第十二話 空のキャンバスに描くは希望の花 - 2
シアの体が、宙に投げ出される。
落ちていく。シアの体が、力なく空を舞う。
余韻すら許されず、彼女の体を重力が引き寄せる。
「シア……っ!」
世界が静止したかのように感じた。ルイの瞳にはシアの落下する姿だけが映る。
声を絞り出す前に、体が動いていた。彼の全存在が、ただ一点――彼女に向かって突き動かされる。
足りない。届かない。
ルイは躊躇なく銃を構えた。一発、また一発と引き金を引く。反動で体が弾かれるたび、わずかずつ彼女へと近づく。銃身が熱を帯び、手のひらを焼くほどに。それでも構わず、何度も何度も撃ち続ける。
「死なせない――絶対に、死なせない……!」
肉を切り裂く痛みすら、彼の意識を彼女から逸らせない。
血の味が口に広がる。肺が悲鳴を上げる。それでも、ただただ腕を、想いを、魂の全てを伸ばし続ける。
「絶対にもうッ――離さない!!」
その言葉は誓いであり、祈りであり、世界への宣言だった。たとえこの先に何が待っていようと――シアの手だけは、二度と離さない。
そして――
指先が触れた。
掴んだ。
細い腕を。
引き寄せ、抱き締める。
かすかに伝わる、温もり。
生きている。
……生きている。
シアも。自分も。
それだけで、胸の奥がぐしゃぐしゃになる。
「……った……よかった…………!」
か細い声で、ルイはシアの耳元で囁いた。彼女が聞こえているかどうかもわからなかったが、それでも伝えずにはいられなかった。
しかし――その安堵も、すぐに飲み込まれる。
地面が、怒涛の勢いで迫ってくる。
思考よりも先に、ルイは銃を構えた。残された銃弾で、わずかでも落下の勢いを殺すために。
銃を向け、トリガーを引いた。だが――ブレた。
ほとんど手に力が入っていなかった。腕も、体幹も。もう体のどこにも、力が込められない。
この銃自体も、もう限界だった。何度も何度も想定とは違う使い方をして、損耗し、壊れたかもしれない。
反動は生まれた。落下の勢いをわずかに相殺する。だが、それだけでは足りない。
地面が、恐ろしいほどの速さで迫ってくる。ルイの目に、ひび割れた大地の細部さえ見えるほどに近い。
(……ああ、死にたくないな)
(――シアと、もっと一緒にいたい)
腕の中の小さな体を、さらに強く抱きしめる。
(彼女と、また澄幽で過ごしたい)
目を閉じず、迫りくる地面を見据えたまま、背中をわずかに回転させる。シアが下敷きにならないように。最後の力を振り絞って、彼女を守る姿勢を取る。
(生きて、いられるといいな……二人で)
胸が熱くなる。視界が滲む。これが涙なのか、それとも死の予感なのか。
最期の思考が、優しく心を満たす。
(せめて、彼女だけは……生きて……)
――衝撃。
地に叩きつけられる。世界がぐらつき、視界が白く塗り潰される。
血を吐きながら、それでも――ルイは、腕の中に抱え込んだ小さな体を、絶対に、離さなかった。
両腕で、強く、強く――抱き締めた。
砕けてもいい。潰れても、裂けても、何も残らなくても――それでいい。
彼女だけは。
この命が壊れても、かまわない。
彼女だけは、守りたかった。
共に、生きたい。
でも、それが叶わないなら、せめて彼女だけは――
(……シアだけ、は)
彼女の体温が、確かに腕の中にある。
そのことだけが、今、彼をこの世界に繋ぎ止めていた。
出会った日のことを思い出す。
あの時も、彼女を守るために必死だった。
あれからどれだけの時が流れたのだろう。自分は変わったのだろうか。わからない。
――いや、でも。一つだけ確かなことがある。
シアを守りたいという気持ちは、初めて彼女を見た時から、少しも変わっていない。
そして――
世界が、静かになる。
風も、音も、光さえも、遠くなる。
ふと。初めて、ルイは思った。
(外、なのに……温かい)
それが、シアの魔法によってもたらされた、淡い陽光のせいなのか。
それが、自分の体から流れだしすぎた温い血のせいなのか。
それとも――
今もまだ、確かに生きているシアが、腕の中にいるからか。
わからない。
ただ、ひとつだけ確かだったのは――
ここに残ったぬくもりと、張り裂けそうな鼓動が、
まだ"生"の名残を、宿していたということ。
(……終わった……んだよな)
思考はまとまらない。頭はぼんやりして、世界がどこか遠い。けれど、ルイは、そう――思った。
空には、まだ砕け散った氷の欠片が煌めいていた。まるで星のように、美しく。
あれほど壮大で、あれほど圧倒的な魔法を、自分は見たことがなかった。シアの魔法は――力強くて、輝かしくて、“絶対に”勝利を決定づけるものだった。
(……あれで、倒せないわけがない。)
そう思った。そう、信じていた。
そうでないと、駄目だ。
もう、本当に、今度こそ、動けない。
どこもかしこも痛くて、視界も霞んで。限界なんて言葉すら、とっくに置き去りにして。
それでも、“あの魔法”が勝ちをもたらしてくれたのなら。それなら、報われるはずだった。
――あの魔法をもってして勝てないなんてことがあれば。
鼻先を、雷が駆け抜けた。
「――ッ!?」
刹那の後に響いた轟音が、世界を揺らす。
天が怒りを露わにしたかのような咆哮。音そのものが斬撃のように、耳を裂いた。
視界の端――
砂埃の中から、ゆっくりと、“それ”が立ち上がる。
焼け焦げた空気を引き裂いて、雷光を、未だ燃え続ける執念を纏っている。
死を拒むかのように、否――最初から死など受け入れてなどいなかったように。
氷の傷痕が全身を覆っていたが、それでも神々しいまでの威厳を失わない。マゼンタの瞳だけが、世界の理を逸脱した存在の証のように輝いていた。
「……ふ、ふふ……まだ、終わりませんわ。この舞台は、ワタクシが幕を下ろすまで……」
微かに聞こえる声に、絶望が広がる。
「――…………ああ」
喉が、音を裏返した。もはや言葉ではない。ただの、反応。
砕けたのは、魔法だけじゃなかった。
希望も、折れた。
まだ、終わってなどいなかった。
「終わらせるつもりもない」と――その女神が、宣告していた。
(……じゃあ、誰が)
(誰がこの世界を――こんな世界を、救えるって言うんだよ)
希望は、すでに地に伏した。
英雄は、動けない。
魔法は、砕けて消えた。
それでもなお、物語は終わらない。
終わらせることすら、赦されない。
それが、この世界を理不尽に書き換える、残酷な神の――ミレディーナの"意志"だった。
誰も抗えない。何も届かない。
祈りさえ――踏みにじられる。
この世界が終わる時を決めるのは――
誰でもない。
ただ、“彼女”だけだ。




