Interlude III: 21xx - Red Eve 斜陽一刻
午後、ルイはリンファやポーランと、ただひたすらに星溶粒子の操作の訓練をしたり、戦いに備えて体を動かした。朝の基礎訓練から一歩進んだ、実戦を想定したメニューだった。汗は何度も拭ったが、それでも流れ出るのは止まらない。シャツは肌に張り付き、髪から滴る雫が床に小さな染みを作る。
筋肉は悲鳴を上げていたが、「壊して直す!!」と血走った目で叫ぶリンファが止まることを許さず、食らいつくしかなかった。彼女のマゼンタの瞳には、休息の二文字は存在しないらしい。杖で叩かれ、怒鳴られ、それでもルイは立ち上がり続けた。
特に印象に残っているのは、『魔法士側が異能者と対面戦闘を行う訓練として』という名目で、ルイは敵役となり、複数の魔法士相手に異能を駆使して戦ったことだ。魔法を散らし、防ぎつつ、素の身体能力や武器でぶつかり合う。それは、琴葉と響哉と二対一で戦ったこともないルイにとって、未知の領域だった。
魔法士たちの放つ魔法は、これまで見てきたものとは比べ物にならない速さと精度で襲いかかる。それを、頭で考えてから対処したり、一度"掴む"意識をしていては到底間に合わない。対面したその瞬間から常に全てを感じ取り、常に支配下に置く。魔法を使わせないようにしなければ、すぐに負ける。そんな勝負だった。
しかし、その中で、ルイは新しいコマンドを発見した。
──支配が甘くかかっていた抜け目から、魔法の炎が目の前に迫る。熱波が肌を焼き、視界がオレンジに染まる。あと一秒もしないうちに、自分は炎に包まれる——そう直感した瞬間、ルイの頭に閃きが走った。
「《変換》」
瞬間、迫り来る炎の塊が、その形を変えた。球体だった炎が、ルイの意思に従って、鋭い槍の形に変形する。熱はそのままに、形だけが変わる。それは、まさに魔法の秩序を捻じ曲げてしまった瞬間だった。
ルイはそれを掴み、狙いを定めて投げた。軌道は《支配》のコマンドで管理し、魔法士の横スレスレを通りぬける。
「なっ……!?」
魔法士が驚愕の声を上げる。自分の放った魔法が、自分に向かって返ってきたのだ。軌道を外れたとはいえ、その一撃は確かに、彼の頬をかすめた。一筋の赤い線が、彼の肌に浮かび上がる。
これにより、魔法士が発動した魔法を自分の都合のいいように利用する力を得ることができたというわけだ。敵の武器を、自分の武器に変える。それは、戦いにおける新たな可能性を切り開くものだった。
それを見たポーランは、遠くで目頭を押さえていたのは、もはや言うまでもない。彼の大きな手が、額に当てられ、その口元はわずかに震えていた。喜びなのか、驚きなのか、それとも——彼自身にも分からない感情だったかもしれない。
日が傾いてきた。空を覆う雲が、夕暮れを知らせるように赤く染まりだした。白亜の街並みが、その夕焼けに照らされて、淡いオレンジ色に輝いている。長く伸びた影が、建物の間を縫うように這っていた。
一日の終わりを告げる、静かで、しかしどこか切ない時間──だが、今日は違った。
日が傾いてきたということは──そろそろ、"防衛拠点"へと移動する時間だ。
武衡局で訓練をしていた魔法士たちが、一斉に集合し始めてきた。
彼らが明日から、防衛線の要となるのだ。武器を手にし、魔法式を刻んだそれぞれの道具を携え、無言で隊列を組んでいく。その姿には、戦いへの覚悟と、守るべきものへの想いが滲んでいた。
「ルイ」
凛とした透明な声が、背後から聞こえた。振り返ると、そこには琴葉と響哉がいた。
琴葉はとても落ち着いた様子だった。白いドレスが夕日に染まり、淡いオレンジ色に輝いている。彼女の口元には、かすかな微笑みさえ浮かんでいた。
響哉も、普段の不敵な笑みを張り付けて、ルイを見ている。紫檀色の髪が風に乱れ、銀灰色の瞳が夕日を反射してギラリと光る。その表情には、いつもの余裕が戻っていた。朝の訓練で見せた疲労の色も、今はもう感じさせない。
