第十一話 宙を満たす満天の輝き
死者は、天にのぼるという。
――ならば、自分も今、死に向かっているのか。
視界が渦を巻き、ぐるぐると回転する。周囲の音はすべて掻き消され、ただひたすらに風の音が聞こえる。
闇が広がり、何も見えない。何も触れられない。周りにあるのは、ただ冷たさだけだ。それが全身を貫き、骨の奥まで染み込んでいく。
強風が体に突き刺さるように吹き荒れ、冷気が肌を切り裂く。氷のような痛みが血管にまで入り込み、まるで体内の血まで全て凍りついてしまうような感覚だ。その痛みが、体力を削り、意識を少しずつ薄くしていく。頭が重く、まともに考えることすらできない。
体が、もう限界だ。
体中に広がる傷から流れる血が、空中で凍りつき、赤黒い粒子となって宙に舞う。足元も、手も、顔も、全身が無数の切り傷だらけだ。すべてが痛みで焼けつき、目の前が霞んで、闇の中に溶けていく。
(俺は――)
意識が霞む。手足が重く、動かすことすらできない。それでも、体は何とか動こうとする。が、駄目だ。本当にもう、どうにもならない。
(……俺は今、どこにいる?)
上昇しているのか、それとも落下しているのか。その感覚すら、もうない。ただ、風の中を漂っている。
――いや、違う。漂っているわけではない。
「……っ、チッ!!」
唇から漏れる歯噛み。血が口内に広がり、鉄の味が口の中で広がる。それでも、確かに、痛みが脳に響き、目の前のぼんやりとした世界に一瞬、焦点を合わせる。
指先が震える。体がぶれる。四肢が空中でもがくたび、暴風が意志を持ったかのように絡みつき、さらに高く、さらに遠くへと押し流していく。"逃がさない"とでも言うように。
ミレディーナの竜巻。
その中心にいる自分は、まるで神の気まぐれで吹き飛ばされる塵のようだ。
狭間で、あの男の異能でもたらされた死とは、随分と違う心地に感じる。
だが、この計り知れない無力感だけは変わらなかった。
(……死んだらこうなるのか)
ふと、くだらないことを考える。いや、くだらないと言い切れるのか? このまま地上に戻れなければ、いずれ本当に"天へ"のぼることになる。
「......そんな冗談……笑えないな」
唇を震わせ、辛うじて言葉を絞り出す。その声は、空気に溶けていき、誰にも届かない。
ルイは奥歯を噛み締め、冷えた手で銃を握り直す。勝算があるわけでもない。打開策を見つけたわけでもない。だが――
(とにかく、地上に戻らなきゃ話にならない!)
暴風の中、ルイは視線を定めた。
"下"を――いや、少なくとも"下だと思う方向"を見極める。
風が猛獣のようにうねり、ルイの体が攫われていく。それと同時に、意識も持っていかれそうになる。身体が何度も空中で翻り、方向感覚が完全に崩れ落ちる。手元の銃はもはや意味を持たない。
が、それでも、今、生きるためには、目の前の理を超えた災厄に抗わなければならない。
(もう一回……! もう一回、すべての感覚を研ぎ澄ませ!)
全身が、氷のような冷気と、鋭い風圧に切り裂かれながらも、ルイは意識を集中させる。
体はもう限界だが、心はまだ死を拒んでいる。痛みがひしひしと伝わってくる。
血液が氷のように凍りつき、切り傷からは新たな血が流れ出している。それでも、諦めてはいけない。思考を止めてはいけない。動きを止めてはいけない。
無意識に力を込めることで、傷口に走る痛みがさらに強くなり、全身を刺激する。だが、それが逆に体を奮い立たせる。「生きてるから、まだやるんだ」と、強く決意する。
「……頼む、頼む!!」
冷えた唇から漏れたその叫びが、空間を引き裂くように響き渡る。その声は、暴風に消され、誰にも届かない。だが、叫ばずにはいられない。声が引き裂かれ、無数の風に溶け込んでいく。無力だと知りながらも、己を鼓舞するために、叫ぶ。
異能の気配を読め。異能の流れを読め。
――"根源"を辿れ。
その瞬間、ルイの思考が急激に研ぎ澄まされる。
痛みすら感覚を超越して、心に強烈な焦点を与えた。
――自分の異能の制約は、対象に触れること。
("本当に、それでいいのか?")
手の中にある銃を、感触を確かめるように握った。
さっき、ルイは異能で作られたこの銃の弾丸の力を操作することに成功した。だが、それは異能の保有者自身に触れたわけでは全くない。弾丸に込められた異能の根源を見極め、掴み、操作したのだ。
自分の異能の制約は、必ずしも異能者自身の身体に触る必要はないんじゃないか。
異能に触れ、根源を掴むことさえできれば、操れるんじゃないか?
