板に落ちた陽光さえも、今や凍てつく氷のように冷たく感じられた。

 反射的に視線を上げた先で、琴葉の目が、動きなく自分を見据えている。

 その瞳には、もはや生気も感情も宿っていなかった。深紅の瞳孔が、まっすぐルイを射抜く。焦点は外れず、瞬きもない。ルイを――"排除すべき障害物"として捉える、機械のような視線。剣の切っ先を突きつけられるよりも、遥かに冷徹な意思を感じた。


 彼女の隣に立つ響哉が、わずかに眉を動かした。琴葉の変化を察し、無言のまま腕を伸ばす。


 ──が、琴葉の体はそれより一瞬早く、横にずれていた。


 掴もうとした手は空を切る。まるで、そこにいたのが幻だったかのように。

 その一瞬の動作に、何の力みも、予備動作もなかった。ただ滑るように──静かに、完璧に、捉えさせなかった。まるで水が指の間をすり抜けるように。自然の理さえも飼いならしたかのような動き。


 空気が揺れた。

 ほんの一瞬、ルイの視界の中心で、琴葉の輪郭がかすかに揺らぐ。気づいた時には、もう――



「──っ!?」


 ごっ、と鈍い衝撃とともに、ルイの胸元が強く引き寄せられていた。

 手も腕も、珠桜のものよりもさらに細い。しかし、琴葉は圧倒的な力で彼の身体を固定していた。

 逃げる隙も、構える暇もなかった。腕だけでなく、全身が――心までもが凍ったように固まる。恐怖の波がルイの全身を駆け巡り、細胞の一つ一つが震えているようだった。


 深紅の瞳が、真正面から射抜くように見下ろしてくる。静かに、冷たく──ルイの存在そのものを否定するように。窓からの光が琴葉の頬を照らし、その美しさと無機質さをより一層際立たせている。


「あなた、どうして外に出たの?」


 その言葉は、声量も調子も変わらなかった。叱責でも怒号でもない。ただ、冷静に、機械的に──事実確認のための質問だった。それはどこか、刑場で執行人が最後に発する、形式的な問いかけのようでもあった。

 それなのに、呼吸が止まる。視界の端が白く霞む。胸の奥に冷たい重みが広がっていく。

 心臓そのものが、無機質な指で直接握り潰されているかのような錯覚。ミレディーナとの死闘ですら感じなかった、言語化できない圧迫感。それは魂を覆う氷のように、内側から震えを誘発していく。


 ──"狭間"で味わった絶対的な支配感に酷似していた。

 抵抗する意味すらないのだと悟った、あの虚無の恐怖。それが今、琴葉の静かな問いかけによって完璧に再現されていた。過去の恐怖の記憶が、ルイの脳裏で鮮明に蘇る。ファロンの狂気と、琴葉の冷徹さが、一瞬重なった。

 瞬きもせず、呼吸の音すら立てない琴葉の存在が、部屋の空気を支配していく。陽光の中に漂う塵すらも、動きを止めたように見えた。


「ルイッ……!」


 視界の隅で、白い髪が揺れた。シアだ。彼女の目には恐怖と勇気が交錯している。

 彼女が助けようと身を乗り出した瞬間、琴葉の指先がわずかに動いた。それだけで──


「ッ……!」


 見えない壁に阻まれたように、シアの動きが止まる。誰の目にも見えない力場が、彼女を押し留めているかのようだった。

 琴葉は振り向きもせず、ただルイの胸倉を掴んだまま、彼の身体を引き寄せた。床に正座していた彼の身体が、ぐっと持ち上がる。


「……無傷で守ってあげられなかったことは、申し訳ないと思っている。それは本当」


 耳元に落ちた言葉は、わずかに──ほんのわずかに温度を含んでいた。しかしそれは、雪原の中の一片の火花のような、すぐに消え去る温もり。春を告げる陽だまりなどではなく、ただ儚く消えゆく残り火にすぎない。


「でも、あなたが外に出たこと。それを"正しかった"と認める気は一つもない」


 琴葉の手に込められた力は、緩まない。視線も逸らさない。

 完璧な拒絶がそこにあった。生き物としての本能が警告を発する。


「あなたがこの澄幽にいる限り、私は何があっても──見殺しにはしない。必ず救う」


 その宣言には、冷たさの中に固い決意があった。


「けれど、それでも──」


 声のトーンが、わずかに沈む。心を抉るような冷たさが増す。


「もし……本当に間に合わなかったら、どうするつもりだったの?」


 その問いは、すでに答えを求めていなかった。


「本当に"死んでいたら"。あなたはそれでよかったの?」


 問いかけという形を借りた、鋭利な刃。その言葉は空気を切り裂き、直接心臓に突き刺さる。

 そこに、初めて明確な感情が宿っていた。──冷徹な怒り。荒々しくも極限まで抑制された感情だった。


「……琴葉」


 珠桜が、静かに諭すように名を呼んだ。

 だが──琴葉は振り向きもしなかった。背筋はさらに伸び、視線は鋭さを増していく。瞳の奥に潜む紅の炎が、より熱く、より冷たく燃え上がる。


「理解してもらわないと」


 その声には、もはや一欠片の情もなかった。


「この子たちに。"何もできない"という現実を」


 ルイの胸倉を掴む手に、さらに力が加わる。

 痛みを与えるためではなく、ただ存在を否定するための──明確な警告。



「自分の身も守れない弱者が、澄幽の外に出ようとしないで」



 その断言は、凍てついた刃のように落ちた。

 希望も余地も、再起の可能性も──何一つ残さない言葉。存在そのものを"無意味"と切り捨てる、冷酷な否定。それは、琴葉の眼に映ったルイへの評価であり、抗えない事実として提示された。

