第六十九話 | 狭間 亡霊たちの王冠なき王 - 1
一面の黒。一面の虚無。闇が世界を覆い尽くして──いや、違う。"闇"ですら、ここには存在しないのかもしれない。闇とは、光の不在を指す言葉だ。だがここには、その光すら存在したことがないかのように、ただ"無"があるだけだ。
ルイはその場所に立っていた──立っている、という感覚すら曖昧だ。足の裏に地面の感触はなく、膝に体重の負荷はかからず、ただ「ここにいる」という確信だけが、かろうじて彼を支えている。まるで、夢の中にいるかのような浮遊感。しかし、夢とは決定的に違う。夢には、必ず何かがある。風景があり、物語があり、感情がある。ここには、それらが一切存在しない。
──この場所は、何もかもを奪う。
色を奪い、音を奪い、感触を奪い、存在そのものの確かさを奪っていく。目の前の無は、じわじわと、しかし確実に、ルイの意識の縁から削り取っていく。まるで、潮が砂の城を溶かすように。抗う術もなく、ただ時間が経つのを待つだけの、一方的な浸食。自分という存在が、ゆっくりと、しかし確実に、この無に飲み込まれていく感覚。
「おかしい」と、脳が叫ぶ。
「ここは正しい世界じゃない」と、本能が警鐘を鳴らし続ける。
「逃げろ、今すぐここから逃げろ」と、魂の底から迸る声が、ルイの理性を揺さぶる。
鼓動が早まる。息が荒くなる。逃げたい。ここから離れたい。どんな手を使ってでも、この場所から脱出しなければ。生存本能が、全身の細胞に叫び続けている。
ルイは、唇を噛みしめた。噛みしめたはずだった。痛みはない。歯が皮膚を破る感触もない。血の味も、鉄の香りも、何ひとつとして現実感を伴わない。だが、その意思だけは、確かに彼の内側に存在した。奪われていない。まだ、ここには"自分"がある。
(……わかってる。ここはおかしい)
二度目──否、三度目だ。
一度目は、ファロンの幻影と、金で編まれた女神に遭遇したあの時。意識を飲み込まれ、一度は死んだとさえ思った。
二度目は、気を失っていたが、響哉とシアと共に、ミレディーナの屋敷へと続くゲートにされたあの瞬間。
そして三度目が、今だ。
恐怖は、確かにあった。消え失せてなどいない。むしろ、三度目だからこそ、その恐怖は研ぎ澄まされていた。
未知への恐れではない。既知への恐れだ。この空間が何をしてくるのか、どれほど自分を追い詰めるのか、身をもって知っているからこそ、恐怖はより深く、より冷たく、ルイの内臓を締め上げる。心臓が早鐘を打つ。呼吸が浅くなる。全身の毛穴が開き、冷や汗が背中を伝う感覚──いや、それすらない。この空間には、汗すらも存在しないのだ。ただ、思考だけが恐怖を増幅させる。脳が、過去の記憶を呼び起こし、今まさに味わっている無の中に、ありありと恐怖の情景を描き出す。
だが──それでも。
ルイは、意識の手を伸ばした。視覚も、聴覚も、触覚も、すべてを奪われたこの場所で、ただ一つだけ残されたもの。それは、考えること。存在すること。自分がここにいるという、揺るぎない事実だけだった。
(──《支配》)
空間は、異能者によって生み出されたものだ。この空虚そのものが、異能であるはずだ。ならば、やることは一つ。荒れ狂う波の中から、確かに一粒を掬い取るように。暴風雨の中で、ただ一枚の葉を捕まえるように。あの訓練でやったことと、同じだ。
ルイは集中した。残されたわずかな"自分"という感覚を、楔のように打ち込む。ここにいる。まだ、俺はここにいる。その確信だけを頼りに、意識を広げていく。まるで、暗闇の中で手を伸ばし、壁を探るように。何もない空間に、自分の存在を刻み込むように。
リンファの言葉が、蘇る。厳しく、容赦なく、何度も叩き込まれたあの教えが、今、この絶望的な空間の中で、訓練場での彼女の怒号が、耳の奥で響いた。
『そんなノロノロしてちゃ失敗するわよ!! 異能でも魔法でも、粒子は荒れ狂う波みたいに蠢くんだから!!』
そうだ。あの時も、そうだった。
歪み、うねり、暴れ回っている。その混沌の中から、確かに一つを掴み取った。あの時は、できた。
(……あの時は、できた)
ルイは、目を閉じた。閉じたはずだった。その感覚すらないまま、それでも彼は意識を内側に向ける。自分の中心にある、かすかな熱のようなものを探して。
(あの時は、世界が確かに在った。リンファがいて、シュエンがいて、誰かが、そばにいてくれて、世界を、自分を証明してくれていた。でも、今は──)
今は、誰もいない。
この無の空間に、ルイは独りだった。脅威はまだ姿を現してはいない。だが、それらがいつ現れてもおかしくないという予感だけが、空間の隅々から滲み出ている。肌を撫でるものは何もないのに、全身に粟立つ感覚だけが、確かにあった。
自分を見失いそうになる。
本当に、俺はここにいるのか?
本当に、俺はまだ生きているのか?
本当に、これは現実なのか?
