第十三話 終焉を穿つ桜の意志 - 1
「…………あ、あ……小賢……ぃ」
ミレディーナの声は震え、怒りが滲んでいた。
言葉がところどころで途切れる度に、ルイの息も止まる。彼女の吐息の合間に宿る鋭い痛みが、まるで自分のものであるかのように感じられた。言葉と言葉の間に漂う甘く鉄さびめいた血の匂いが鼻をつき、胃液を逆流させる。
ルイの視界はぼやけ、焦点が合わない。世界の輪郭が溶け始め、色彩が失われていく。全てが灰色に歪み、遠く薄い幻のように感じられた。
体は動かない。一片の筋肉すら従わない。まるで自分の体ではなく、粘土で作られた人形のようだ。肺は火を吹き、骨は粉々に砕け散ったかのような激痛が全身を覆っていた。
再び立ち上がったミレディーナ。それが、幻であってほしかった。これが現実ではないと。狭間のあの体験と同じように、目が醒めたときに、全てなくなっていてほしかった。
本当の、絶対的な限界がきている。
心は叫んでいた。誰かを呼んでいた。でも声は出ない。血の味が喉を埋め尽くし、呼吸すら苦しかった。
「これ、では……ファロン様に……お会い、できないじゃ……な……い゛……ッ!!」
その言葉が終わると同時に――
――ガンッ!!!!
鈍い衝撃音。その音は骨の髄まで響き渡った。灰色の視界が一瞬、血の色に染まる。
次の瞬間、ルイの体が砲弾のように吹き飛ばされた。何かを理解する暇すらない。目の前で火花が弾け、そして自分の血が傷口からさらにあふれることを無意識に感じ取る。まるで別人の身体で起きている出来事のように遠く感じられた。
痛みが最高潮に達すると、逆に何も感じなくなった。ただ、体が崩壊していくことだけを感じていた。
「――カ、ッ」
世界が回転する。上下左右の概念が崩壊し、宙を舞う感覚すら正確に捉えられない。
次の瞬間には地面に叩きつけられていた。骨が砕け、肉が裂ける。体が勢いよく転がり、何度もバウンドして――やがて無惨にも投げ捨てられた人形のように停止する。
喉の奥から這い上がる吐き気と共に、口中に熱い鉄の味が広がった。
――それは、命の味だった。漏れ出る命の味。
(…………蹴られた? ……誰に?)
答えはどこにもない。考える力さえも、失われつつあった。全てが霞み、現実の輪郭すら掴めなくなる。
意識を保とうと必死に抵抗するが、それさえも徒労のように思えた。瞼が重くなり、閉じようとする。暗闇が心地よく、痛みからの解放を約束しているかのように誘う。
それでも、最後の力を振り絞って必死に顔を上げる。視界は回転し続け、空と地面の境界さえ判然としない。暗い渦に飲み込まれそうになる中――
――"それ"が、残酷なまでに鮮明に見えた。
首を掴まれ、宙吊りにされたシアの姿。
(……どうして)
小さな体が、無力に揺れている。まるで折れた花のように。
彼女の体を支えているのはミレディーナの腕だけ。白い指先が、あまりにも残酷に、シアの首に食い込んでいる。
(……狙っていたのは俺のはずだろ)
血の気が引き、冷たい恐怖が全身に広がる。息をするたびに刺すような痛みが内側から肋骨を貫くが、それすらも遠い感覚になっていく。
シアが無防備に吊り下げられている。ここまで共に戦ってきた相棒。自分を全力で救ってくれた、大切な存在。
その細い首が、残酷な指に締め付けられて。彼女の唇は青ざめ、小さな体がかすかに痙攣していた。
絶望が、痛みを超えて全身を満たした。世界の終わりよりも、遥かに恐ろしい光景だった。
骨の髄まで染み込む無力感。指一本動かせない。声一つ上げられない。ただ、自分の弱さと限界を知るだけ。
心臓の鼓動も、風の音も、自らの呼吸さえ消えた。視界がぼやけ、周囲の音が遠くなり、ただシアの小さな体が無力に揺れる光景だけが、鮮明に残る。
あんなに強く、煌めくように輝いていた彼女の魔法は今、どこにもない。ルイに勇気を与えてくれた微笑みも、どこにもない。
あれほど凄まじかった戦いのすべてが、今は無意味な抵抗でしかなかったのだと、痛感した。
