第十五話 邂逅の朝、忘れかけた声に触れる - 2
その時――カタン、と乾いた音が、静かな部屋の空気を優しく震わせた。
扉が、わずかに開く。木の軋む音すら、どこか柔らかく聞こえた。
「……お。起きてる」
低く、落ち着いた声。淡々とした調子ながらも、どこか温かみを含んだ響き。
「おはよ。ルイ君」
扉の向こうに立っていたのは――響哉だった。
律灯と同じ、癖のある紫檀色の髪が、肩のあたりでゆらりと揺れる。耳上の髪だけ無造作に後ろでまとめられていて、あくまで自然体。その佇まいは、戦場で見た時の印象とそう大きく変わらなかったが、改めてこうして間近に見ると、律灯とどこか共通する雰囲気があることに気づかされる。
だだ、まず瞳の色が違った。律灯の瞳は、髪と同じく深い紫檀色。けれど響哉の瞳は、淡い銀灰色。魔法を使っている時とは違い、少し陰りを宿したような眼差しに、思わずルイの肩がわずかに強張る。
それと、それ以上にインパクトがある大きな違いとして――
記憶の中の響哉は、戦場で片袖の和装風の戦闘着をまとい、荒々しさと風格を滲ませていた。その時から感じていたが。
今、彼が着ているのは、ぴったりと身体に馴染んだ黒のハイネックインナーに、動きやすそうなラフなズボン。無駄に飾らないシルエットの服が、逆にその肉体を際立たせていた。
おそらく、あの巨槌を軽々と振るうために鍛え上げたのだろう――隆々とした筋肉が、布の上からでもはっきりと見て取れる。力強く、厚みのある肩まわりから胸板にかけてのライン。自然体で立っているだけなのに、圧倒的な存在感がある。
……デカい。
何がとは言わないが、とにかくデカい。
ルイは、自分の体を見下ろし――少しだけ、悲しくなった。
(……珠桜さんに鍛え方を教えてもらおうかな)
「……ルイ君、もしかしてさっきまで泣いてた?」
「な゛あっ……聞こえて……!?」
ルイの顔が、一瞬で真っ赤になった。ルイ自身も、それを感じている。頬が熱くなって、心臓がどくんと跳ねた。
慌てて目元に手をやる。涙ならちゃんと拭いたはず、いや、泣き声が漏れていた……?
「目が赤い」
淡々と、けれどどこか愉快そうに、響哉が口元を緩める。ニヤニヤと、明らかにからかっている顔だったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
響哉が背後の扉を片手で軽く閉める。大きな音を立てないように、静かに、ゆっくりと。その仕草にも、どこか優しさがにじんでいた。
その手には、いくつかの物が収まっていた。
湯気の立つ食事のトレー。
綺麗に整えられたルイの戦闘服。
そして――新品のように修復された、ルイの双銃。
どれも、ひとつひとつ丁寧に扱われていて、言葉にせずとも、響哉の気遣いが伝わってくる。
彼はテーブルの上にそっと銃と食事を置き、最後に服だけを軽く片手で放ってきた。「ほい」なんて軽いノリで。だがその力加減は投げるのではなく、やはり"渡す"という感覚だった。
ルイは反射的にそれを受け止める。
柔らかな布地が手のひらにすっとなじむ。ミレディーナとの戦いで血にまみれ、焼け焦げ、ボロボロだったはずの服が――今は、まるでおろしたてのように、清潔で、丁寧に整えられていた。
誰が直してくれたのかは聞かなくてもいい。その事実だけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ふと、部屋の中に漂う香りが、ルイの鼻をくすぐった。
立ち上る湯気に乗って、ふわりと届く香ばしい匂い。空腹を思い出し、きゅう、と小さく胃が鳴る。
けれど――それ以上に、胸の奥があたたかいもので満たされていた。
少し照れくさくて、でもあたたかくて。思わず口元が緩んでしまうような、そんな気持ち。
そんな時だった。
「死ぬかもしれないっつーのが怖かった?」
