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第六十八話 まだ見ぬ戦いに蝕まれて - 1

 目が覚める。

 五時。いつも、響哉と早朝のトレーニングをする時間だ。昨日はできなかったが、今日は少し体を温めてから監視に加わるために、約束を交わしていた。天幕の外からは、まだ冷え込んだ夜明け前の空気が、布の隙間から忍び込んでいる。


「はよ。ルイ君」


 天幕から出た時、響哉が既にそこで待っていた。

 今日はいつ開戦となってもいいように、お互い戦闘の準備をして立っている。響哉はいつもの和装をベースにした戦闘服を着こんでいるし、ルイもいつものコートを着ている。

 何度も澄幽で洗濯を重ねたその布地は、彼の体にしっかりと馴染んでいた。コートの内側には、しっかりと双銃を収めたショルダーホルスターを仕込んでいる。冷たいベルトの感触が、胸元で確かに存在を主張していた。

 紫檀色の髪が、朝の冷たい空気に揺れる。銀灰色の瞳には、いつもの鋭さがあった。


「琴葉が言ってたぜ。ガチで、領域がすぐそこまで迫ってるって。少し拠点の外に出れば、その影が見える」


 響哉の声は、朝の空気に白く溶けた。


「……まだ、仕掛けないんだったな」

「おう。まだあの場所じゃ魔力が十分じゃないらしい」

「そっか……天衡院側から手が出せないのは、魔力が薄い場所を移動していたからか」


 ルイは、自分たちが置かれた状況を改めて理解した。敵は、自分たちに有利な場所に根城を構えることで、簡単に攻め入ってこられないようにしている。それだけ、冷静だということだ。


 トレーニングを始める。息が白く染まる。走り、跳び、体を温める。筋肉が、少しずつ目を覚ましていく。冷え切っていた指先に、血が通い始める。

 終わり次第、ポーランや魔法士たちと合流し、伝達や作戦の確認を行った。緊張は、朝から張り詰めている。今日こそ、来るはずなんだ。その覚悟で、全員が動いている。



 ──だが、領域の移動はそこで止まった。

 その日、リタとエゼキエルが率いる亡霊たちが攻め入ってくることはなかった。



 ◇◆◇



 二日目。緊張は続いていた。

 朝、目が覚めた瞬間、ルイは「今日か」と思った。天幕の外から差し込む光が、いつもより鋭く感じられる。しかし、何も起きない。領域は、そこに在る。ただ、在るだけだ。動かない。迫らない。攻めてこない。


 その日、琴葉が動いた。

 彼女は贄骸として、夜番や領域に接近する偵察に加わっていたが、『使い勝手がいい』と箔が付けられていた贄骸たちで少人数の部隊を作り、領域に突っ込んだらしい。琴葉ともう二人くらいが領域へ。他の贄骸は、魔力が潤沢にある地点から三人をサポートするという作戦。

 前線と後方支援。明確な役割分担で、魔力不足を補おうとする。理にかなってはいるが──無数にいるであろう亡霊たちの渦の中に、たった三人で突っ込むという、あまりにも荒唐無稽な話だ。

 普通の人間なら、自殺行為としか言いようがない。だが、たとえ破壊されたとしても核さえ残っていればいくらでも再生成が可能である贄骸であれば、できなくはない。彼らは、死を恐れない。彼らにとって、死は一時的な中断に過ぎないのだ。

 作戦全体の司令塔はシュエンが執り行っているのだが──琴葉の案を聞いて、シュエンは椅子から転げ落ちたらしい。想像するだけで、その光景がありありと浮かぶ。グレージュの髪を振り乱し、目を白黒させながら「ウッソ! 面白そう!!」と叫ぶ彼の姿が。そして、次の瞬間には目を輝かせて作戦の詳細を詰め始めたに違いない。彼もまた、常識にとらわれない男だ。


 まだ連絡はない。


 ルイは、何度も通信用の魔法式が刻まれた通信機を見つめた。冷たい金属の感触が、手のひらに張り付く。押し潰してしまいたいほどの焦りを、必死に抑えている。しかし、沈黙が続くだけだ。ノイズすらも、そこにはなかった。ただ、静寂だけが、耳の奥で鳴り続けている。