疑えば疑うほど、輪郭がぼやけていく。「自分」という概念が、薄れていく。まるで、霧の中に立っているかのようだ。手を伸ばしても、何も掴めない。声を上げても、誰も応えない。この空間に呑まれれば呑まれるほど、ルイという人間の境界線が、曖昧になっていく。自分が誰なのか、なぜここにいるのか、それさえも、遠のいていく。
(──違う)
ルイは、奥歯を食いしばった。痛みはない。だが、食いしばったという意思だけは、決して手放さなかった。
(俺は、ここにいる。生きている。存在している。見えなくても、聞こえなくても、感じられなくても──俺は、確かにここにいる)
思考が、明晰になっていく。恐怖は消えない。むしろ、より鮮明に、より生々しく、彼の内側で息づいている。心臓が早鐘を打ち、血管が脈打つ。それらは感じられないのに、確かに存在している。その矛盾が、かえって彼を現実に繋ぎ止める。
恐怖に飲み込まれることを──ルイは拒否した。
(《支配》)
もう一度、心の中で唱える。
手を伸ばすのではない。意識を広げる。自分の存在そのものを、この混沌の中に溶け込ませるように。恐怖も、不安も、孤独も、すべてを抱えたまま、それでもルイは、自分の意識を空間全体に広げていった。リンファに教わった通りに。荒れ狂う波の中から、確かに一粒を掬い取るように。暴風雨の中で、ただ一枚の葉を捕まえるように。
視覚はない。聴覚はない。触覚もない。それでも、彼の意識は確かに何かに触れた。それは、粒子の感触だった。あの訓練で何度も感じた、粒子のざわめき。混沌の中に確かに存在する、微かな秩序。
──掴んだ。
直接的な感覚。闇の中に、いや、無の中に、無数に漂う金の粒子。それらは混沌と渦を巻き、絶え間なく動き、流れ、ぶつかり合っている。まるで、目に見えない巨大な手が、空間そのものを掻き回しているかのようだ。
これが先ほどまでルイを恐怖で塗り潰していた、この空間そのものの構成要素か。
呼吸が、深くなる。深くなっているはずだ。
一呼吸──その瞬間に、ルイの意識が、空間全体を覆い尽くした。
時間が止まったかのような感覚。周囲の混沌が、一瞬のうちに速度を落とした。いや、落ち着いたのではない。支配下に置かれたのだ。この空間の全ての粒子が、一瞬にしてルイの異能の支配下に収まった。あの訓練の時のように。いや、あの時よりも、もっと深く、もっと確かに。
荒れ狂っていた無の海が静まり返る。恐怖も、圧迫感も、存在を侵食してくる不快感も。すべてが鎮圧されていた。まるで、嵐が一瞬で晴れた後の湖面のように。波一つなく、ただ静寂だけが広がっている。
その瞬間、ルイの耳に、初めて音が届いた。かすかな、掠れたような、自分の呼吸の音。肺が膨らむ感覚。心臓が鼓動を打つ振動。足の裏に感じる、かすかな地面の硬さ。すべてが、遠くから、しかし確かに戻ってきている。
(戻って……きている? いや、違う)
支配下に置いた粒子が、世界を正常に再構築し始めていた。この空間のルールを、ルイの認識できる形に書き換え始めていた。まだ完全ではない。視界は依然として色を失っている。しかし、確かに、世界があるという実感が戻ってきている。自分が「ここにいる」という確信が、少しずつ形を取り戻していく。
「……よし」
ルイは呟いた。声が、聞こえた。かすかに、遠くで響くように。自分の口から発せられた音が、空気を震わせ、耳に届く。その単純な事実が、何よりも確かな救いだった。
その時。
空間の、どこからともなく──それまでの静寂を引き裂くように、冷たいものが滲み出した。
風もないのに、背筋を氷の指で撫でられたような感覚。温度は変わっていないはずなのに、骨の髄まで冷え込むような、理屈では説明できない寒気。それは外から訪れるのではなく、内側から湧き上がるかのように、ルイの全身を包み込んだ。
肌が粟立つ。鳥肌が、腕だけでなく、首の後ろ、背中全体、太腿の裏まで、一気に立つのが分かった。自分の体温が、すうっとどこかへ吸い取られていくような、底知れない不安が、胃のあたりから這い上がってくる。
何かが、来る。いや、すでに"そこ"にいる。
前か? 後ろか? 上か? 下か?
わからない。方向は、まだ曖昧だ。空間そのものが歪んでいるこの場所では、方向感覚など意味を成さない。だが、確かにそこに、何かが存在している。ルイの肌が、その存在を感じ取っている。見えなくても、聞こえなくても、感じ取れる。確かな敵意の気配が、空間を満たし始めていた。
(来い)
ルイは、恐怖を噛みしめるように、奥歯を食いしばった。食いしばった感触が、確かにあった。
(どこからでも、来い。何度でも、来い。俺はもう、ただ怯えて這いつくばるだけじゃない。戦ってみせる)
恐怖は、まだ消えていない。心臓は早鐘を打ち、全身の毛穴という毛穴が開くのを感じる。汗が、背中を伝う感触すら、今は確かだった。むしろ、その恐怖こそが、彼が生きている証だった。この空間に飲み込まれず、まだ自分を保っている証だった。
身構える。同時に──支配下の粒子に、わずかな揺らぎを感知した。
まるで、水面に落ちた一滴の波紋のように。その揺らぎは、確かに"誰か"の存在を示した。
「──ああ、こんなところで奇遇ですね……ルイ君……!」
上擦るような声が、ルイに届く。




