Interlude III: 21xx - Red Eve 深蔵若虚 - 1
一瞬、長時間の移動を覚悟したが、マキの手にはしっかりと転移の式が刻まれた道具が握られていた。
金の軸が夕日に煌めき、そこから漆黒に近い色の羽がついている。ルイがシュエンから預かったものとは、比べ物にならないほど気品のある造りだった。軸に刻まれた細かな紋様が、その価値を物語っている。
周囲の魔法士たちが、遠巻きにその様子を見守っている。彼らの表情には、好奇心と畏敬の念が混ざっていた。ある者は口元を引き結び、ある者はわずかに息を呑んでいる。マキの手にあるものが、どれほど貴重なものかを知っているのだろう。雑踏が、少しずつ静まり返っていく。
マキは、その羽根を両手でしっかりと握りしめた。細い指が、金の軸を包み込む。彼の白い髪が、夕風に揺れた。
魔力が込められる。
最初はかすかな、しかし確かな光が、羽根の先から溢れ出した。漆黒の羽の一枚一枚が、内側から照らされるように淡く輝き始める。その光は次第に強さを増し、マキの手全体を包み込む。まるで、彼の手の中で小さな夕日が生まれたかのようだった。
そして——瞬間、視界が白い光に包まれた。
眩しさに思わず目を閉じる。体が浮くような感覚。重力から解放されたかのような、不思議な浮遊感。足元が、消えた。周囲の音も、消えた。ただ、自分だけが、どこかへ運ばれていく感覚だけが残る。
それはほんの一瞬だった。光に包まれ、浮遊感に身を委ねていた次の瞬間──
視界が戻った時、そこは別の世界だった。
広間。言葉にするならば、それだけだ。しかし、その言葉では収まりきらない何かが、この空間にはあった。
白亜の街とは異なる、重厚な雰囲気の空間。床は磨き上げられた石で、自分の姿がぼんやりと映り込むほどだった。壁には幾何学模様の彫刻が施され、複雑に絡み合う線が、見る者に静かな威圧感を与える。天井は高く、闇に溶け込むようにして見えなかった。灯りは少なく、ところどころに置かれた灯篭の橙の光だけが、空間をぼんやりと照らし出している。その光が、長い影を床に落としていた。
既に、シアが指を絡めながら、俯いて待っていた。彼女の小さな影が、灯りに照らされて床に伸びている。その姿は、どこか心細げで、早く誰かの温もりを求めているかのようだった。一人きりでこの広間に立つのは、さぞ心細かっただろう。
「シア!」
ルイの声を聞き、シアの表情がパッと明るくなる。俯いていた顔が勢いよく上がり、アメジストの瞳が、喜びに輝いた。その瞳に、ルイたちの姿が映り込む。
「ルイ! それに、響哉さんと琴葉ちゃんも!」
シアは三人の元へと走った。その足音が、広間に軽やかに響く。彼女の白い髪が、走るたびに揺れた。
その様子を、ポーランは少し離れて見守っている。彼の紫色の瞳には、温かな光が宿っていた。家族の再会を、優しく見守る者のように。
部屋に、扉は前方に一つだけ。黒い重厚な扉が、静かにそびえ立っている。漆黒の表面には、かすかに紋様が浮かび上がっているように見えた。そこが、おそらく院主が待つ部屋だろう。
他に、この広間への入口であろう扉や、窓などは一切なかった。完全に閉ざされた空間。少し、冷えていて、不気味に感じられた。灯篭の橙の光が、その黒い扉に当たって、奇妙な陰影を描き出している。
「私は、ここでお待ちしております。戻るには、またこの式が必要ですから」
マキが、静かに告げる。彼の手には、先ほどの転移の式が刻まれた道具が握られたままだった。その細い指が、金の軸を包み込むようにして、大切に抱えている。彼の白い髪が、かすかな風もないのに、微かに揺れているように見えた。
「胡典司……案内、感謝する」
ポーランが、深く頭を下げた。その大きな体が、恭しく折れ曲がる。彼の紫色の瞳には、真摯な感謝の色が浮かんでいた。
「いえ……」
マキも静かに頭を下げた。二人の間で、短いが確かな敬意の交換が行われた。
ギギギ……という金属音が、闇に響く。その音は、低く、重く、まるでこの場所の重要性を強調するかのようだった。黒い扉が、ゆっくりと開かれていく。扉の向こうから、かすかな光が漏れ出してくる。それは、この広間の灯りとはまた違う、もっと柔らかく、それでいて深みのある光だった。
