第十三話 終焉を穿つ桜の意志 - 2
第十三話 終焉を穿つ桜の意志
1 - 2025.5.18 18:00
2 - 2025.5.19 18:00
3 - 2025.5.20 18:00 投稿予定
4 - 2025.5.21 18:00 投稿予定
5 - 2025.5.22 18:00 投稿予定
6 - 2025.5.23 18:00 投稿予定
となります。次回もぜひ、よろしくお願いいたします。
その声は、痛みの枠を超えて、ただの無意味な喚き声だった。
ミレディーナの心が砕け落ちる音。異能者としての絶対的な自信が、音を立てて崩れていく。世界を操れると思っていた者が、突如として世界の理に引き戻された瞬間の断末魔。
全身が震え、まるで世界そのものが揺れているかのような錯覚の中で、ミレディーナは失った右腕を押さえ、激しく身をよじる。心が壊れていくのを止められず、叫びは嗚咽とも悲鳴ともつかない、濁った声へと変わっていく。
脳内で衝撃が炸裂し、全身が痙攣する。痛覚は共鳴し、波のように体中を駆け巡った。
(なぜッ!?!? なにが――!!!!!!!)
その思考さえも、もはや意味を持たない。脳がただただ痛みに支配され、何も考えられなくなる。
喉が裂けても――その衝撃だけを、叫ぶしか――
ふと、ルイの視界に黒い影が揺らめいた。
痛みと絶望の深淵に沈んでいたルイの意識が、微かな異変に反応する。
終焉の闇に、一筋のかすかな光が差し込んだように思えた。ルイは、まるで意識の狭間から引き戻されるように、ゆっくりと瞬きをする。耳鳴りと痛みの向こう側から、現実世界へと引き戻される感覚。
そして、目を開けたその瞬間――
黒く、深く、静かに――
風に靡く白いドレスの裾が、ひとひらの羽のように空を切り、淡い陽光に透けて舞う。それはまるで、重力の法則すら拒むように――音もなく、ただ美しく、ただそこにあった。
呼吸が遠のいた。心臓の音すら、どこか別の場所に置いてきたような錯覚。絶望という名の鎖がふと断たれ、色を失っていた世界に、鮮やかな命の気配が一瞬で戻ってくる。
わずかな光すら飲み込んで、静かに煌めく漆黒の髪。それが血のように濃い深紅のリボンで、丁寧に結い上げられていた。その姿は荒廃した風景の中で、あまりにも非現実的な美しさを放っている。
肌は、雪よりも白く、磨き抜かれた硝子のように透き通って見えた。淡い光の揺らぎが、内側で儚く明滅しているように思える。まるで人ではなく、人の形を借りた何か別の存在のように。
手に携えた銀白色の刀には、桜の刃紋が精緻に刻まれている。それはまるで、春が命の形を模して咲いたもののように、美しかった。刀身からは、まだ新鮮な血が滴り落ちている。先ほど、ミレディーナの腕を断ち切った証が、静かに、そして確かに残されていた。
見知らぬ女が、何の前触れもなく、まるで夢の断片が紛れ込んだかのように現れた。――まるですべてが「ただの日常のひととき」であるかのように、平然と立っている。
「……あら」
その声が、空気を震わせた。けれど、それは"音"というにはあまりに静かで、あまりに澄み切っていた。
耳朶に触れたのは、まるで水晶が音もなく砕ける瞬間のような、繊細で、無機質な残響。
一言で、世界の空気が変わった。死と絶望に満ちた荒野に、澄んだ空気が吹き込む。
その声が、ミレディーナの内側に冷たい震えを巻き起こす。狂気と怒りに満ちていた表情が、一瞬で凍りつき、恐怖という名の感情が浮かび上がる。
「あなたも、痛みを感じることがあるのね」
それは問いではなかった。彼女の声に込められたのは、好奇でも、嘲りでもない。
ただ、氷の中に封じられた静謐な観察者のような、温度のない"理解"。言葉の裏には、鋼のような冷たさがあった。
ミレディーナの視線が、ゆっくりと"影"に吸い寄せられる。焦点が、その存在にピンと合った瞬間――
世界が、再び壊れる。
――次の瞬間、再び空気が震えた。まるで世界が歪んだかのような、異質な揺らぎ。それはミレディーナが生み出すものとは違うように感じた。
揺らぎのあとルイの視界に飛び込んできたのは――見慣れた顔だった。ぼやけていてもわかるほどの至近距離に、その顔がある。
