第十五話 邂逅の朝、忘れかけた声に触れる - 3
響哉に言われた通り、ルイは食事を終えて、そっと立ち上がった。
まだほんのり湯気の残る器を片付けながら、心の奥に染み込んでいた静かな言葉を、ひとつひとつ確かめるように反芻する――胸のどこかが、少しだけ軽くなっていた。
扉に手をかける。その木の感触は、思っていたよりも温かかった。
深く、息を吸う。
空気を肺に満たし――そして、ゆっくりと扉を開いた。
ルイは、外に出る。
まっすぐに差し込む陽の光が、頬をやさしく照らした。目を細めると、風がさらりと前髪を揺らす。
目の前に広がるのは――当たり前のように、澄幽の風景だった。
静かな石畳。光を帯びてきらめく木々の葉。風は優しく肌を撫でる感触。すべてが、変わらずそこにある。
(……やっぱり、ちゃんと帰ってきたんだ)
その実感が、心の奥にじんわりと広がっていく。夢でも、幻でもない。目の前のこの景色が、確かに自分を迎えてくれている。
風の匂い、光のやわらかさ、足元の感触――五感のすべてが、この世界に"自分が居る"ことを教えてくれていた。
ゆっくりと歩き出す。目指すのは、澄幽の最奥――珠桜の館がある高台。
渓谷にかかる細い橋を渡りながら、足元に広がる風景にふと目を落とす。下方からは、水が石を撫でるように流れる音。透明なせせらぎが、澄幽の静けさに優しく溶け込んでいる。
橋の下、傾斜がゆるやかな場所に、いくつもの墓が静かに並んでいる。
この場所は、ただ穏やかで美しいだけの場所じゃない。"今"を迎えるために、大勢が命を手放してきた場所でもある。その犠牲の上に立って、生きている――それを、忘れてはならない。
"試練"に皆を巻き込まないために、何も告げずに澄幽を離れた。愚かな選択だった。最初から、珠桜を頼るべきだった。そのことを、今ならはっきりとわかる。
胸の奥に、冷たい痛みのような後悔が刺さる。けれど、それでも歩を止めない。
もう、自分は"頼ることすらできなかった"過去の自分ではない。
そして広場へ出たとき――
ふいに視線の先に人の気配を感じ、ルイは足を止めた。
澄幽の内と外を分ける、大きな門。その前に、ふたつの人影が静かに佇んでいる。朝の光に長く伸びたその影は、まるで時間ごと、風景に溶け込んでいるかのようだった。
「――どこも怪我していないわね。あなたも腕が上がってきたじゃない」
静かに、澄んだ声が響いた。まるで季節外れの風鈴の音――ひんやりとして、それでいてどこか心を撫でるような、透き通った響き。
陶器のような白い肌、深紅の瞳、漆黒の髪。白のドレスは、髪を結い上げるリボンと同じ色のコルセットで優雅に整えられ、その上から羽織る黒のジャケットが、彼女の輪郭を際立たせていた。
彼女が纏う"紅"は、まるで雪原に落ちた一滴の血。あまりにも鮮やかで、震えが起こりそうなほどに美しかった。
(……あの女だ)
人影の一方は、海岸で、響哉や律灯とともに現れた女だった。刀一振りで、ミレディーナの異能が生んだ、世界を呑み込まんとする津波を断ち切った――ミレディーナを超える、異次元の存在。
その立ち姿は相変わらず凛として、隙の欠片もなかった。けれど、あの時の戦場で見た彼女よりも――何倍も、何十倍も、今の彼女は柔らかく見えた。
その声音、しぐさ、風にそよぐ髪の動き。そこには確かに、人の温度が宿っているように思えた。
「ご冗談を。まだ"琴葉様"にも"兄さん"にも、遠く及びません」
もう一方の人影は、律灯だった。律灯は女――琴葉と呼んだその女性に向かって、柔らかく返す。琴葉へ向ける視線には、尊敬と、ほんの少しの悔しさが滲んでいた。
風に揺れる癖のある髪。静かに微笑むその表情は控えめだが、深くやさしい。
先ほどまで言葉を交わした響哉とは違い、律灯の笑みは明るさよりも穏やかさを纏っている。それでも、どちらにも共通しているのは――ルイの不安をそっと癒やすような、不思議な安心感だった。
「それは……当たり前よ。あなたは異能者で、魔法が使えないんだから。それに、得意なことも、役割も違う」
琴葉の声はどこか淡々としていて、少しだけ棘を帯びていた。けれど、その奥にあるもの――それが"冷たさ"ではないことは、明らかだった。その証拠に、赤い瞳は、一度たりとも律灯から逸れることはない。
「そんなふうに真顔でバッサリ言われると……僕もさすがにちょっと凹みますよ?」
律灯は軽く肩をすくめて、冗談めかすように返す。けれどその瞳は、優しく笑っていた。
その笑みに、琴葉の表情がほんのわずか、緩む。ごく微かに――それでも確かに、唇の端が上がった。
二人の間にある、あたたかな信頼が垣間見えた瞬間だった。
「ふふ。でも、腕が上がってきたのは事実よ。もしあなたが望むなら――響哉ではなく、あなたと共に世界を旅するのもいいかもしれないわ」
さらりと口にされた言葉に、律灯の目がぱちりと見開かれる。
一瞬、言葉を探すようにまばたきをして、それから――少し照れたように、髪をかき上げた。
「僕は……珠桜様をお守りしないとですから」
「……そうね。いつも、ありがとう」
琴葉は静かに、律灯の肩に手を添えた。その仕草には、言葉よりも深い感謝と、信頼が込められていた。
「律灯!」
思わず声が出た。二人の存在に気づいていながらもただ見つめていたルイだったが、ついに足を踏み出した。
