第六十八話 まだ見ぬ戦いに蝕まれて - 2
五日目。ついに琴葉たちが帰ってきた。
朝靄が晴れ始めた頃、地平線の彼方から、複数の影がゆっくりと歩いてくるのが見えた。最初は陽炎のように揺らめくそれらは、しかし確かにこちらへと近づいている。見張りの魔法士が叫び、ルイは天幕から飛び出した。心臓が、激しく打っている。
彼らに一切の疲れは見えない。姿も、一つも汚れていなかった。ただ散歩して帰って来ただけといった表情に、ルイは思わず気が抜けてしまった。深紅の瞳は澄んでいて、白いドレスには埃一つついていない。琴葉の隣を歩く、他の二人の贄骸も同様だ。彼らは、あの亡霊たちの海の中を、まるで何事もなかったかのように闊歩してきたのだ。
信じられない光景だった。三日間、あの金切り声の渦中にいて、これだ。ルイは、自分の目を疑った。
「あら、おはよう。眠れてる? 眠れていないならリンファに眠剤を処方してもらうといいわよ。みんなそうしてる」
琴葉は、軽く手を振り、それだけルイに言って横を通り抜けた。辺りを見回し、ポーランを探しているようだった。その声は、普段とまったく変わらない。三日間、あの金切り声の渦中にいた者とは、到底思えない。
あまりにも平常運転なその様子に、気を張っていた自分が少しだけ恥ずかしくなった。
ポーランと合流し、天衡院の楼閣に設置された司令部と通信を繋ぐ。浮かび上がった映像の前で、琴葉は淡々と告げた。
「相手はこちらの気が緩むのを待ってる」
その口調には、疲れも興奮もない。ただ、事実だけがあった。深紅の瞳が、まっすぐに映像の向こうを見据えている。
「そんなことをあの二人が考えるはずがない……おそらく、助言している何かがいる」
彼女の言葉に、その場の空気が変わった。
ルイの背筋を、冷たいものが這い上がる。敵には、知恵がある。単なる力任せの侵略ではない。計画的に、こちらを追い詰めようとしている。リタとエゼキエルという無垢な殺戮者の背後に、狡猾な知性を持つ別の存在が潜んでいるのかもしれない——
「このまま備え続けるか、勝負をつけに行くか。選ぶ必要がありそうね」
琴葉の言葉が、重く沈んだ。
──琴葉の発言のように、戦いに備える人々の行動もまた、二極だった。
何も起きないことに、慣れ始める人々。交代で休憩を取りながらも、食事の場に笑顔が戻り始めている。冗談を言い合い、談笑する姿も見える。焚き火を囲んで、他愛のない話に興じる者たち。かすかな弛緩が生まれているグループ。
反対に、いつ来るのかと、一睡もできないほどに気を張り詰める人々。目の下に深い隈を作り、僅かな物音にも飛びつくように反応する。過度な緊張に陥っているグループ。彼らは、食事ものどを通らず、ただひたすらに闇を見つめ続けている。
どちらも、正常とは言えなかった。人間の心は、長くは持たない。張り詰めすぎれば切れる。緩みすぎれば、敵を招く。その狭間で、誰もが苦しんでいた。死の可能性を前にして、完璧な精神状態など存在しないのだ。
確実に、ポーランは選択を迫られていた。紫色の瞳に、深い思案の色が浮かぶ。彼の大きな体が、微かに動いた。決断の時が、近づいている。
夜、ルイは響哉と共に監視に立った。
冷たい風が、二人の間を抜けていく。月明かりの下、彼らの影が長く伸びている。闇の向こうに、確かに領域はある。亡霊たちの気配も、かすかに感じる。彼らは、そこにいる。確かに、そこにいる。しかし、動かない。ただ、そこに在るだけ。
「嫌な感じだな」
ルイが、ぽつりと言った。言葉にすればするほど、その重みが増すような気がした。深緑の瞳が、闇を見つめる。
「ああ」
響哉は、それだけ答えた。紫檀色の髪が風に揺れ、銀灰色の瞳が鋭く光る。その短い返答に、すべてが込められていた。彼もまた、同じものを感じている。この不気味な静寂に、何かが潜んでいることを。
風だけが、唸り続けていた。
◇◆◇
六日目。その日も何も起きなかった。
朝が来て、昼が過ぎ、夕暮れが訪れ、夜が来た。ただ、それだけの一日。何事もなく、時間だけが過ぎていった。まるで、世界が停止してしまったかのような奇妙な静けさ。鳥の声さえも、どこか遠くに聞こえる。
ルイは、その一日をただやり過ごした。琴葉の無事は確認できた。しかし、それだけだ。戦いは、まだ始まらない。敵は、まだ来ない。その「まだ」が、いつまで続くのか。誰にも分からなかった。
ついに夜、ポーランは全員を集めた。
月明かりの下、魔法士たちが整然と並ぶ。その表情には、疲労と緊張が入り混じっていた。六日間、いつ来るか分からない敵を待ち続けた。その重みが、一人ひとりの顔に刻まれている。
「奴らは、我々の疲弊を待っている」
彼の声が、静かに響く。低く、しかし確かに全員の耳に届く声だった。
「今ここで攻め入れば、我々は全力で迎え撃つ。されど、時が経つほどに我々の緊張は緩み、疲労は溜まる。奴らは、その隙を突かんとしている」
ポーランは、一度言葉を切った。全員の視線が、彼に集まる。息を呑む音さえ、聞こえない。ただ、静寂だけが、彼の次の言葉を待っていた。
「……待つのは止めだ。ここより殲滅する」
その言葉に、空気が変わった。待ちの姿勢から、攻めの姿勢へ。長く続いた膠着状態が、終わりを告げようとしていた。