「琴葉、響哉」
ルイは、二人の名を呼んだ。その声には、安堵が混じっていた。
思わず、ルイは二人に駆け寄った。
「二人とも、日中はどこにいたんだ?」
「私は各地を回っていたわ。昨晩作った魔法式の配備の続きと、現地を見て調整が必要そうな部分や追加したほうがよさそうなところを作ってきた」
琴葉は、淡々と答えた。その口調には、疲れの色はない。むしろ、やり遂げた者の清々しささえ感じられた。白いドレスには、一日中動き回ったであろう細かな皺がついているが、それすらも彼女の戦果のように見えた。彼女の作業は、今もなお続いているのだ。
「……まあ、この作戦は『必ず外から侵略される』という前提で動いているから、少々脆いのだけどね。気付いている人はいなそう」
彼女の言葉に、ルイの眉が動いた。作戦の前提が脆い? どういうことだ。
「それは、どういう意味だ?」
「一度、澄幽であったでしょう」
琴葉の深紅の瞳が、ルイを捉える。その瞳は、あの日の記憶を呼び起こすかのように、遠くを見つめていた。夕焼けが彼女の横顔を照らし、その表情に深みを与えている。
──ファロンとの戦いの前だ。あの時、敵は突然空間を割き、ルイと珠桜だけを引き摺りこもうとした。
「……あの狭間」
「そう。歪みを生み出す異能者、イェルマ・バルジス。まだ殺していないのよね?」
琴葉はルイに向けて聞いた。その問いかけは、確認のようであり、同時に、彼の記憶を探るものだった。深紅の瞳が、わずかに細められる。
「イェルマと戦ったのは珠桜さんと律灯だ。ファロンにその戦ってる様子を見せられて……致命傷を負ったと思ったんだが……」
ルイの声が、徐々に小さくなる。確かに、イェルマが死んだ瞬間を、自分の目で見たわけではない。
「珠桜から"殺せた"とは聞いていないわ。おそらく、まだどこか生きている。
……それが、またしても手を貸していたら厄介」
琴葉の言葉は、静かだった。しかし、その重みは、ルイの胸にずしりとのしかかる。
リタとエゼキエルだけではない、新たな脅威の可能性。それが、静かに、しかし確かに存在している。
「響哉は?」
話題を変えるように、ルイは響哉へ聞いた。
「俺か? 俺は散々魔法の使い方を調整してきたさ。琴葉センセーが雑に教えたところを、きっちり仕上げてきた」
響哉は、相変わらずの不敵な笑みを浮かべている。紫檀色の髪が風に揺れ、銀灰色の瞳が夕日を反射して輝く。しかし、その言葉には、確かな自信が感じられた。彼なりに、一日を無駄にせず、力をつけてきたのだろう。
その横で、琴葉がジトリと彼を睨みつけながら、肘で彼の脇腹をつつく。
「わ、悪かったわね。人に教えるだなんて……本当、経験がないのよ」
その仕草は、少し子供っぽくて、ルイは思わず笑みをこぼした。
残るはシアだ。どこへ行ったのかと辺りを見回そうとしたところで──
白髪が揺れる様子が、視界に飛び込んできた。
(シア……)
ルイの心臓が、一瞬早く鼓動を打つ。胸の奥が、何かに期待するように疼いた。彼は、その白髪の主を追って、視線を動かした。夕焼けに染まる魔法士たちの群れ。無数の人影の中に、一際白く輝く髪が見えた。夕日を浴びて、それはまるで彼だけを導く標識のように、はっきりと浮かび上がっている。
足が、自然とそちらに向きかける。気づけば、もう一歩踏み出していた。心臓の高鳴りが、少しずつ大きくなる。耳の奥で、自分の脈動が聞こえるようだった。会いたかったわけではない。ただ、彼女が今日どのように過ごしていたのか、確認したかっただけだ。そう自分に言い訳しながら、ルイは人混みを縫って進んだ。魔法士たちの肩をかわし、隙間をすり抜ける。そのたびに、白髪の主はまだそこにいるかと、目で追いかける。
魔法士たちの間を縫って、視界が開けた時。
──長く、一つに結われた白髪が、僅かな風に乗って揺れている。その白さは、夕焼けの中でひときわ目立っていた。茜色の光を受けて、まるで銀色に輝くかのようだ。確かに美しい白髪だった。