静かに落ちてきたその声は、外で聞いたよりも一段低く、柔らかな響きを含んでいた。
彼は窓辺に腰を下ろしていた。外の景色に視線を向けながら、身体はルイの方へほんの少しだけ傾けている。非難や急かす様子は一切ない。ただ、そこにいる――いてくれている。寄り添うような、静かな気配だけが、しっかりと感じられた。
「……そう、です」
ルイは俯きがちに答えた。情けなさと悔しさ、それにほんの少しの恥ずかしさが混じって、声がかすれる。
乾ききらない涙の跡が、まだ頬に残っているのがわかる。熱がこもって、触れればすぐにわかるくらいに。
「なんで急に他人行儀なんだ? 敬語、いらねえよ」
響哉は肩をすくめ、片方の口角を軽く吊り上げる。にっと笑ったその顔は、どこか悪戯っぽくて、でも妙に安心感があった。
「死を恐れることは悪いことじゃない。むしろ――死を恐れるその気持ちを忘れるな」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の中の空気がほんのわずかに震えたように感じた。
いつの間にか、響哉の声色が変わっていた。
飾り気のない、けれど真っすぐで、深く沈んだ声。まるで、魂の奥に直接語りかけてくるようなその言葉が、ルイの胸の内にすっと入り込む。
優しさだけじゃない。戦ってきた者だけが持つ、重みと説得力がそこにはあった。
風が、窓の隙間からそっと入り込み、カーテンをふわりと揺らす。光がその揺れに合わせて、床の上に淡い模様を描いた。
その室内の空気がほんの一瞬だけ呼吸を止め、ルイのためにその言葉の行き先を見守っているようだった。
「……これ、俺との約束。いいな?」
窓辺から振り返り、響哉がルイをまっすぐ見つめる。その銀灰の瞳には、冗談ひとつない真剣さが宿っていた。
彼の頬にかかる――その部分だけ、白く色素が抜けている髪が風に揺れ、かすかに光を反射してきらめいた。唇の端は少しだけ下がり、表情は静かで――それでもその瞳には、確かに優しさが宿っていた。
軽口を叩くことも、曖昧に流すこともできたはずなのに――今の彼は、ただまっすぐに、ルイの心を見据えている。
「っ、な……なんで。死を恐れてたら、足が竦むだろ」
ルイは思わず眉をひそめ、服の端をぎゅっと握りしめた。その指先には、知らず知らずのうちに力がこもっており、声も自然と強くなっていた。
その感情の揺れを、響哉は否定するでもなく、黙って受け止めていた。
窓辺に腰を下ろしたまま、淡く笑う。けれどその笑みはどこか空虚で、まるでずっと昔から同じやり取りを繰り返してきた人のような、妙な静けさをまとっていた。
「ンー? 死にてぇなら別にいいけどさ」
さらりと落とした言葉は、あまりにも軽い。冗談のように聞こえる。
けれど、その軽さの裏にある"意味"が、空気の色を変える。
「ルイ君って――生きてたいんだろ?」
その一言に、ルイの呼吸が一瞬止まった。
「だったら、"命を捨ててもいい"って判断する頭より、"命を繋ぐために、無様にでももがける"頭でいたほうがいい」
語りかけるような口調。けれど、そこに説教くささは一切ない。
響哉は言葉を飾らない。ただ、自分の中にあるものを、そのまま外に出しているだけだった。まるで、それが"当たり前"であるかのように。
「逃げてもいい、泣いてもいい。足が竦んでも、情けなくても。――命はそこにあるだけで、十分価値があるもんだ」
窓の外から、温かな風がゆっくりと吹き込んでくる。薄いカーテンがはらりと揺れ、陽の光が室内の空気を柔らかく染めた。
その静けさの中にあって、響哉の言葉だけがやけに強く、真っすぐに響いた。
響哉はふっと小さく息を吐くと、ゆるやかに視線を窓の外へと戻した。
風にそよぐ木々の葉が、かさりと音を立てる。遠くで鳥の鳴き声がかすかに重なる。すべては幻想であっても、心地いいそれに、意識を傾ける。