「ルイ君、無事ですか?」
その声に、息が止まる。心臓が跳ねた。
癖のある紫檀色の髪、同色の瞳。そこにいたのは――澄幽に残っているはずの律灯だった。謎の女の登場による衝撃がまだ冷めないうちに、また新たな驚きが彼を襲う。
不意に緊張が緩む。張り詰めていた神経が、たった一言で、まるで糸が切れたように緩んだ。
(……珍しい。珠桜さんの護衛があるから……外には、出ないのに)
心の中でふとそんな思いがよぎり、ルイはその安堵を感じつつも――すぐにその感情を押し込めた。
安堵に浸っている場合ではない。この状況はまだ終わっていない。むしろ――律灯が自ら戦場に現れたことこそ、異常だった。彼が動くということは、それだけ事態が深刻だということだ。
彼自身も"出る"しかない、ということ。この終末の地に、澄幽の中枢である律灯が姿を現したという事実の重みが、ようやくルイの意識に沈み始めた。
「……こんなに傷だらけになって」
律灯は静かに、手にしていた鞄を開く。中には、包帯、テープ、滅菌ガーゼ、軟膏――応急処置に必要なものが過不足なく揃っていた。
その手つきに迷いはなかった。流れるような所作。的確で、落ち着き払っている。戦場という異常な空間の中で、彼だけが"日常"を保っているようにさえ見える。
まだ、戦いは終わっていないのに。爆発的な怒りに包まれたミレディーナの叫びが宙を震わせているのに。それでも律灯は、まるで平和な澄幽の診療所にいるかのように淡々と処置を施していく。
「さすがに待って」と思っても、ルイの喉からは何も声が出ない。血の味が口の中に広がり、体の痛みが再び意識の表面に浮かび上がってくる。ただ、処置を受け入れることしかできなかった。
ふと、視界の端で白い絹糸がふわりと揺れるのが見えた。
――隣に、仰向けに、シアが横たえられていた。
(シア……!)
その名を心の中で呼ぶだけで、胸が締め付けられるような感覚がした。
彼女は目を閉じていた。ただ、その表情に苦悶の色はなく、静かな呼吸に合わせてその胸が上下している。まるでただ疲れて眠っているだけのように、穏やかだった。
思考が一瞬で、彼女に染まった。胸を締めつけていた恐怖が、ふわりとほどける。
――彼女は、生きている。それだけで、ルイの心に、一筋の光が差し込んだ。
たった今まで味わっていた絶望が、まるで悪い夢だったかのように遠ざかっていく。
しかし――次の瞬間、その光がわずかに揺らぐ。
シアを抱えていたのは、見知らぬ男だった。
(……誰だ?)
その男は、無造作とも言える手つきでシアの体を支えていたが、その鍛え上げられた肉体から放たれる圧力に、ルイは即座にただ者ではないと直感した。彼の体格は、ルイよりも二回り、三回りも大きく感じられる。
男の存在に、ルイは警戒心を抱きつつも――どこかで、何かが引っかかった。
(……同じ髪色。律灯に似ている気が――)
その瞬間。
――バチバチッ!!!
空を裂いた稲妻は、紫電の鞭となって世界を駆けた。瞬く間に天が破れ、続く雷鳴は、まるで天地そのものが悲鳴を上げるかのような轟きとなって大気を震わせる。その一拍遅れて届く衝撃が、大地の深層を揺さぶり、空気の粒子ひとつひとつが共鳴するように耳を刺した。
胸を締めつける感情は、これまでのどんな絶望とも異質だった。理由も言葉も要らなかった。本能が警鐘を鳴らしていた。
――世界が終わる。
"偶然"でもなく、ミレディーナの明確な意志によって、世界が終ろうとしている。
世界を織り成していた理の網が、一本、また一本と断ち切られていく。
だが、それは単なる破壊ではない。崩れた場所には、新たな糸が織り込まれていく――異なる形、異なる法則、異なる世界観で。
ルイは視界の歪みに目を凝らした。
理が軋み、この世界が"それまでの世界"と異なる何かに変わっていくその瞬間を――狂気すれすれの理性で必死に捉えようとしていた。
「おおっ」
シアを抱きかかえていた男が、短く声を上げる。しかし――その声には、焦りも困惑もなかった。
異常を前にしたというよりは、ただ「珍しいもの」を目にしたときの、感情のこもらない、底の見えない声色。
その時。
天が――本当に崩れ落ちた。




