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第十五話 邂逅の朝、忘れかけた声に触れる - 1

 ――慣れ親しんだ、柔らかくて、温かくて、どこまでも澄みきった空気。


 それは、目に見えるわけでも、音として聞こえるわけでもなかった。ただ、そこに"在る"ということが、はっきりと伝わってくる。

 肺いっぱいに吸い込んだ空気が、胸の奥に優しく染みこんでいく。ゆっくりと息を吐くと、まるで心までほどけていくようだった。


 まぶたの裏に、ふわりと光が差し込む。春の陽だまりのような、柔らかく揺れる光。まるで水面のようにきらきらと瞬いている。静かで、優しくて、決して無理に目覚めを促すことのない、まるで「もう大丈夫」と語りかけてくるような、そんな光だった。


 ルイは、ゆっくりと目を開けた。

 見慣れた天井が、視界に広がる。乾いた木の香りが、ほんのりと鼻先をかすめた。


 ああ、知ってる。知ってるこの感じ。ずっと前からここにいて……ずっと前にここを離れたように感じる。

 ――でも今また、ちゃんとここにいる。


 背中を支えるのは、ふわりとした寝具の感触。羽のように軽く、やさしく包まれる安心感。そのぬくもりに、思わずもう一度目を閉じてしまいそうになる。けれど、ルイはそっと目を開けたまま、天井を見上げた。



 どれくらいそうしていただろう。


 時間の流れも、音も、全てが遠く、ゆるやかだった。まるで世界が息を潜めて、ルイが目覚めるのを待っていたかのように。


 やがて、意識がゆっくりと身体へ戻っていく。

 手のひらに、ほんの少し力をこめてみる。指が動いた。

 次に、腕に。そして足へ。血がめぐる感覚が、じわじわと戻ってくる。重たくもなく、痛みもなく。まるで生まれたばかりのような、清らかな静けさの中で、身体が目覚めていく。