目を閉じる。
風に乗る。
意識を無にする。
さらに感覚を研ぎ澄ませ、今、この瞬間に流れる空気を感じ取る。
全身が、もはや風そのものであるかのように。ただ流れに身を委ねるのではなく、その流れに溶け込む。
風――その奔流に、恐れを感じるのではない。
その暴力的な力に同化し、支配する感覚を求める。
ただ漂うのではない。
――今、この瞬間、俺がその流れを捉え、操る者となる。
願え。
貪欲に。愚かに。
どんなに無様であろうと、どれだけ滑稽に見えようと、生きるためには何でもする。
足掻け。
その命が、今この瞬間、狂おしいほどに求めるのは、生きるための力だ。
その奔流を探せ。
掴んで、引っ張り出せ。
(俺が――支配する……!!)
――刹那。
目を閉じていても、微かな、光が見えた。
スッと、冷たい空気が吸い込まれる。
先ほどまで感じていた風とは、まるで違う。澄んだ、特別な風――それは、まるで時が静止したかのように穏やかで、深く、透明で。
澄幽にいるかのようだ。
あの場所のような、一切の穢れのない、清らかな空気。
穏やかでありながら、心の奥まで届く、冷たさを伴ったひんやりとした感覚。
まるで、早朝の雪解け水のように澄みきっていて、冷たいのに心地よい。
目を、開いた。そして、息を呑んだ。
黒雲の中に、無数の小さな輝きが浮かんでいた。
それは、言葉では表せないほどの美しさだった。
空に無数の星が瞬いているようで、しかもその一粒一粒が、ルイの目を引き寄せてやまない。
それは、まるで本でしか見たことがない“宇宙”そのもののようだった。
黒雲だけではない。
竜巻の中でも、風の流れに合わせて、白く輝く美しい粒が舞っている。
光の粒子がひとつひとつ羽根のように舞い上がり、空間の中で瞬くように広がっている。キラキラと、無限の光の小道が開かれ、見上げるたびに心が震えるような、美しさだった。
この感覚に、深い覚えがあった。
澄幽で、何度かこのような光景を目にしたことがあった。
あの場所で、植物が、地面が、水が、そして空気そのものが、まるで無数の星々のように輝いていたことを思い出す。
その時の美しさと同じように、今、目の前には、計り知れないほどの輝きが広がっている。
(――異能の、根源)
それは、何か強大な力を秘めた存在であり、同時に恐れを抱くほどの美しさを湛えていた。
ルイは全身を使って、その光を引き寄せる。手を伸ばすことはできない。けれども、心の中で、全てを込めて、その根源を掴み取ろうとする。
空気が震え、風の流れがゆっくりと変わり始める。彼の意志が、形になって動き出す感覚。
そして、彼はその根源に、自らの意志を強引に押し込める。
|《支配》《ドミネート》。
その一言が、全てを変える。
――ヒュォオオオ……
ルイの意識は、今や風そのものとなり、竜巻の流れを逆手に取った。それまで必死に抗っていた風の流れが急速に変化し、まるでその暴風を彼の手のひらに納めるように、ルイの異能が支配を始めた。
彼の中で光と風がひとつとなり、暴力的な力が、今度は彼の意志で導かれていく。ルイは、目の前の光を掴み、運命の交錯に全ての意識を注ぎ込む。
そして――その中心に、飛び込んだ。
風を切り裂き、加速する。
竜巻の螺旋に逆らわず、巻き込まれる流れをそのまま利用し、一気に推進力へと変換。
空気抵抗を極力減らし、鋭角に姿勢を変える。肋骨が軋み、筋肉が引き裂かれる感覚が骨の芯にまで伝わるが、その痛みを一緒に引き寄せ、さらに力に変える。
落下速度を、極限まで上げる。空間を意識的に圧縮し、無理矢理その加速度を引き寄せる感覚が全身を震わせる。
(いける……!)
気圧の壁を突き破り、寒気の層を抜ける。その瞬間、すべての感覚が一度に研ぎ澄まされる。
酸素が薄く、呼吸が困難になり、身体は引き裂かれそうなほどの圧力にさらされる。
だが、それでもルイは止まらない。力を振り絞り、さらに落下速度を上げ、その先にたどり着かなければならない。
(行け……行け――ッ!!!!)
やがて、視界が開け――
雲の海を突き抜けた。
地平が広がり、その壮大な景色に、ルイは一瞬息を呑む。
数多の落雷が地面を打ち、黒く焦げたクレーターが無数に広がっている。
地割れとそこを満たす黒い水が、まるで地獄へつながる門が口を開いかのように見える。
そんな絶望的なまでに混沌とした戦場だが、はるか下に。だが、確かに見えた。
(……ちゃんと落下できてるみたいだ)
――だが、その瞬間、ふと、目を奪われるものがあった。
同じ高度に、漂う白い影が浮かんでいた。
「……シア……?」
重力を無視するように、静かに浮かぶ少女。シアが、こちらを見ていた。
その姿は、まるで空気そのものに溶け込んだかのように、流れるように浮いている。
だがその瞳が、確かに、ルイを捉えている。
――その瞬間。
彼女のアメジストの瞳がいっぱいに見開かれ、きらりと輝いた。
先ほど見た、異能の根源の輝きと同じような煌めき。ルイの心に、直接響いたような気がした。
その瞬間だけ、全ての時間が一瞬止まったように感じられた。