「……そういう、生きたいと願う全部を守るために、俺とアイツがいるんだしな」
何気ない口ぶりだった。
でもその言葉の奥には、揺るぎない"信念"のようなものが確かにあった。
ルイはその言葉に、ただ黙って耳を傾けた。
響哉の言う"アイツ"――あの黒い女のことだろう。
名前も、正体も、何もわからないまま。けれど、彼女もまた、澄幽のために戦っていることは痛いほど伝わってくる。
戦う理由を語らず、背中だけで示す彼らの姿は、ルイの心に静かに根を張っていた。
だからこそ、気づけば言葉がこぼれていた。
「それならアンタは……響哉は、どうなんだ」
一拍、間を置いて。
「生きていたいって思うことは? ……その、逃げたくなることも、あるのか?」
それは素直な疑問だった。
そして――ほんの少し、願いに近かったのかもしれない。
響哉はその問いに、肩をすくめるようにして、ゆるく首を傾けた。
「ンー、それはねえ……」
ちらりとこちらを見てから――片目を閉じる。
「ナイショ」
「……は?」
あまりに予想外な答えに、ルイは間の抜けた声を漏らす。
響哉はくくっと笑い、ふざけるように言葉を継いだ。
「はっはー。俺がどう思ってるかなんて、ルイ君には関係ないでしょ」
そう言いながらも、その笑みはどこか優しかった。
軽く、冗談めいていて――それでも嘘ではない、そんな不思議な響きを持っていた。
「大事なのは、お前がどうしたいか。それだけ。俺は、それを守る」
――それがこの男の在り方だった。
沈黙が、二人の間にふたたび落ちた。
けれど、それは重いものではなかった。ただ風が通り抜けるような、穏やかでやさしい静けさ。
部屋の中を吹き抜けた春の気配が、カーテンをふわりと揺らした。
やがて、響哉はゆっくりと腰を上げた。その立ち上がる動作にさえ、一切の無駄がない。柔らかく、静かで、それでいてどこか凛としたものが宿っていた。
「……うっし」
軽く背伸びをひとつしてから、ルイを振り返る。その表情はさっきまでの厳しさとは違って、どこかおどけたような、兄貴分らしい緩さがあった。
「それ食ったら、珠桜さんのとこ顔出し行けよ。いいな?」
軽やかな声色。けれど、その奥には変わらないあたたかさがあった。
それを受け取って、ルイは小さくうなずく。
不思議と、胸の奥がじんわりと温かくなる。何かが、ゆっくりと溶けていくような感覚だった。
すると響哉は、唐突にルイへと歩み寄り――
その時――響哉が、ふいに歩み寄ってきた。
何の前触れもなく、手を伸ばすと――
ぽすり、と。ルイの頭に、大きな手のひらが優しく触れた。
その手は、不器用で、どこかぎこちなくて。
けれど、確かに温かかった。
指先が髪をそっと撫でるたび、心に張りつめていたものがゆっくりほどけていく。
その重みに、ルイは思わず目を閉じそうになる。
「頑張ったな」
たったそれだけ。
けれど、それ以上の言葉なんていらなかった。
響哉はそれだけを残し、ゆっくりと背を向けると、扉の向こうへと消えていった。足音さえも静かで、まるで風のように、気配だけを残していく。
けれど、その一言は確かに――ルイの心に、深く、あたたかく、届いていた。
ふたたび静かになった部屋の中。ルイは、まだ温もりの残る頭にそっと手を添える。その感触が、胸の奥をじんわりとあたためてくれる。
窓から差し込む光が、ゆるやかに部屋を照らしている。テーブルの上の食事からは、まだ湯気が立ち上っていた。
ルイは、もう一度深く息を吸った。
澄んだ空気を、肺いっぱいに取り込む。命の温もりが、体中にじわじわと広がっていくのを感じる。
――ちゃんと、生きてる。
その実感が、胸の奥をそっと照らしてくれた。
この部屋を満たす静けさは、孤独ではない。
それはきっと――これから続く"生"の気配だった。