魔法士たちの間に、かすかな緊張が走る。それは、これまでとは違う——戦いに向かう者の、張り詰めた緊張だった。
「ルイ。最前線に骸兵を送る。ただ、彼らの動力が心配だ。先日はあのように申したが……共に赴いてもらうことになるやもしれぬ」
ポーランの視線が、ルイに向けられる。紫色の瞳に、確かな信頼が宿っていた。
ルイは、深くうなずいた。深緑の瞳に、強い光が宿る。迷いは、なかった。
「大丈夫。覚悟は決まってる。
ここに来てリンファにも身の守り方を教えてもらった。琴葉もいるし、他の贄骸たちもいる。絶対に、死なない」
その言葉は、自分自身に言い聞かせるようにも聞こえた。
そして、改めて作戦を練り、琴葉は夜通し魔法式を編んだ。彼女の深紅の瞳は、疲れを見せずに、ただひたすらに石板や携帯できる小物の山と向き合い続けていた。
◇◆◇
七日目。
一週間が経とうとしていた。
朝日が昇り、また一日が始まる。しかし、その光は、待つ者たちの心を照らすにはあまりに弱かった。
人々の間に、疲れが見え始めた。交代で休憩を取ってはいるが、いつ攻めてくるか分からない緊張は、確実に彼らを蝕んでいた。目の下の隈が深くなる者。無口になる者。逆に饒舌になる者。症状は様々だったが、その根底にあるものは同じだった。
敵は動かない。
◇◆◇
八日目。
敵は動かない。
◇◆◇
九日目。
敵は動かない。
時間だけが、虚ろに流れていく。分厚い雲に覆われた空が明るくなり、暗くなる。それだけの繰り返し。何の変化もなく、何の進展もない日々が、ただ積み重なっていく。
待つことの重みが、じわじわと心をすり減らしていくのが分かった。会話は減り、笑顔は消えた。ただ、それぞれが自分の内側に閉じこもるように、静かに時を過ごしていた。
◇◆◇
十日目。
──夜、ようやく「攻め」に転じる準備が整った。
ルイは、天幕の中で自分の装備を確認した。銃。弾。リンファに教わった粒子操作の感覚。すべてが、そこにある。手に馴染んだ感触が、逆に冷静さをもたらす。何度も確かめた装備だったが、それでも入念に、一つ一つを手に取っては収める作業を繰り返した。
隣にシアはいない。彼女はこの防衛拠点に残り、補助をする役だ。その作戦伝達があり、この時間はここにいない。少しの寂しさが胸をよぎった。だが、あの小さな存在が側にいないことが、明日から向かう場所の危険をより一層、現実のものとして感じさせた。彼女の温もりが、もう少しだけ欲しかった。そんな弱音が、心の隅で呟く。
琴葉も、既にここを発った後なので、いない。彼女は先行して、最前線で待っている。深紅の瞳を燃やしながら、あの亡霊たちの海を見据えているのだろう。その姿を想像すると、不思議と心が引き締まった。
響哉は、無言で武器の刃を研いでいた。今回は大きな鎌を持っている。紫檀色の髪が、夜風に揺れる。銀灰色の瞳は、遠くの闇を見据えたまま、微動だにしない。ただ、その横顔には、戦いへの覚悟が色濃く刻まれていた。
(──ようやく)
ルイは心の中で呟いた。
ようやく始まる。ようやく始められる。この長い待機の日々から、ようやく解放される。十日間。ただひたすらに、敵の動きを待ち続けた十日間。その重みが、ようやく終わろうとしている。
だが──待っているのは、血にまみれた戦い。命を落とす可能性のある、生存競争だ。その重みが、彼の肩にのしかかる。深く息を吸い込む。冷たい空気が、肺の奥まで染み込んだ。
ポーランの前に並ぶ魔法士の数は、最初に決起のために集った時よりも減っているように思えた。
特に、領域に最も近く、皓絳から最も離れたこの防衛拠点では、人々の緊張が酷かった。あまりの事態に、昼間はリンファがここを訪れ、精神に異常をきたした人々の診察をして回ったくらいだ。彼女のマゼンタの瞳には、普段の遊び心はなかった。ただ、冷静に、患者たちを見つめていた。その姿が、どれだけ事態が深刻かを物語っていた。
──夜の外は極寒だ。生存には適していない。なので明日、大地が温まり始めたら、往く。
夜明けと共に。朝日が昇り、わずかでも暖かさが戻ったその瞬間を狙って、彼らは動き出す。それが、ポーランの決断だった。
(……今夜は眠れるだろうか)
漠然とした不安が、ルイを蝕んでいた。自分の鼓動の音が、やけに大きく聞こえる。
天幕の外に出て、領域の方を見た。星溶粒子を視ることができるように思考のスイッチを入れると──失明しそうなほどの、悍ましいほどの赤と青の粒子が確認できた。
あれがリタとエゼキエルが持つ、星溶粒子に違いない。二つの色が、渦を巻き、うねり、まるで獲物を待ち構える獣のように、そこに在る。ているだけで、背筋が凍るような感覚が走った。
ふぅ、と無意識に入っていた肩の力を抜くために息を吐く。白い息が、冷たい空気に溶けた。緊張が、少しだけ和らぐ。
──その時、目の前に、見慣れない金の粒子が一つ横切った。
(……ん? なんだ……?)
それは、皓絳に来てからは一度も見たことのない色だった。赤でも青でもない。金色。まるで、夕日が雲の切れ間から差し込むような、暖かく、しかしどこか神々しい輝き。思い当たる節もない。
魔法士が、粒子を持つはずがない。
では、誰のものだ? なぜ、ここに?
手を伸ばそうとした──その瞬間。
世界が、音もなく裏返った。
ルイの視界から──"あの時"のように、色が消えた。




