第十四話 孤独に沈む消えざる願い - 2
世界の終わりの中で、彼女は静かにミレディーナの気配を探っていた。
吹き荒れる風。焼け焦げた大地。大気に満ちる異能のざわめきが、世界の輪郭を塗り潰していく。
異能の力で書き換えられている自然現象を、魔法で防ぐことはできても、正すことはできない。ただ、同じ異能で対抗するとして、彼女が持っている"力"を使うべきは、現象一つ一つに対してではない。
――代償で、自分が失われる可能性もある。それらを生んだ"根"に向かってのみ、力は使うべきだ。それを理解していた彼女は、何もせずにそこにあることを選んだ。
この現象をどうにかするのは、共に連れてきた"二人"の役目。
役割分担。それ以上でも、それ以下でもない。
目を閉じ、周囲に魔法障壁を展開する。触れるもの全てを切り裂く、不可視の風が渦を巻く。
防御ではない。排除の結界――外界からの干渉を拒絶する、静かな意思。
冷気が周囲を支配し、しばらくして遠方からマグマが湧きあがり、熱が迫る。
寒さと熱がぶつかり合う狭間で、彼女の表情は微動だにしない。魔法での対抗すら、しない。
肌に刺さるはずの寒さも、火傷するはずの熱さも、彼女は何も感じない。
――そして、空気が震える。視界が開けた。
上空から、鋭い視線を感じた。だが彼女は一瞥すらくれなかった。どうせ"いつものように"、忌々しそうにこちらを睨んでいるんだろう。でも、それでいい。そういう関係だから。
――湧き出たマグマの一切が消えた。
周囲の地形が、音もなく消されたものが存在しない世界で、本来あるべき姿に整えられていく。
彼らはきちんと、役目を果たした。
彼女の視線が、異形と化した異能者の姿を捉える。
"粒子"がその体から絶えず漏れ出し続けている。その姿が"変異体"と酷似していることに――彼女はすぐに気付く。
(……あら、そうなることもあるのね)
呟くことなく、心の奥で、ただそう理解した。
代償に溺れ、消滅するのではなく、昂り溢れた力が肉体の枠を壊し、人間ではない存在へと昇華させた。
それは恐ろしい変化のはずだった。本来ならば、拒絶すべき"逸脱"のはずだった。
けれど――彼女の目には、どこか魅力的な可能性として映っていた。
理を破壊し、肉体の限界を超え、個の定義すら崩して。なお、そこに"生きている何か"が残っているのだとしたら――それは、新しい"人間の形"ではないのか。
彼女は、一歩だけ近づく。その人間という形に収まりきれなくなった存在に対し、わずかな興味を携えて。
少し、会話を交わした。
言葉が通じたかどうかは、問題ではなかった。意味のやりとりがあったかどうかさえ、彼女にとっては二の次だった。大事なのは、「観測できた」という事実だけ。
そのやりとりの中に、憐れみも、同情も、怒りもなかった。彼女はただ、静かに向き合い、等しく"観た"。
なぜなら、ミレディーナはまだ、彼女の"守るべきもの"を奪っていなかったから。
――だが、今後もそうとは限らない。ルイとシアは、本当に紙一重だった。
ミレディーナは"脅威"であり――排除すべき対象であることは間違いない。
だから、今回もまた――
「――来い、《絶刃》」
その声に応えるように。
――闇そのものを削り取ったような、異質な刃が、静かに顕現する。
黒い。ただ黒い、という言葉では説明できない。
全てを呑み込む絶対の闇。光すら寄せ付けず、存在するだけで世界を切り裂くような――絶対の刃。
風が止まる。音が死ぬ。その刃の前では――すべてがひれ伏すしかない。
――彼女の掌を通して、温かい何かが脈打つ。珠桜の異能の気配。
この刃は――珠桜から託されたもの。「守るため」の力。
世界は途方もない絶望に包まれている。
理をねじ曲げ、命を弄ぶ異能。人間の命など、塵芥のように消し去られていく。
彼女は、それに幾度となく立ち向かい、そして、幾度となく――敗れてきた。
何千回も、目の前で人が死んでいった。守りたいと願った命が、想いが、あっけなく砕かれていった。
そのたびに、悔いた。そのたびに、胸を焼かれた。
"まだ、足りない"――そればかりを繰り返して。
だから、願った。
「もう誰も、失いたくない」と。
澄幽を、守りたい。その一心で、珠桜に縋った。
そして――この力を、授かった。
後悔は一つもない。
異能者を殺し、
魔法士を殺し、
星骸を殺す、日々。
それは、私の"誇り"。
澄幽を守る。そのために、私は今日もこの刃を振るう。
世界を正すのではない。救いたいのは、世界そのものではない。
私が守りたいのは、ただひとつ。
澄幽という、小さな“世界”。
そこに息づく、大切な人々が、どうか――幸せであり続けますように。
それが、彼女の、ただひとつの信念だった。
――一閃。
斬った、のではない。
ただ、撫でただけだった。
けれど――それだけで。
異形の身体は、音もなく、横一文字に裂けた。
抵抗もなく。悲鳴も、怒りも、なかった。
ただ静かに、彼女が振るった刃の軌道に沿って、背後の海までもが沈黙のまま裂かれていた。
