第十三話 終焉を穿つ桜の意志 - 4
第十三話 終焉を穿つ桜の意志
1 - 2025.5.18 18:00
2 - 2025.5.19 18:00
3 - 2025.5.20 18:00
4 - 2025.5.21 18:00
5 - 2025.5.22 18:00 投稿予定
6 - 2025.5.23 18:00 投稿予定
となります。次回もぜひ、よろしくお願いいたします。
「る、い……」
かすかな声が、ふと耳に届いた。彼女のまどろみのなかで名を呼ばれたルイが、シアへ意識を向ける。隣で、もぞりと微かな動き。空気をかき混ぜるように、微弱な気配が立ち上がった。
――シアが、静かに体を起こし始めていた。
震える睫毛がぴくりと揺れ、まぶたが重そうに開かれる。
意識の淵から這い上がるその瞳は、混濁した光を宿しながら、次第に澄んだ色を取り戻していく。頬にはまだ土埃が残り、乾いた血が涙筋のように頬を伝っていた。その痛ましい痕跡が、つい先ほどまでの死線を静かに物語っていた。
上体をぎこちなく起こし、か細い指先で目元をこする。まだ、自分がどこにいるのかすら把握できていない――そんな様子だ。
「大丈夫ですか、シアちゃん」
律灯の声は医師の如く冷静でありながら、兄のような温かさを秘めていた。彼女の安否を確認するその目には、深い安堵の色が浮かんでいる。それは先ほど、ルイに向けられたものと同じ、温かい眼差しだった。
ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、シアは視線を彷徨わせる。最初に目が合ったのはルイだった。彼の姿を認めた瞬間、かすかに安堵の色が宿る。だが、次に視線は律灯へ、そしてさらに――無言で外を見つめる響哉へと移っていく。
その顔を初めて見たとき、シアの表情が一瞬で強張った。
「あ、あの……あれ?」
彼女の声は、目覚めきらない意識の中から絞り出されたように掠れていた。言葉になりかけた疑問が、混乱の中で形を失う。意識を取り戻し始めたばかりの脳が、状況を理解しようと徐々に働きはじめようとしていた。
響哉はシアの声に反応して、ちらりと振り返る。そして。
「ああ、起きたのか。……おはよう、"シアちゃん"」
その一言に、ルイとシアの間で、空気が固まった。
穏やかで、それでいて低く芯のある声。冗談めいた軽さの裏に、底知れない包容力と――漂っている、大人の余裕。
その瞬間、シアの目がぱちくりと見開かれる。ルイも思わず息を呑み、動きを止めてしまう。
"シアちゃん"という呼び方――律灯がよく使うそれとは、まるで別物だった。さらっとした声音に、妙な色気が混じっていて、胸の奥をくすぐられるような不思議な感覚。
二人は、目を合わせることもできず、それぞれの内側で静かに爆発していた。思考はぐらつき、心臓だけが勝手にバクバクと騒いでいる。この状況で、どうしてこんなにもドキドキしてるのか――理由もわからないままに。
その様子を察したのか、律灯がふうっと軽く息をつきながら、半目で響哉を睨んだ。
「……二人に無駄な刺激を覚えさせないでくれる? 響哉」
「は? どういう意味」
振り返った響哉は、まったく悪びれた様子もなく、素で首を傾げていた。その飄々とした態度がまた、腹立たしいほどに心臓を殴りつけてくる。
胸を押さえていたシアの視線が、不意に外へと引き寄せられる。
そして、響哉の背後。障壁の外に広がる世界を捉えた瞬間――シアの意識が一気に覚醒した。
「……えぇぇえええええっ!?!?」
シアが悲鳴のような声を上げ、障壁の外に広がる黙示録めいた光景に目を見開く。その表情には、恐怖と混乱、そして自分が今、何かとてつもないものの渦中にいる――という認識が、鮮やかに刻まれていた。
「なっなななな、えええぇぇえええええ!?!? なにこれえええ!?!? 壁!? えっ、さっきまで砂浜だったよね!?!?」
裏返った声が、障壁の内側に高く響き渡る。律灯は、そんな彼女の手をそっと取り、「落ち着いて」と、穏やかな声で諭した。
その声は、まるで荒波の中を照らす灯台の光のように、シアの揺れる心に静かな輪郭を与えていく。彼女の肩の震えが、ゆっくりと落ち着いていくのが見て取れた。
その様子を見て、ルイは不思議と穏やかな笑みを浮かべていた。
あらゆる理が崩れ、正気すら揺らぐこの終末の只中でも――シアだけは、変わらずにそこにいた。
その輝きは、いかなる混沌にも染まることがなかった。
「大丈夫ですよ。それより……見てましたよ、さっきの魔法。すごく綺麗でしたね」
律灯が柔らかな笑みをたたえ、そう告げる。シアは一瞬、ぽかんとした表情を浮かべ、そして――
「り、律灯さん! そういえば、どうしてここに……!?」
驚きと安堵、混乱と再会の喜びがないまぜになった声が、弾けるように口をついて出た。
――グシャアッ!!!!