 シアが、心配そうに彼の横に座っている。何も言わない。ただ、そこにいる。その存在だけが、かすかな安心をもたらした。彼女の小さな肩が、時折かすかに震える。それだけが、時間の流れを教えていた。


 夜が来た。空が暗く染まり、月明かりが周囲を照らし出す。それでも、琴葉たちは帰ってこなかった。

 敵も、来なかった。



 ◇◆◇



 三日目。朝日が昇った。琴葉は、まだ帰ってこない。

 ルイは、ポーランに直談判した。自分も領域に向かいたいと。焦りが、彼の声に滲んでいた。深緑の瞳には、今にも飛び出していきそうな衝動が渦巻いている。

 しかし、ポーランは静かに首を横に振った。


「あの中で傷を負った時、誰も助けにいけぬ」


 その言葉に、ルイは何も言えなかった。紫色の瞳が、真っ直ぐにルイを見据えていた。そこに、迷いはない。将としての冷徹な判断が、その瞳の奥にあった。

 確かに、得策ではない。領域内部での、琴葉や贄骸たちの判断を待つべきだ。もしルイが無謀に飛び込めば、彼女の足を引っ張ることになる。それは、誰よりもルイ自身が理解していた。


 ルイは拳を握りしめ──「信じて待つ」ことを選択した。

 深く、深く息を吐く。吸い込んだ空気が、肺の奥で冷たく広がる。そして、ゆっくりと、拳を解いた。


 その日も、攻撃はなかった。領域は、ただそこにあるだけ。まるで、獲物を狙う獣が、じっと息を潜めているかのように。遠くの闇が、ひたすらに重い。時折、風が運んでくるかすかな気配が、肌を粟立たせる。しかし、それだけだ。何も、起きない。

 響哉は、終始無言だった。彼は、何かを考え込むように、遠くの闇を見つめていた。紫檀色の髪が、風に揺れる。銀灰色の瞳の奥で、何かが静かに燃えているように見えた。彼もまた、琴葉を案じているのか。それとも、別のことを考えているのか。ルイには、分からなかった。ただ彼はそこに立ち、遠くを見ている。



 ◇◆◇



 四日目。朝日が昇り、また一日が始まる。

 どうにか夜は眠っていたものの、自分の眠りが日に日に浅くなっていることを自覚していた。わずかな物音で目が覚める。風が天幕を揺らす音。遠くで誰かが咳き込む声。自分の鼓動の音さえ、うるさく感じる。まるで、全身の神経が剥き出しになっているかのようだった。眼球の裏側が疼き、まぶたを閉じても、そこに広がる暗闇が安らぎをもたらさない。

 天幕の外で、魔法士たちが動く気配がする。物資の確認、配置の調整、そして——何も起きないことに慣れ始めた日常の風景。三日前までは張り詰めていた空気が、少しずつ緩み始めているような気がしていた。


 ──その時、通信機が鳴った。


 耳障りな電子音が、天幕の静寂を切り裂く。ルイは思わず飛びつくようにそれを握りしめた。冷たい金属の感触が、手のひらに吸い付く。

 耳障りなノイズの後、掠れた声が流れてきた。


『まだ来ない。休んで』


 琴葉の声だった。間違いない。あの深紅の瞳を思い出させる、落ち着いた、しかし確かな強さを含んだ声。何度も聞いた、彼女の声。

 ルイの心臓が大きく跳ねた。生きている。彼女は、生きている。深く刻まれた安堵が、全身を駆け巡る。握りしめていた拳から、力が抜けた。


 しかし、その背後から聞こえてくるのは——無数の金切り声。

 耳を塞ぎたくなるような、不気味な叫び。ガラスを引っかくような、あるいは獣の遠吠えにも似た、正体不明の声の群れ。亡霊たちの声だ。彼女は、まさにその渦中にいる。三人だけで、あの亡霊たちの海の中に。


 通信は、それだけだった。短く、簡潔で、しかし確かな生存確認。


 その日も、攻撃はなかった。領域は、ただそこにあるだけ。遠くの闇は、依然として重く、不気味な静寂を保っていた。

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