「……! おはようございます、ルイ君。怪我、よくなったみたいですね」
律灯はわずかに目を見開いたあと、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。その笑顔には安堵がにじんでいて、ルイの胸の奥に温かいものが灯る。
だが、その隣で琴葉の影が、微かに揺れた。影がふわりと動いたと思ったその瞬間――彼女は律灯の背に、音もなく身を隠した。
「……え?」
ルイの思考が、わずかに止まる。
(避けられた……? いや、まあ……そりゃ、そう……かもしれないけど……)
どう受け止めていいかもわからず、頭がスッと冷えていく。
だが、そんなルイに代わるように、律灯が静かに言葉を紡いだ。
「……琴葉様。彼はもう、"保護対象"ではありませんよ。外に出て、戦って。血も、闘争も、知っている子です」
その言葉に合わせるように、律灯の服がわずかに引かれるのが見えた。
「だからもう、あなたが"避けたがる対象"ではないと思いますが」
その言葉の意味は、ルイにはよくわからなかった。けれど、律灯の声音があまりに優しくて、そして真剣で――ルイは自然と息を飲んでいた。
そして、琴葉がゆっくりと一歩、前に出る。
静かに、律灯の背から抜け出す。
滑るように、無音で地面を歩くその姿は、まるで風のようで。近づいてくるというより、景色の一部がこちらへ流れてくるようだった。
琴葉は、ルイのすぐ目の前まで来ると、ふと立ち止まった。
背は、ルイよりもわずかに低い。
視線を少し下ろすと、彼女の深紅の瞳が静かにこちらを見つめていた。
そして――
「……怪我、痛かったわよね」
透明な声で、そう言った。ひとつひとつの言葉が、落ち葉のように静かに地面へ降りていく。
「よく、あの異能者を前に耐えてくれたわ。あなたと……あの白い子も」
"白い子"――シアのことだろうか。
「あなたたちが死ななくて……よかった」
その言葉に、どれほどの重みが込められているのか、ルイにはわからなかった。ただひとつ、はっきりとわかったのは――琴葉の声が、わずかに震えていたこと。
「助けに行くのが遅くなって、本当にごめんなさい」
そう言って、琴葉は静かに頭を下げた。
細い睫毛が伏せられ、目を閉じるその姿は――まるで許しを乞うような、儚さを帯びていた。
――その姿に、ルイは衝撃を受けた。
まるで、頭を殴られたかのように。胸の奥がぐらりと揺れて、言葉が出てこない。
自分が勝手に飛び出して、勝手に危険に巻き込まれて。それを助けてくれたのは、彼女たちだった。自分の中にあったのは、感謝と、そして謝罪の気持ちだけ。少しも、彼らに落ち度があったなどと考えたことはない。
(……どうして。この人が、謝るんだ?)
ゆっくりと、琴葉が顔を上げる。
深紅の瞳が、まっすぐにルイを射抜いた。その眼差しは、何かを伝えようとしていて――でも、言葉にはならなかった。
「…………」
気まずい沈黙が落ちる。風にそよぐ木々の音だけが、澄幽の静けさの中でゆっくりと揺れている。どう振る舞えばいいのか、ルイにはわからなかった。何を言えばいいのかも見つからない。
――そんな空気をやんわりと断ち切ったのは、やはり律灯だった。ルイと琴葉の間にふっと入って、場の温度をほんの少しだけ上げるように、穏やかに声をかけた。
「……ルイ君もしかして、ちょうど珠桜様のところへ向かっていましたか?」
律灯の声は、明らかに意図して明るくされていた。気まずさをやわらげようとする気遣いが、さりげなく滲んでいる。
「あ、う、うん。さっき、目が醒めて……響哉に、飯をもらってさ。それで、『顔出せー』って言われて……俺も、ちゃんと珠桜さんに謝りたいから。会いに行こうとしてた」
少し言葉がもつれる。けれど、律灯はそのまま優しく微笑んで、頷いた。
「僕たちもこれから戻るんです。さっきまで"外"に出ていたので、その報告に」
「外に……?」
ルイは思わず問い返した。"外"というのは、澄幽の外――終末世界のこと。
今はまだ朝といっていい時間帯。夜の外出はありえないとなると、早朝に出て、今ちょうど戻ってきたということなのだろうか。それほど近くに、また何かの"脅威"が現れたのか――
嫌な予感が、脳裏をかすめる。だが、律灯の言葉にはそのような非常事態の気配は一切なかった。その穏やかさに、ルイは少し肩の力を抜き、「気にしてもしょうがないか」と小さく頭を振った。
「せっかくですし、一緒に行きませんか? ルイ君と、ゆっくり話したかったんです」
律灯の言葉には、本当に心からの優しさが込められていた。そこに強制の気配はなく、ただ"共に歩く"ことへの静かな誘いがあった。
ルイは一度うなずき、三人で澄幽の奥へと続く橋を渡りはじめる。
足元には、さらさらと水の音。頭上では、葉擦れがやさしく鳴る。澄幽の静けさの中に、それらだけが細く息づいていた。
ルイと律灯が、何気ない言葉を交わしながら歩く。
その少し後ろで――琴葉の表情から、ふたたび感情の気配が遠のいていく。まるで波が引くように、音もなく、静かに。
――けれど、ルイはその変化に気づけなかった。
ただ、まっすぐ前を向いて歩く。
迷いのない足取りで。
(……ちゃんと、全部話すんだ)
その決意だけを、胸の奥にしっかりと灯しながら。