時間が引き延ばされていく感覚。
何もできないことを、本能が拒んで、血が混じった空気がせり上がってくる。這い上がるそれは、絶望の嗚咽か、あるいは最後の抵抗の叫びか――
だが、それだけ。それを吐き出す力もない。ただ、無力に震えるだけ。
粉々になった希望の欠片が、意識の果てで灰になっていく。
(俺は……何をしていたんだ)
頭の中が真っ白になる。戦い方を教えてくれた珠桜の顔も、支えてくれた律灯の声も、今は遠い記憶のようにしか感じられない。
割れた地面に頬をつけたまま、ただ見ている。止めることも、助けることもできない現実を。
何のために鍛えてきたのか。何のために生きてきたのか。
全てが無意味に思えた。
そして――
「――死んで詫びろ、小娘ぇぇえええええ゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛ッッッッッ!!!!」
ミレディーナの絶叫が、音を裂くように響き渡る。
大気が震え、地面が揺れる。怒りと狂気を孕む災厄の化身となった彼女の声は、世界そのものを壊しかねないもののように思えた。
シアが終わる――その瞬間が、目の前に迫る。
ルイは瞼を閉じることもできなかった。恐怖で硬直し、心が凍りついていた。
最後まで何も――何一つできない自分。
救えなかった自分。
弱すぎる自分。
それが、この瞬間のルイの全てだった。
鮮烈な、赤。
吹き飛ぶ鮮血が、空気を切り裂く。灰色の世界に咲いた、禍々しい花のように。
シアの体が、重力に引かれるようにして、ドサッと音を立てて地面に落ちた。無言のまま、砕けた氷と砂の上に。
その音が、まるですべての音を吸い込むような沈黙に変わる。
そして――続けて、もうひとつ。
――軽い音が、地面に転がる。
ポタン、ポタンと血の雫を撒き散らしながら、何かが砂の上を転がっていく。まるで世界の歯車が外れ落ちていくように。その音が、空気を震わせ、全ての動きが止まる。
ミレディーナは、それを見た。
見開かれた瞳がそれを捉えたその瞬間から――その表情は、歪んでいった。
先ほどまで、シアの首を掴んでいた右腕。
"そのはずだったもの"。
――そこには、なかった。
「…………?」
言葉が出ない。理解の壁が、ミレディーナの思考を砕く。彼女の顔から血の気が一気に引き、蝋人形のように青ざめる。
(……………………何が起きたの?)
時間が歪み、脳内で言葉が崩れ落ちていく。頭がぐるぐると回り、世界が真っ白に、そしてゆっくりと暗くなっていく。
ミレディーナの目が、恐怖に見開かれる。瞳孔が針の穴ほどに縮む。
砂の上に転がった、自分の腕。まだ痙攣している指。シアの首を掴んでいたはずの、自分の右腕。そして、それが本来あるべき場所を、ゆっくりと見て――
肩から先、綺麗に切断された右腕の断面。鮮血が噴き出す様を、まるで他人事のように眺める。
――あまりにも、遅く感じた。まるで時間が引き裂かれるように感じた。
その感覚が脳に到達するまで、一世紀ほどの時間がかかったかのように。
その瞬間。
「――――――ッッッッッ!!!!!!!!」
叫びが、もはや言葉としての形を持たない。
鼓膜を引き裂き、世界のすべての音を打ち消すような、破滅的な響きが耳を貫く。
――雷鳴のような、狂気を宿した叫びが、空気を震わせて響き渡る。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アアアアアアァァァァァァァッッッッッ!!!!!!!!!!!!」
第十三話 終焉を穿つ桜の意志
1 - 2025.5.18 18:00
2 - 2025.5.19 18:00 投稿予定
3 - 2025.5.20 18:00 投稿予定
4 - 2025.5.21 18:00 投稿予定
5 - 2025.5.22 18:00 投稿予定
6 - 2025.5.23 18:00 投稿予定
となります。次回もぜひ、よろしくお願いいたします。