唐突に障壁が微かに揺れた。ほんの一瞬のことだった。次の瞬間――
視界が一瞬歪んだ。そののちに、彼らは突如として空中に浮かんでいた。
障壁の外に広がっていたのは、もはや"風景"と呼べるようなものではなかった。
外界は視界を奪われるほどに荒れ狂い、雪と氷と砂、そして灰色の霧が、空間そのものをぐちゃぐちゃに塗り潰していた。白、灰、黒、時折赤みを帯びた光。それらがぐるぐると混ざり合い、濁流のように流れ続けている。
衝撃はないが、風が巻き上げる砂と氷片は、鋭くとがった刃となって周囲を引き裂き、障壁の外を叩き続けていた。そして、その混濁の中を――雷が閃く。
ドンッ――!
雷光が障壁の外を真昼のように照らし出す。だが次の瞬間には、再び闇が押し寄せる。その繰り返し。
光と闇、光と闇。まばたきをする暇もなく、視界が明滅を繰り返し、視神経が悲鳴を上げる。強すぎる光。速すぎる変化。それが視覚という感覚そのものを破壊しようとしていた。
「……うわ、これだと一気に視界が鬱陶しいな」
そんな地獄のような光景を前にしてなお、響哉はぽつりと、あまりに平然とした口調で漏らした。竜巻の渦、混ざり合う雪と氷と砂塵、閃光と闇の明滅。それらすべてを真正面から見据えながら、彼の目は揺らがない。むしろ、どこか退屈そうでさえあった。
あまりに落ち着いたその声と、魔法障壁による完璧な防護。シアは一瞬、錯覚する。
『……もしかして、本当に大したことじゃないのかも』
そう思ってしまいそうになるほど、彼の態度には余裕があった。
だが、これまでに感じた恐怖、味わった痛み――それらが、確かに"現実"であることを、身体が覚えている。
これは冗談でも、気のせいでもない。世界は、確かに終わりかけている。
「......こればかりはさすがに"使っていい"と思うけど、やりすぎないでね」
律灯の言葉は、警告とも、懇願ともつかない静かな声だった。けれどそこには、彼なりの"覚悟"が滲んでいるように、ルイとシアは感じた。
「わかってる」
響哉の返答は、簡潔で――深かった。まるで、何度も繰り返された会話の続きのように自然で、揺るぎない。
彼は静かに息を吐き、それから一歩、ゆっくりと前に出る。魔法障壁の内側から、外の混沌へ――世界の終わりへと、その背を向けて歩み出した。
その瞬間、彼の輪郭が、渦巻く雪と砂、光と闇の混濁の中に、すっと溶けていく。まるで最初からそこにはいなかったかのように、姿が掻き消えた。
「……!」
思わず体を起こしかけたルイの肩を、律灯の手がそっと押さえた。その手のひらには、穏やかさと共に、確かな力があった。
「大丈夫です、ルイ君。あの人もまた――僕たちとは、ちょっと次元の違うところにいる人ですから」
次の瞬間。障壁の内側にいても、確かに感じた。
世界が震えた。空気も、大地も、時間すらも――"理の根幹"が揺さぶられた。
肌が粟立ち、心が捕らわれ、世界が一瞬で沈黙する。
――そして、すべてが"塵"になった。
「……え?」
シアがかすれた声を漏らす。
今の瞬間、世界を覆っていた暴風も、豪雨も、氷雪も、雷光も――終末のありとあらゆる災厄が、冗談のように霧散していた。
魔法障壁の外でも轟音は消え、振動も、重圧もない。ただ空気だけが、震えの名残を微かに抱いて、静かに漂っている。
開けた視界のその中心に――響哉の背中があった。
その手に、先ほどまではなかった"何か"が握られていることに、ルイとシアは気付く。
――金と漆黒の二色が渦を巻くように混じり合った、巨大な槌。現実に存在する道具とは明らかに異なる。
ルイはその槌の周りに、無数の輝きが集まっているのを見た。ミレディーナの異能によって作り出された竜巻の中で見た、星のような輝きを放つ粒子と同じ。それが槌のまわりに吸い寄せられるように集い、脈動している。
(……異能だ)
ルイは即座に理解した。あれはただの武器ではない。あの槌そのものが、力を宿している。
――それだけならよかった。ルイのあの双銃と同様に、澄幽の異能技術者が作ったものなら合点がいったのに。
(……違う。あれは、"あの人"が作った武器じゃない)
気配が、まるで別だった。ルイの持つ武器とは、根本から異なる。重く、深く、どこか異次元から呼び寄せられたかのような、世界から逸脱した感じ。加えて――
「……み、お……う……さん?」
かすれた声で、ルイがぽつりと呟く。律灯の表情が、その一瞬、わずかに揺れた。
あの巨槌に集まる粒子から、ルイは珠桜の気配を感じ取った。柔らかく、温かく、それでいて凛とした、研ぎ澄まされた力の気配。"守る"という意思が形になったような、あの人だけが持つ気配が――槌に、確かに宿っている。
「……な、なんで……」
シアが、息を呑むように言葉を吐いた。けれど、疑問の続きを紡ぐことができない。
――異能者は魔法が使えない。
それは、この世界の絶対的な前提。異能と魔法は両立しない。ひとつの身体には、どちらかしか宿らない。
なのに、目の前の男は――その両方を、当然のように使っている。
異能の武器と、魔法の行使。それらを同時に成立させる存在など、本来ならあり得ない――あり得ていいはずがない。
世界のルールを、彼はあっさりと踏み越えている。その理解が追いつかないまま、ただ、呆然と響哉の背中を見つめるしかなかった。
――だが。
「……あらら」
律灯が、まるでお茶をこぼした時のような調子で呟いた。
――地上が、燃えていた。