波は割れ、空は黙し、時さえも呼吸を止めたかのように動きを止めて――
そして、ゆるやかに、水の壁が沈んでいく。
身体も、異能も――存在も。
そのすべてが、静謐のなかで――断たれた。
《天弓》――万物を時間から切り離す弓。
《暴槌》――万物を構成単位へ分解する槌。
そして、《絶刃》――万物を断ち斬ることを許された刀。
それぞれが、ひとつの"結果"を拒絶する。
時間、構造、存在。
この世界を形づくる理への、明確な反逆。
これらは、珠桜の異能の力だ。だが、珠桜自身はそれらを使うことができない。
珠桜自身は"制約"により、この武器の力を引き出せない。それができるのは、彼が"託した者"だけ。
だが、一度他人の手に渡れば、その力は二度と珠桜のもとには戻らない。それもまた、厳格な制約だった。
使えば、代償がある。代償を払うのは、使用者自身。それでも――律灯も、響哉も、そして彼女も構わなかった。この世界で願いを叶えるために、この力が、必要だった。
それが――覚悟。
それが、珠桜に付き従う者であるということ。
力を託した珠桜にとっても。
力を託された彼らにとっても。
この力には、ただの戦いを超えた、祈りにも似た想いが込められている。
――澄幽を守るために。
終末を越え、その先の"未来"へ辿り着くために。
彼らは、命を燃やしている。
◇◆◇
――沈黙。
風が、わずかに吹いた。
冷たく、鋭く――場に残された余韻すら、断ち切るように。
海を静かに見つめていた女が、漆黒の刀を手放す。刀は空気に溶けるように、音もなく消えていった。
そして――振り返る。ゆるやかに、しかしまっすぐに。その足取りには、一片の迷いもなかった。
彼女の視線の先にあるのは――ルイたち、四人の姿。
「よく耐えたわね」
一歩、一歩と歩みを進めながら、低く、静かな声が続く。
「それだけは……褒めてあげる」
砂浜に、横たわるルイ。治療は済んでいるが、まだ動ける状態ではない。
その隣では、シアが腰を抜かし、砂の上に崩れ落ちるように座り込んでいた。肩が震えている。声も出せない。言葉を返す余裕は、さすがに残っていなかった。
律灯は、変わらず二人のそばにいた。だがその前で、響哉が彼女の方へと顔を向ける。
「早く帰って正解だったな」
淡々と、だがどこか静かな皮肉をにじませながら、響哉が口を開いた。
女は、ちらりと視線を寄越す。そして、そのまま無感情に告げる。
「……腕。不自然」
その声には、責める色も、心配もなかった。ただ淡々と、"事実"を告げる口調だった。
その言葉に、すぐに反応したのは律灯だった。ルイに使った治療道具を再び取り出し、響哉の不自然に垂れた左腕を手早く固定する。骨の軋む音が、かすかに響いた。
「そんなこと言ったらお前もぼーっとしてる」
響哉がやや眉をひそめつつ言う。その口調は軽いが――その目には、鋭い観察の色が宿っていた。それに対して、女はその言葉にほんのわずかに眉を顰めて「お互い様よ」と返す。
交わされるのは、短い言葉ばかり。けれどその裏にあるものは、たしかに伝わっている。互いの疲労も、判断も、そして――信頼も。
女は次に、ゆっくりと視線を律灯へと向ける。その表情をしばし見つめたあと、やわらかく問う。
「……律灯は、平気?」
「はい。大丈夫です」
律灯は静かに頷いた。笑みもつけ加えず、ただ、静かに。現状のひとつとして、淡々と語るだけの、いつも通りの穏やかな声だった。
女はそれを確認すると、わずかに目を細めた。
「……よかった」
その一言は、小さな安堵とともに。
彼女の唇から、すっと息が漏れる。
「……久しぶりに、"終末"って感じがしたわね」
さらりと告げるその言葉に、律灯が小さく苦笑した。
「そんなに軽く受け止めないでもらっても?」
けれど、女は肩をすくめて言う。
「だって、"派手なだけ"で、このくらいなんとかできるもの」
あまりにも自然に。まるで、嵐を片手でいなすように。
その声音は冗談めいていた。だが――冗談には聞こえなかった。
ふ、と影が差す。
視界の端に揺れるのは、黒い髪。そして、すっと差し出される一筋の手。
細く、しなやかで、確かな温度を帯びたその手が、まるで水面に触れるように、そっとそこにある。
その奥――
深紅の瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。
射抜くような鋭さではない。ただ、静かに。まるで、生きていることを――確かめるように。
「……大丈夫?」
それが、あまりに優しくて。
そして――あまりにも、強かった。
その強さに――安心してしまったのだろうか。
突然、ふっと、目の前が暗くなる。瞼が、すとんと落ちた。
遠く、深い場所へ。ゆっくりと、意識が引きずられていく。
戦いは――終わった。
世界の終焉も――静かに、その幕を下ろした。
災厄をもたらしたミレディーナの命は、今度こそ、本当に――終わったのだ。
そんな確信が、心の奥に、静かに灯る。