 ルイの喉が乾く。言葉が出ない。呼吸するたびに冷気が肺を締め付ける。琴葉の視線だけで、全身から体温が奪われていくような錯覚。それは命そのものを凍えさせるような、冷酷な存在感だった。


 ───逃げられない。

 ───見逃されない。


 ───許されない。


 それが、今ここにいる琴葉の唯一の意思だった。



「ま、待って……! ルイにも事情があったんだから……!」


 シアが、震える声で叫んだ。その声は、かつてないほど弱々しく──恐れに満ちていた。

 今までのシアではなかった。いつも強く、前を向いていた彼女の声が、今は不安に震えている。琴葉の存在が、彼女の心まで凍らせていた。


「──事情?」


 琴葉は横目でシアを見て、冷ややかに応じた。わずかに首を傾げたその表情には、冷笑が浮かんでいた。


「それは、自分の命よりも価値があるもの?」


 シアの言葉が途切れる。喉の奥で、何かが凍りついたように。彼女の唇が震え、言葉を失う。その問いの前に、どんな理由も色褪せていくような絶対的な重みを感じたのだろう。窓から差し込む光が、その小さな顔に落ちる涙を照らし出した。


 琴葉はゆっくりと──シアへと向き直った。

 ルイから手を離す。それは乱暴というより、もはや"用済み"という色合いだった。不要になったものを捨てるかのような、冷淡で無感動な所作。

 ルイは解放された途端、激しく咳き込んだ。肺にようやく空気が戻ってくる。喉を押さえ、床に膝をつき、苦悶の表情を浮かべながら空気を求めて喘ぐ。


「……あなたもよ。なんで外に出たの」


 琴葉の視線が、今度はシアを捉える。磁石のように引き寄せられ、シアの瞳は否応なくその紅の深淵に吸い込まれていく。


「私っ……ルイを、守りたくて……!」


 シアの声が震えている。かつて見たことのない恐怖が、彼女の瞳に宿っていた。それでも、震える唇から言葉を絞り出す。勇敢さと恐怖が交錯した表情が、彼女の決意を示していた。


「見たところ──あなたに誰かを守れるほどの強さなんてなさそうだけど?」


 琴葉の言葉が、静かに落ちる。淡々としたその声音には、わずかな揺らぎもない。粛清者が下す断罪のような、絶対的な評価。

 シアの体が、わずかに──だが確実に萎縮した。身体の芯から力が抜けていくように、肩が落ち、背が丸くなる。


 今まで、彼女がこんな姿を見せたことはなかった。

 いつも強く、ルイを励まし、立ち上がらせてきたシアが、初めて──琴葉の言葉を受けて、下を向いた。その姿に、ルイは言葉にならない痛みを覚えた。


「魔法が使える……っ」


 必死に、最後の抵抗のように、シアは声を絞り出した。その声には、自分自身を説得しようとする響きさえあった。震える両手を握り締め、最後の勇気を振り絞った叫び。


「……そう」


 短く、乾いた声。



 次の瞬間――



「……ひっ!?」


 シアの短い悲鳴が部屋に響いた。鳥のさえずりすら届く静かな執務室に、その声は異様に鋭く響き渡った。

 ルイが思わず顔を上げる。喉の痛みを忘れ、視線だけがシアを求めた。


 目に映ったのは、琴葉の手。

 その指先が、シアの顎を――正確には、頬骨のすぐ下あたりを掴んでいた。親指と人差し指だけで、雪のように白く細い指が、シアの小さな顔を固定している。

 シアの首は軽く上を向かされ、目が見開かれている。恐怖と痛みが混じったその表情が、容赦なくさらけ出されていた。琴葉の手に抗おうとする力は、既に失われている。

 琴葉の顔には、一切の感情がなかった。その目だけが、じっと、シアの瞳を真っ直ぐに見据えていた。絶対零度の静寂を宿した紅い瞳が、少女の心の奥まで覗き込むように。


「琴葉、やめろ」


 響哉の声。低く、重い。それは――警告のようだった。

 響哉の手が琴葉の手首を掴む。骨張った指が、琴葉の白い腕を強く締め付ける。ゴリ、と関節がきしむ音が微かに響いた。響哉の骨ばった指に、明らかに"琴葉の手首を折ろうとする"力が籠っていた。


 視線だけが、ゆっくりと響哉へ向く。目が合った瞬間、わずかに睨むような色が走る。凍りついた湖面に走る一筋の亀裂のように、その瞳に感情の色が宿った。

 だが――琴葉はシアから手を離そうとはしなかった。


「いいえ、やめない」


 その声も、温度を失っていた。自分の意思を貫くという反抗の声。氷結した意志そのものの具現化。


「こういうふうに、"上"を見てる子はね――心を折ってあげないと、何度でも立ち上がってくるから」


 その言葉に、鋭さも怒りもなかった。ただ、決まりきった処理手順を口にするような、淡々とした言い方。

 響哉の表情が、一瞬だけ曇る。だが、それもすぐに消えた。

 珠桜は静かに目を閉じ、律灯は顔を伏せる。二人とも、彼女の"本意"を知っていた。


 彼女は、決して彼らに危害を加えるつもりはない。彼らを守りたいからこそ、痛みを伴う現実を見せようとしている。

 ――だが、その方法として、これを赦してもいいのだろうか?


 静かな問いが、部屋の隅々にまで満ちていった。

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