表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/104

第十五話 邂逅の朝、忘れかけた声に触れる - 3

 響哉に言われた通り、ルイは食事を終えて、そっと立ち上がった。

 まだほんのり湯気の残る器を片付けながら、心の奥に染み込んでいた静かな言葉を、ひとつひとつ確かめるように反芻する――胸のどこかが、少しだけ軽くなっていた。


 扉に手をかける。その木の感触は、思っていたよりも温かかった。


 深く、息を吸う。

 空気を肺に満たし――そして、ゆっくりと扉を開いた。



 ルイは、外に出る。

 まっすぐに差し込む陽の光が、頬をやさしく照らした。目を細めると、風がさらりと前髪を揺らす。


 目の前に広がるのは――当たり前のように、澄幽の風景だった。


 静かな石畳。光を帯びてきらめく木々の葉。風は優しく肌を撫でる感触。すべてが、変わらずそこにある。


(……やっぱり、ちゃんと帰ってきたんだ)


 その実感が、心の奥にじんわりと広がっていく。夢でも、幻でもない。目の前のこの景色が、確かに自分を迎えてくれている。

 風の匂い、光のやわらかさ、足元の感触――五感のすべてが、この世界に"自分が居る"ことを教えてくれていた。



 ゆっくりと歩き出す。目指すのは、澄幽の最奥――珠桜の館がある高台。


 渓谷にかかる細い橋を渡りながら、足元に広がる風景にふと目を落とす。下方からは、水が石を撫でるように流れる音。透明なせせらぎが、澄幽の静けさに優しく溶け込んでいる。

 橋の下、傾斜がゆるやかな場所に、いくつもの墓が静かに並んでいる。

 この場所は、ただ穏やかで美しいだけの場所じゃない。"今"を迎えるために、大勢が命を手放してきた場所でもある。その犠牲の上に立って、生きている――それを、忘れてはならない。


 "試練"に皆を巻き込まないために、何も告げずに澄幽を離れた。愚かな選択だった。最初から、珠桜を頼るべきだった。そのことを、今ならはっきりとわかる。

 胸の奥に、冷たい痛みのような後悔が刺さる。けれど、それでも歩を止めない。


 もう、自分は"頼ることすらできなかった"過去の自分ではない。



 そして広場へ出たとき――


 ふいに視線の先に人の気配を感じ、ルイは足を止めた。

 澄幽の内と外を分ける、大きな門。その前に、ふたつの人影が静かに佇んでいる。朝の光に長く伸びたその影は、まるで時間ごと、風景に溶け込んでいるかのようだった。



「――どこも怪我していないわね。あなたも腕が上がってきたじゃない」


 静かに、澄んだ声が響いた。まるで季節外れの風鈴の音――ひんやりとして、それでいてどこか心を撫でるような、透き通った響き。

 陶器のような白い肌、深紅の瞳、漆黒の髪。白のドレスは、髪を結い上げるリボンと同じ色のコルセットで優雅に整えられ、その上から羽織る黒のジャケットが、彼女の輪郭を際立たせていた。

 彼女が纏う"紅"は、まるで雪原に落ちた一滴の血。あまりにも鮮やかで、震えが起こりそうなほどに美しかった。


(……あの女だ)


 人影の一方は、海岸で、響哉や律灯とともに現れた女だった。刀一振りで、ミレディーナの異能が生んだ、世界を呑み込まんとする津波を断ち切った――ミレディーナを超える、異次元の存在。

 その立ち姿は相変わらず凛として、隙の欠片もなかった。けれど、あの時の戦場で見た彼女よりも――何倍も、何十倍も、今の彼女は柔らかく見えた。


 その声音、しぐさ、風にそよぐ髪の動き。そこには確かに、人の温度が宿っているように思えた。


「ご冗談を。まだ"琴葉様"にも"兄さん"にも、遠く及びません」


 もう一方の人影は、律灯だった。律灯は女――琴葉と呼んだその女性に向かって、柔らかく返す。琴葉へ向ける視線には、尊敬と、ほんの少しの悔しさが滲んでいた。

 風に揺れる癖のある髪。静かに微笑むその表情は控えめだが、深くやさしい。

 先ほどまで言葉を交わした響哉とは違い、律灯の笑みは明るさよりも穏やかさを纏っている。それでも、どちらにも共通しているのは――ルイの不安をそっと癒やすような、不思議な安心感だった。


「それは……当たり前よ。あなたは異能者で、魔法が使えないんだから。それに、得意なことも、役割も違う」


 琴葉の声はどこか淡々としていて、少しだけ棘を帯びていた。けれど、その奥にあるもの――それが"冷たさ"ではないことは、明らかだった。その証拠に、赤い瞳は、一度たりとも律灯から逸れることはない。


「そんなふうに真顔でバッサリ言われると……僕もさすがにちょっと凹みますよ?」


 律灯は軽く肩をすくめて、冗談めかすように返す。けれどその瞳は、優しく笑っていた。

 その笑みに、琴葉の表情がほんのわずか、緩む。ごく微かに――それでも確かに、唇の端が上がった。


 二人の間にある、あたたかな信頼が垣間見えた瞬間だった。


「ふふ。でも、腕が上がってきたのは事実よ。もしあなたが望むなら――響哉ではなく、あなたと共に世界を旅するのもいいかもしれないわ」


 さらりと口にされた言葉に、律灯の目がぱちりと見開かれる。

 一瞬、言葉を探すようにまばたきをして、それから――少し照れたように、髪をかき上げた。


「僕は……珠桜様をお守りしないとですから」

「……そうね。いつも、ありがとう」


 琴葉は静かに、律灯の肩に手を添えた。その仕草には、言葉よりも深い感謝と、信頼が込められていた。



「律灯!」


 思わず声が出た。二人の存在に気づいていながらもただ見つめていたルイだったが、ついに足を踏み出した。


「……! おはようございます、ルイ君。怪我、よくなったみたいですね」


 律灯はわずかに目を見開いたあと、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。その笑顔には安堵がにじんでいて、ルイの胸の奥に温かいものが灯る。