しかし、それは彼女のものではない。
そこにいたのは、シアではなく、マキだった。
一瞬、ルイの動きが止まった。全身が、まるで時間を止められたかのように固まる。それは、失望と呼ぶにはあまりに微かで、自分でも気づかないうちに抱いていた、かすかな期待の残骸だった。何か温かいものが、すうっと胸から消えていく感覚。
彼は、魔法士たちの群れの中に佇み、まるで何かを探すかのように、きょろきょろと辺りを見回している。マキだ。マキがいる。その事実を、ルイの脳はゆっくりと認識し始める。彼の表情には、戸惑いと焦りが混ざっていた。何かを探しているように見える。
ルイは、しばしその場に立ち尽くした。何かを飲み込むように、小さく息を吐く。吸い込んだ空気が、やけに冷たく感じられた。そして、心の中に広がった空虚を無視するかのように、ゆっくりとマキに近づいた。
「マキ」
ルイが声をかけると、マキははっとして顔を上げた。彼の深紅の瞳が、ルイの姿を捉える。その瞳には、安堵の色が浮かんでいた。見知った顔を見つけた時の、ほっとした表情だった。白い髪が、彼の動きに合わせて揺れた。
「……ちょうど、お呼びしにいきたいと思っていて……でも、人が多く困っていたのです」
マキの声は、周囲の雑踏音にかき消されそうなほどに小さかった。彼の周りを行き交う魔法士たちの足音や話し声に、彼の細い声は簡単に飲み込まれてしまう。彼は少し困ったように眉を下げ、またきょろきょろと周囲を見渡した。
ルイを追いかけて、琴葉と響哉もやってきた。琴葉の白いドレスが夕日に染まり、響哉の紫檀色の髪が風に揺れる。
──そこへ、さらに人の波をかき分けるようにして、大きな影が近づいてきた。
「胡典司!」
低く、少し焦りを含んだ声。ポーランだった。彼もまた遠くから白髪を見つけ、こちらへやってきたらしい。魔法士たちの群れを縫うようにして進むその姿は、まるで岩が川の流れを押し分けるかのようだった。彼の巨体が通ると、自然と人々の間に道ができる。
彼の紫色の瞳が、マキの姿を確認すると、ほっとしたようにわずかに緩んだ。肩の力が抜けるのが、傍から見てもわかった。
「御用でしたら呼んでくだされば……この場所まで足を運ばずとも——」
ポーランはそこで言葉を切った。ルイたちが揃っているのを確認し、さらに——マキの神妙な表情を見て、その先を言うのを止めた。彼の瞳が、わずかに細められる。何かが、いつもと違う。それを察したのだ。
マキは、その四人を見渡し、一度深く息を吸い込んだ。彼の白い髪が、夕風に揺れる。そして──
「李将衡、そして賓客の皆様──院主様がお呼びです。どうか、ご同行いただけませんでしょうか」
彼は、深々と頭を下げた。その仕草は、恭しく、そして緊張に満ちていた。長い白髪が、彼の顔を覆い隠す。
──院主。この国の頂点に立つ存在が、直接自分たちを呼んでいる。
その言葉の重みが、夕焼けの空気の中に静かに落ちた。
琴葉が口元を手で押さえて、驚きを露わにする。深紅の瞳が見開かれ、その表情には驚愕と困惑が混ざっていた。普段は決して動揺を見せない彼女が、明らかに何かを飲み込むように息を呑んだ。
ポーランもまた、無言でマキを見つめていた。その紫色の瞳には、驚きと、そして何かを考えるような深い色が浮かんでいる。彼の大きな体が、石像のように動きを止めていた。先ほどまでの焦りも、安堵も、すべてが引いていったかのように。
響哉とルイはそのことの重さを図りきれないが、無言で視線を交わしたあと、マキに向き直った。琴葉の反応から、これがただ事ではないことは理解できた。響哉の銀灰色の瞳が、わずかに細められる。ルイの深緑の瞳にも、緊張の色が走る。
四人の間に、静寂が流れた。周囲の雑踏が、遠くに聞こえる。魔法士たちの声も、足音も、すべてが遠のいていくようだった。
ただ、夕焼けだけが、彼らを包み込んでいる。




