第x話 霧の檻に帰る約束の足音
「……律灯」
「どうしましたか」
「…………律灯」
「珠桜様、ついに百回目ですよ」
執務室に響くのは、珠桜のかすれた声と、律灯の淡々とした応答。普段であれば、二人の間に軽妙なやり取りが交わされるはずだ。
しかし、今は違う。珠桜は珍しく顔色が悪かった。机に肘をつき、両手を重ねるようにして、暗い影が浮かんだ表情で沈んでいる。
その理由は、誰が見ても明白だった。
ルイが、消えた。あの予言を聞いた直後に。シアがそのことを告げてきた時、珠桜は本当に後悔した。まるで、全てが自分の責任のように思えた。ルイに背負わせるには、まだあまりにも重すぎる――その重圧を、彼に押し付けてしまったことを。
そして、シアがその後を追った。彼女がどんな決意を胸に、どんな覚悟で向かったのか、珠桜には察することができた。もちろん、止めようとした。しかし、強引な手段を取ることができなかった――いや、取れなかった。
(……指導者として、一体何が正解なのか……いまだにわからないままだ)
唇を噛みしめる。あの時、もっと強く止めればよかった。もっと適切に導けたはずだと、後悔の念が胸を締め付ける。けれど、今さら何をしても、その後悔が現実を覆すわけではない。
(……また、"彼女"に怒られるかな)
その言葉が、無意識に頭をよぎる。
「……! 珠桜様、見てください」
律灯が水鏡を操り、冷徹にその映像を珠桜に向けた。
その鏡の中には――ミレディーナと対峙するルイとシアの姿が浮かび上がっていた。
二人は強い風に煽られ、砂嵐の中で身を守るように立っているが、その表情からは何か危険が迫っていることが伝わってくる。
「彼女は……!!」
珠桜の声に、明らかな動揺が混じる。映像に映るミレディーナ――あの“災厄の権化”といっても過言ではないほどの、最悪の異能者が、再び動き出している。そして、彼女に、大切な二人の仲間が、襲われている。
その恐ろしさを、珠桜はよく知っていた。
「……ルイ君とシアちゃん、相当な悪運の持ち主みたいですね」
律灯の言葉が、どこか冷ややかに響いた。だが彼のその冷静な口調とは反対に、映像に釘付けになった珠桜の心に、焦燥がじわりと広がっていく。
ミレディーナの異能の前に立ち尽くす二人の姿。無力に見えるが、それがますます珠桜の不安を掻き立てる。
「……律灯。君、助けに行って、生きて帰ってこれるかい?」
珠桜の声が震える。それは、尋ねるというより、すでに諦めが見え隠れするような問いだった。
「まあ、無理じゃないですかね」
「君は……ほんっとに、正直だねえ……」
律灯の答えは、珠桜の心に冷たい水を浴びせたかのように感じられる。彼の口調はあまりにも冷静すぎて、珠桜は少しだけ胸が締めつけられるような気がした。しかし、その冷徹な返答の中に、どこか自分を慰めるような雰囲気も漂っていた。
珠桜は力なく笑い、言葉を返す。しかし、その表情はだんだんと歪み始め、笑顔というよりも苦笑いに近くなった。彼の中で、これから起こるであろう事態に対する恐怖と無力感が膨れ上がり、言葉を紡ぐのが精一杯だった。
(ルイ君とシアが危ない。それどころか、放っておけば地球全土がまた……)
胸が締めつけられるような思いが、珠桜の心に湧き上がる。ルイとシアが危険な状況にあること。それに気づかずにいる自分が、何もできないことが、今まで感じたことのないほどの焦りを生み出していた。そして、もしミレディーナがその力を振るうなら――全てがまた崩壊し、無数の命が失われることになるのではないかという恐怖が、頭の中で駆け巡った。
その瞬間。
――執務室内の空気が、わずかに震えた。
気配が、まるで見えない力に引き寄せられるように、二人の周囲に集まってくる。最初は微細なものだった。だが、それが次第に、確かな圧力として空間を支配し始める。
どこからともなく響く不自然な音がひとつ、響く。ブブ、と。無機質でありながら、耳を刺すような鋭さを持ったその音は、突如として執務室に満ちた緊張をさらに増大させる。
"なかった"はずの場所が、まるで上書きされるかのように、変わる。
その瞬間、空気そのものが変化する。目に見えない何かが、しっかりとこの空間を締め付け、重く、濃密な存在感を持つものが二人を包み込む。
けれど――珠桜と律灯にとって、この感覚は決して新しいものではなかった。
それでも、久しぶりに感じるその圧倒的な存在感は、嫌でも心の中に警鐘を鳴らす。
――コツ、コツ。
二つの冷徹な足音が、空間を引き裂くように響く。それだけのこと。
だが、足音が響くたび、まるで空気そのものが張り詰め、室内の重力が急に増したかのように感じられる。目に見えぬ圧迫感が広がり、空間がひとしきり軋むように揺れ、全てがその足音に引き寄せられていく。まるで彼らの歩みが、世界そのものを支配しているかのようだった。
「……ああ」
珠桜が、思わず立ち上がった。ふらりと、引き寄せられるように、机を回って"彼ら"に近寄る。その瞳は無意識のうちに、彼らの存在を、ただひたすらに感じ取っていた。
――コツ、コツ……
足音が止まった。空間が一瞬、静寂に包まれる。
珠桜の前で、二つの影が揺れる。その冷徹な気配が、思わず背筋を伸ばさせる。
律灯と視線を交わす。その目に浮かぶのは驚きではない。――確信の色。そして、それ以上に覚悟の色が濃く刻まれていた。
律灯はゆっくりと息を吐き、凛とした表情のまま無言で立ち上がる。迷いは微塵もない。彼は、ただひたすらに前を見据え、静かに歩を進める。その歩みが、足音の主たちへ向かってゆっくりと進む。
「"おかえり"」
「おう」
「ええ、ただいま」
短いやり取りだった。
律灯の声に続いて、無機質な男と、女の声が、静かに響いた。
「……今回も、行ってきてもらえるかな」
珠桜が、少しだけ沈黙を置いてから告げた。その声には――覚悟と、期待が滲んでいた。
「……ああ」
「もちろん」
まるで"それ"が当然であるかのように。まるで"それ"こそが、この場の唯一の解決策であるかのように。
返答は、間髪入れずに返ってきた。
その言葉は、重みを感じさせるものだった。
「……律灯も。これなら勝てるね?」
珠桜が問いかける。律灯はしばし、何も言わずにその瞳で珠桜を見つめた。その瞳の奥に揺るぎない確信が映る。
「……まあ、はい」
言葉少なにそう答えた律灯。その返答は、言葉以上に重く、彼の覚悟が凝縮された一言だった。
足音の主たちは律灯を連れ、再び姿を消した。
「ふぅ……」
一人、残った部屋で、珠桜は静かに天井を仰いだ。心の中で、何度も何度も、彼らの無事を祈る。
「……みんな、必ず帰ってくるんだよ」
その言葉を呟くと、珠桜は少しだけ顔を伏せ、再び静かな決意を胸に秘めた。




