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第x話 束の間の陽だまりと冷たき刃の響き

「コホン! さて、気を取り直して……」


 珠桜が一つ咳払いをして場の空気を引き締める。先ほどまでの騒がしさが嘘のように、澄幽の執務室には静寂が戻っていた。


 陽光が斜めに差し込む執務室。その光の筋が、世界中を探し回ってももうこの澄幽にしかない、杉の香りを漂わせる床を照らし、浮遊する塵を金色に輝かせていた。

 光は執務机に座る珠桜の輪郭をやわらかくなぞり、まるで一幅の絵のように彼の姿を浮かび上がらせていた。彼は姿勢一つ崩さず、静かに執務机に向かって座っている。


 彼の後ろには律灯が、物音ひとつ立てぬ静謐な佇まいで、主の影のように控えている。

 窓から忍び込んだ風が、紫檀色の癖ある髪をそっと揺らした。その存在感は、穏やかでありながらも、どこか鋭い緊張感を孕んでいた。


 執務机を挟んだ向かい側――ルイとシアは、子供のように肩をすくめて正座していた。

 ルイの瞳は微かに揺れ、慌てて整えた服の襟元に手が伸びかける。シアは膝の上で指先をきつく絡ませ、まだ幾分青ざめた顔で俯いている。その表情には、いまだに気まずさと緊張が滲み出ている。


 そして、窓際には琴葉と響哉。差し込む光を背に受けながら、静かにそこに佇み、ルイとシアを見ている。その顔は見えにくいが、静かな存在感は部屋全体を支配していた。


「ルイ君も回復して、やっと全員揃ったわけだ――」


 珠桜がそう口にした瞬間、空気が静かに波打った。その声は穏やかだったが、石の底に沈む水のように、どこか芯のある重みを帯びている。

 珠桜の瞳に、深い、深い安堵の色が浮かんでいた。それは、底なし沼のような絶望の中で、かろうじて灯った一筋の光を見たかのように。今にも涙が溢れそうな儚さを宿した表情が、ルイの脳裏に刻まれ、温かな熱を持った。


「改めて……ありがとう。全員、無事に帰ってきてくれて……本当に、ありがとう」


 その一言は、形式的な儀礼ではなく、心の底からの安堵と、言葉にしきれないほどの想いが込められていた。声には強さと同時に、隠しきれないかすかな震えも混じっている。

 何百、何千もの墓標を見続けてきた男の、切実な祈りのような言葉だった。


 ルイとシアは思わず背筋を伸ばし、小さく頷いた。シアの喉が微かに震え、言葉にならない感情が彼女の中で渦巻いている。ルイのライトグリーンの瞳には、かすかな涙の光と共に、確かな決意が灯っていた。


「シア。ルイ君のことを助けに行ってくれてありがとう」

「そ、そんなっ! 私こそ、体が勝手に動いて、飛び出しちゃって……!」


「あのやり取り、何回目だ?」「……さあ。何回目でしょうね」

 窓の方から、琴葉と響哉の間でひそひそと交わされる言葉が、ルイの耳にも届いた。

 シアを見る珠桜の表情には、感謝と同時に、どこか心配を滲ませた複雑な色が浮かんでいる。シアも、どこか居心地悪そうに目を伏せていた。小さな指先が、膝の上の布地をきつく掴んでいる。



 ――もしシアがルイの元へ駆けつけなければ、ルイはもうこの場にはいなかったかもしれない。

 だが、シア自身も危なかった。琴葉、響哉、そして律灯の到着がほんの数秒遅れていたら――


 もし、誰か一人でも欠けていたら。この穏やかな時間は、どれほどの喪失に包まれていたのだろうか。


 その問いは、誰もが心の奥底へと沈めていった。



「律灯。君も、急なことだったのにありがとう」


 珠桜がわずかに肩越しに振り返り、律灯に視線を向けた。そこには感謝と共に、かすかな贖罪の色が浮かんでいる。


「いえ。珠桜様にお仕えすることが僕の使命ですから」


 律灯は静かに目を伏せ、丁寧に言葉を返す。陽光が彼の横顔を照らし、透き通るような青年の美しさを浮かび上がらせている。

 その業務的な態度に、ルイはふと違和感を覚えた。海岸で話したときや、ここへ来る道中で話していたときの律灯は、もう少し柔らかな雰囲気だったはずだ。だが今は、従者としての一分の隙もない姿を見せている。

 迷いのない姿勢。自分の立場を理解し、確固たる芯を持った強さ。――それもまた、かっこいいなと、ルイは思った。外での律灯と、内での律灯。どちらも本物だが、場に合わせた装いを持つ。その身の処し方に、ルイは自分にはない洗練を感じた。


 珠桜は次に、窓際に立つ琴葉と響哉へと視線を向け——ふと、何かに気づいたようにわずかに目を見開いた。

 そして、再びルイとシアへと目を戻す。



「そういえば、二人に彼らをきちんと紹介したことがなかったね」


 そう言って、軽く片手を上げ、ふたりの存在を優しく示した。


「私の大切な従者の一人。夜霧響哉。――もう、付き合いは二十年を超えるかな」


 珠桜がそう言うと、響哉は「ん」と短く相槌を打ち、頬にかかる髪を無造作にかき上げた。その動作に、これといった気負いはない。だが不思議と目を引かれる。彼の静けさの中には、確かに芯の強さが宿っていた。


「律灯の兄でもあるよ。私にとっても……とても大切な存在だ」


 ルイとシアの目が自然と丸くなる。

 なるほど、雰囲気はまるで異なるが、どこか似た空気をまとっていたのはそういうことか――。二人は思わず心の中で頷いた。


 珠桜は言葉を切らさず、そのまま次の紹介へと移る。


「それと――調査部隊、歴代最強。黒華琴葉」

「……」


 その名が告げられた瞬間、琴葉の紅い瞳が静かにルイとシアに向けられた。

 微動だにしない佇まい。まるで、研ぎ澄まされた刃のようだった。透明で、澄み切っていて、そして――残酷なまでに美しい。


「いろいろあって、私が名前を与えた。血のつながりはないけれど……彼女は澄幽にとっても、そして私にとっても、かけがえのない存在だよ」


 珠桜の声には、穏やかさと同時に、揺るぎない信念が宿っていた。

 紹介にしては、どこか重みのある語り口だった。だが、それだけの想いが込められているのが、ひしひしと伝わってくる。丁寧に、静かに、心の奥に届いてくる言葉たち。


「この二人こそが――」


 珠桜が静かに息を吸い、最後の紹介の言葉を紡ごうとした――その瞬間だった。



「……それよりも」



 琴葉の唇が動いたその瞬間、室内の空気が一変した。


 ルイの呼吸が止まった。

 琴葉の声は、到底人のものとは思えなかった。冷え切った刃が骨を削るような、血の通わない響。感情も体温も魂さえも持たない、純粋な"死"そのものが形を成して語りかけているかのようだった。


 深紅の瞳が、ルイを見据える。

 宝石のように美しく、そして——獲物を見定める捕食者のように、容赦なく。その視線の一点一点に殺意が宿り、見つめられるだけでルイの存在そのものが否定されていくような錯覚に陥る。


 ――門前で頭を下げていた琴葉は、幻だったのだろうか。


 今そこに立つのは、触れれば魂まで切り裂かれそうなほど鋭利で、美しさが罪になるほど完璧な——生きた刃そのものだった。



「そろそろ、私と——話しましょうか」



 その声は囁きよりも静かで、刃よりも鋭かった。

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