 だが、その隣で琴葉の影が、微かに揺れた。影がふわりと動いたと思ったその瞬間――彼女は律灯の背に、音もなく身を隠した。


「……え?」


 ルイの思考が、わずかに止まる。


(避けられた……? いや、まあ……そりゃ、そう……かもしれないけど……)


 どう受け止めていいかもわからず、頭がスッと冷えていく。

 だが、そんなルイに代わるように、律灯が静かに言葉を紡いだ。


「……琴葉様。彼はもう、"保護対象"ではありませんよ。外に出て、戦って。血も、闘争も、知っている子です」


 その言葉に合わせるように、律灯の服がわずかに引かれるのが見えた。


「だからもう、あなたが"避けたがる対象"ではないと思いますが」


 その言葉の意味は、ルイにはよくわからなかった。けれど、律灯の声音があまりに優しくて、そして真剣で――ルイは自然と息を飲んでいた。


 そして、琴葉がゆっくりと一歩、前に出る。


 静かに、律灯の背から抜け出す。

 滑るように、無音で地面を歩くその姿は、まるで風のようで。近づいてくるというより、景色の一部がこちらへ流れてくるようだった。


 琴葉は、ルイのすぐ目の前まで来ると、ふと立ち止まった。


 背は、ルイよりもわずかに低い。

 視線を少し下ろすと、彼女の深紅の瞳が静かにこちらを見つめていた。


 そして――



「……怪我、痛かったわよね」



 透明な声で、そう言った。ひとつひとつの言葉が、落ち葉のように静かに地面へ降りていく。


「よく、あの異能者を前に耐えてくれたわ。あなたと……あの白い子も」


 "白い子"――シアのことだろうか。


「あなたたちが死ななくて……よかった」


 その言葉に、どれほどの重みが込められているのか、ルイにはわからなかった。ただひとつ、はっきりとわかったのは――琴葉の声が、わずかに震えていたこと。


「助けに行くのが遅くなって、本当にごめんなさい」


 そう言って、琴葉は静かに頭を下げた。

 細い睫毛が伏せられ、目を閉じるその姿は――まるで許しを乞うような、儚さを帯びていた。



 ――その姿に、ルイは衝撃を受けた。


 まるで、頭を殴られたかのように。胸の奥がぐらりと揺れて、言葉が出てこない。

 自分が勝手に飛び出して、勝手に危険に巻き込まれて。それを助けてくれたのは、彼女たちだった。自分の中にあったのは、感謝と、そして謝罪の気持ちだけ。少しも、彼らに落ち度があったなどと考えたことはない。


(……どうして。この人が、謝るんだ?)


 ゆっくりと、琴葉が顔を上げる。

 深紅の瞳が、まっすぐにルイを射抜いた。その眼差しは、何かを伝えようとしていて――でも、言葉にはならなかった。



「…………」


 気まずい沈黙が落ちる。風にそよぐ木々の音だけが、澄幽の静けさの中でゆっくりと揺れている。どう振る舞えばいいのか、ルイにはわからなかった。何を言えばいいのかも見つからない。

 ――そんな空気をやんわりと断ち切ったのは、やはり律灯だった。ルイと琴葉の間にふっと入って、場の温度をほんの少しだけ上げるように、穏やかに声をかけた。


「……ルイ君もしかして、ちょうど珠桜様のところへ向かっていましたか?」


 律灯の声は、明らかに意図して明るくされていた。気まずさをやわらげようとする気遣いが、さりげなく滲んでいる。


「あ、う、うん。さっき、目が醒めて……響哉に、飯をもらってさ。それで、『顔出せー』って言われて……俺も、ちゃんと珠桜さんに謝りたいから。会いに行こうとしてた」


 少し言葉がもつれる。けれど、律灯はそのまま優しく微笑んで、頷いた。


「僕たちもこれから戻るんです。さっきまで"外"に出ていたので、その報告に」

「外に……?」


 ルイは思わず問い返した。"外"というのは、澄幽の外――終末世界のこと。

 今はまだ朝といっていい時間帯。夜の外出はありえないとなると、早朝に出て、今ちょうど戻ってきたということなのだろうか。それほど近くに、また何かの"脅威"が現れたのか――

 嫌な予感が、脳裏をかすめる。だが、律灯の言葉にはそのような非常事態の気配は一切なかった。その穏やかさに、ルイは少し肩の力を抜き、「気にしてもしょうがないか」と小さく頭を振った。


「せっかくですし、一緒に行きませんか? ルイ君と、ゆっくり話したかったんです」


 律灯の言葉には、本当に心からの優しさが込められていた。そこに強制の気配はなく、ただ"共に歩く"ことへの静かな誘いがあった。


 ルイは一度うなずき、三人で澄幽の奥へと続く橋を渡りはじめる。


 足元には、さらさらと水の音。頭上では、葉擦れがやさしく鳴る。澄幽の静けさの中に、それらだけが細く息づいていた。


 ルイと律灯が、何気ない言葉を交わしながら歩く。

 その少し後ろで――琴葉の表情から、ふたたび感情の気配が遠のいていく。まるで波が引くように、音もなく、静かに。


 ――けれど、ルイはその変化に気づけなかった。


 ただ、まっすぐ前を向いて歩く。

 迷いのない足取りで。



(……ちゃんと、全部話すんだ)



 その決意だけを、胸の奥にしっかりと灯しながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