ポーランがその向こう側へと足を踏み入れる。彼の大きな背中が、光の中に吸い込まれていく。
ルイたちも、それに続いた。琴葉の白いドレスが、扉の前で一瞬立ち止まり、深く息を吸うのが見えた。響哉は、その瞳を細め闇を見ていた。シアは、ルイの服の裾をそっと掴み、小さな体を寄せている。
そして、ルイもまた、一歩を踏み出した。
◇◆◇
そこは黒い石で覆われていた。
壁も、床も、天井も——すべてが漆黒の石でできている。吸い込まれそうなほどの深い闇。しかし、暗いわけではなかった。灯篭の橙色の光が、空間全体を幻想的に照らし出している。その光が黒い石に反射し、まるで星空のようにきらめいていた。まるで、夜の闇の中に浮かぶ無数の星々のように。足元にも、頭上にも、光の粒が散りばめられている。
その光の下で、ルイは息を呑んだ。
広大な空間の奥。御簾の向こうに、一つの玉座が置かれていた。黒い石でできた、簡素でありながら、なぜか圧倒的な存在感を放つ玉座。見れば見るほど、吸い込まれそうな感覚に襲われる。そこに座る者の重みが、この空間そのものに刻み込まれているかのようだった。
──まだ、そこには誰もいない。
静寂が、深く沈む。灯篭の光だけが、かすかに揺れている。
ポーランが歩みを進める。彼の足音が、黒い石の床に静かに響く。コツ、コツ、と一歩ごとに、その音が空間に吸い込まれていく。玉座の前まで近付く。そして、跪いた。
深々と、頭を床に近づける。その姿は、一軍を統べる将衡というより、主君に忠誠を誓う一人の臣下そのものだった。彼の大きな体が、恭しく折り畳まれる。
琴葉も自然と、同様にしていた。白いドレスの裾が黒い床に広がり、彼女の深紅の瞳が伏せられる。それがこの国の儀礼なのだろうか。彼女の動作には、一瞬の躊躇もなかった。
ルイとシアはそれに倣って膝をついた。冷たい石の感触が、膝越しに伝わってくる。漆黒の石は、触れる者の体温を奪うかのように冷たかった。シアの小さな体が、かすかに震えているのが分かった。緊張しているのだろう。彼女の白い髪が、うつむいた顔を覆っている。
だが、響哉は相変わらずだった。腕を組み、銀灰色の瞳で玉座を睨みつけている。紫檀色の髪の下で、その瞳は獲物を見定めるかのように鋭く光っていた。──当然だ。彼は、この国の魔法士たちに、たくさんの仲間を殺されてきた、敵対者である事実に変わりはないのだから。彼にとって、ここは敵の本拠地。頭を下げる場所ではない。彼だけが、漆黒の空間の中で、異質な存在感を放っていた。跪く者たちの中に、ただ一人、立ったまま。その姿は、抗う者としての誇りを、静かに主張しているかのようだった。
──そして。
微かに、気配が動く。目の前の空間が歪み、闇がより深く濃くなる。まるで、闇そのものが意志を持って、そこに集まっているかのように。
コツ……コツ……
硬質な足音が、部屋に響いた。それは、杖をつく音だった。規則正しく、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。一歩ごとに、空間の空気が変わっていく。まるで、その足音がこの世界のリズムそのものかのように。
影が見えた。
──その人は、杖をついていた。思い当たる人物はリンファだが、それよりも断然背は高いように見える。杖くらい、誰でも使う可能性はある。
分かったのはそれだけだ。闇と、理由の分からない、灯篭だけは起こり得ない揺らぎによって輪郭がぼやけ、詳細が一切見えない。顔はおろか、シルエットすらも定かではない。まるで、その存在自体が闇と一体化しているかのようだった。いや、闇そのものが、彼を包み込んでいるのかもしれない。
ただ、そこに圧倒的な「力」と「重み」が存在していることだけが、骨の髄まで染み渡るように理解できる。肌が粟立つ。背筋が凍る。それでいて、なぜか畏敬の念が湧き上がる。矛盾する感覚が、ルイの全身を支配した。膝をついたまま、思わず息を呑む。呼吸さえも、許されていないかのような錯覚に陥る。
ゆっくりと玉座まで移動し──そして、座った。
御簾の向こうの闇に、その影が溶け込む。しかし、確かにそこに在る。その事実だけで、空間全体の空気が変わった。跪く者たちの緊張が、さらに深まる。シアの震えが、かすかに大きくなった気がした。
これが、院主の顕現する姿である。