 何もかもが、夢のようだった。でも――夢ではない。



 現実だった。

 ここにいる。帰ってきたのだ。


 静かに、言葉がこぼれた。


「……帰ってきた」


 それは、誰に向けたわけでもない、ただの呟き。

 でも、そのひとことが、まるで魔法のように空間に滲み、静けさの中にほのかな温もりを灯した。


 澄んだ幽かな光――澄幽に。


 この場所に、生きて――帰ってこられた。



「……っ!!」


 喉の奥で、何かがせり上がってきた。込み上げる感情に、ルイは思わず肩をすくめ、震える腕で自分自身を抱きしめる。

 鼓動が、強く、確かに胸の奥を打っていた。張りつめていたものがひとつ、またひとつとほどけていく。


 体温があった。息が、熱を持っていた。頬を伝う涙さえ、あたたかかった。


 それは、紛れもない“生”の感覚。存在しているという、何よりも強い証だった。



 夢じゃない。幻でもない。

 本当に――ここにいるんだ。



「……っ、よかった……っ……!!」


 ぽろり、と。ひと粒の涙が静かに頬をつたうと、こらえていたものが堰を切ったように、次々とあふれ出していった。

 目が熱くなり、視界がにじむ。けれど、それでも構わなかった。涙を拭おうとも、止めようとも思わなかった。


 思い返す。


 ――突然、すべてが失われた"狭間"に引き込まれた瞬間を。

 その中で、体が金に灼かれ、作り変えられて。確かにあの時、一度、自分は終わったのだと思う。


 それと同時に、"試練"が始まった。


 洞窟で目が醒めて、目の前にシアがいた。

 でも、立ち上がるのが怖かった。もう一度、生きるのが、怖くてたまらなかった。でも、彼女を失うこと、彼女が傷つくことも――また、怖くて。

 それなのに、怖さから逃げるように、たくさん酷いことを言った。彼女を傷つけた。自分でもわかっていたのに、止められなかった。

 それでも――彼女は見捨てないでくれた。どれだけ突き放しても、シアはしがみついて、離れてくれなかった。離れないでいてくれた。


 二人で、星骸とも戦った。全力で、全力で。生き延びたくて。シアを守りたくて。

 ミレディーナとの戦いだってそうだ。何度も何度も、死を意識するたびに「生きたい」と、「守りたい」と、心の奥からそう叫んで、全力で足掻いた。


 このたった数日が、あまりにも長かった。永遠にも感じられるほどの時間だった。果てしなく続く闇の中を、もがきながら進み続けた時間だった。



 ここを一人で出た時、戻ってくるつもりはなかった。

 自分の命と引き換えに、この場所を守る――それが、唯一できることだと信じていた。帰れないことが当然だと、自分に言い聞かせていた。それでいいと思っていた。


 なのに――



「死にたくない……まだっ……俺は……!」


 誰にも聞かれたくなくて。震える指で布団を口元に押し当てて、声を殺す。ベッドの上で、小さく小さく身を縮めながら、ルイは嗚咽をこぼした。



「それでいい」と、思おうとしていただけで。

 本当は――生きることを諦めたくなかった。


 まだ、やりたいことがある。叶えたい願いが、守りたい約束が、たくさんある。

 守りたい人がいる。自分を守ろうとしてくれる人が、いる。


 本当に、もう二度と澄幽に戻ることなく、どこか遠い場所で朽ちていくのだと、覚悟していた。

 ――でも、そんな結末を、本当に望んでいたわけがなかった。


 自分が覚えている時間の、ほとんどを過ごしてきたこの場所。終末の世界で、多くの犠牲の上に、それでも守り抜かれてきた――この澄幽で。

 みんな、もういない。でも、みんな、大好きだった。生きている珠桜さんのことも、律灯のことも。ここで出会った人たちも、風の匂いも、光も、空気も――全部が、大切だった。この場所と、人が、大好きだった。

 離れたかったわけじゃない。本当は、ずっと――ここにいたかった。


 戦いの果てに、すべてを失う覚悟もした。

 ――でも、それが揺らがずにいられるほど、自分は強くなんてなかった。弱くて、無力で、情けなくて。何もかも、駄目だった。

 命も、大切な人も、失う覚悟なんて、できるわけがない。死ぬのは怖い、失うのも怖い。何もかも怖くて、だから――逃げるように、覚悟を決めた“ふり”をしていた。

 一人で背負うなんて、そんなこと、できもしないくせに。誰にも迷惑をかけずに済むと思っていたのに、結局は、余計に迷惑をかけた。



(……もっと、強くなりたい)


 心の奥に、小さく、けれど確かに灯る願い。



 もう、こんな思いはしたくない。


 死ぬかもしれないなんて、怯えなくて済むくらいに、強くなりたい。

 守りたいと思ったものすべてを、わがままだと誰に言われても、叶えられるだけの力が欲しい。

 もし本当に、何かを背負わなければならない日が来たとしても――ちゃんと立ち向かえる、自分になりたい。


 その願いが、やがて熱を帯びていく。押し込めようとしても、こみ上げてくる感情が、また一筋の声になって、漏れた。



「……悔しい……っ」



 自分はこうして、今、光の下にいる。


 それは――シアがいてくれたから。珠桜がいてくれたから。

 そして、最後の最後で、世界の終焉を食い止めた、響哉と律灯、そしてあの黒い女剣士がいてくれたから。



 ふと、窓の向こうから差し込んだ陽射しが、ルイの頬をやさしく照らす。それはまるで――「もう大丈夫」と、慰めてくれているようだった。

 ルイは鼻をすんとすすり、涙をぐいと手の甲で拭った。



 泣くのは――もう、終わりにしよう。彼らなら、きっとこうして泣いたりはしない。

 いや、もしかしたら泣いたとしても、それでも前を向いて、立ち上がるのだろう。



 なら、自分も。少しでも彼らに追いつけるように。

 いつか彼らのように、誰かを守れる強さを持てるように。


 今はまだ、届かなくても。

 それでも、前に進みたい。



 ――それに、きっと"試練"は終わっていない。



「……よし」


 小さな声で、でもしっかりと、自分に言い聞かせるように呟いた。ルイは拳をぎゅっと握りしめ、ゆっくりと体を起こす。

 その動きはまだ少しぎこちなく、決して力強いものではなかった。けれど、そこには確かに――歩き出そうとする意志が宿っていた。

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