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第一話 絶望の世界の淵

 この世界に救いはない。

 ──それでも、わずかな安息だけは、まだ手の中にある。


 静寂に沈む部屋の中、不意に柔らかな声が響いた。


「ねーえ、ルイくーん? ぼーっとしているようだけど、具合でも悪いのかい? え?」


 ふと、意識が引き戻される。

 視線を上げた瞬間、そこにあったのは、まるで人の手で仕立て上げられた芸術品のような男の顔。


「う、うぉおあああっ!?!?」


 ルイは驚きと共に反射的に身を引く。少々オーバーすぎる反応に、その男はクスリと微笑を溢した。


 終末の影すら寄せ付けない、まさに完璧な造形。漆黒の髪はかつて人類が虜になった宇宙の深淵の闇を映したかのように艶めき、微かな光すら飲み込んで静かに煌めく。切れ長の瞳には、深い知性と冷ややかな静謐が宿りながらも、その奥底に何か掴みきれぬ余韻を孕んでいる。長い睫毛が伏せられるたび、現実が霞むような錯覚すら覚えた。端正な鼻梁、薄く形の整った唇——すべてが、どこか非現実的なまでに美しく調和している。

 この世界が焼け落ちようとも、彼だけは最後の一輪の花のように咲き誇り続けるのではないか。そんなふざけた幻想を抱くほどに、彼──黒華(くろはな)珠桜(みおう)は美しい。あまりにも、美しかった。


 珠桜が微かに動く。その仕草には一切の無駄がなかった。音もなく、滑るように間合いを詰める。まるで空気すら従わせるかのような優雅な動作だった。

 ルイが息を呑む間に、すでに彼は至近距離にいる。


「……っ!」


 逃げる間もなく、指先がそっと額に触れた。


「熱でもあるのかな?」


 さらりと前髪を押し上げる仕草は、どこまでも自然で——それでいて、妙に甘い。まるで風がそよぐような、優しく触れる指先。その動作ひとつすら、完璧な美しさを宿していた。

 ニコリ、といたずらっぽい笑みを浮かべる珠桜は、ルイの弱点を熟知している。


「...............ない、っす......」

「えぇ、本当? 君が理由もなくぼーっとするなんて珍しいし......あっ、もしかして怪我を隠してるとか? 急いで"葛城(かつらぎ)"を呼んでこようか!」

「珠桜さんそれだけは勘弁してください! 熱もないし怪我もしてないです!!」


 ルイの弱点──というか、"この場所"にいるほとんどの人間の弱点となっているのが、珠桜が"葛城"と呼んだ人物である。まあ、理由は彼に会えばすぐにわかることだろうから、あえて語ることはない。


 シアとともに拠点・"澄幽(ちょうゆう)"へ帰ってきたルイは、澄幽とそれを守る《(えん)》という組織のリーダーである珠桜に、今日の調査の報告をしに来ていた。


 昨晩、上空を覆う雲を突き破り、宇宙から何かが落ちてきた。澄幽からそれなりに離れた場所に落下したものの、衝突の瞬間に地面が揺れ、空が赤く染まったのを覚えている。

 ……それだけなら、まだ良かった。数分後、澄幽の外を監視しているチームのメンバーたちはとんでもない異変を目の当たりにする。


 ——猛吹雪。しかも、小一時間で数メートルの雪が積もる異常事態だった。

 まるで、世界が一瞬で"書き換えられた"ように。


 ルイとシアは珠桜の命令を受け、すぐに現場へ向かった。そして、そこで見つけたのは"異能者"だった。


「それで、続きは? 異能者がどこから来たのか、だっけ」

「......はい。衝突地点に形成されていたクレーターを調べたんですが、隕石の破片も、地球外生命体の痕跡も、何一つ見つかりませんでした」

「何も?」

「はい。クレーターと、異能者だけがそこに。俺は、その異能者が宇宙から落ちてきたと解釈していいと思ってます」


 ふむ、と珠桜は、顎に指を添え、ゆるやかに瞳を伏せた。静かな仕草一つすら、絵画のような完璧さを宿している。

 ちなみに、このように珠桜の熱狂的なファンなのではないか、というほどに珠桜の容姿を内心褒め称えているのはルイだけではない。澄幽で暮らす全員が、同様に珠桜に熱狂的になっている。過去開催された"澄幽イケメンランキング"では、なんと全票獲得し優勝して──


「ルイ君。今、余計なこと考えてるでしょ」

「いいえ。断じてそんなことはありません。ええ、もちろん。はい」


 ピシ、とルイは姿勢を正した。


「宇宙から降ってきた異能者か......異能持ちだとバレて"スペースコロニー"から追放されて......その腹いせにあの吹雪を引き起こした、とか。ありそうだね」


 "スペースコロニー"。それは、滅びゆく地球から逃れるため、十数年前に宇宙に打ち上げられた新たな人類の居場所。数千万人を収容するために複数建設され、その内部には、地球がまだ"緑の惑星"と呼ばれていた頃の暮らしを再現する設備が整えられているという。

 限られてはいるものの、澄んでいて、安全な水源。管理された空気。人工の太陽の下で育つ作物。

 きっとそこでは今も、人々が穏やかに暮らしているのだろう。


 ──だが、もうそこへ行く道はない。


 コロニーへ人々を運び続けた"方舟"は、数年前、資材不足を理由に運行を停止した。それは「地球に残された者たちは見捨てられた」という、何よりも明確な宣告だった。


 だが、コロニーへあえて行かないというのも、また一つの選択だと珠桜は語っていた。その理由が、"異能者の迫害"にある。


「異能者っていうだけで"犯罪者予備軍"扱いですからね......ま、しょうがないです。実際、宇宙から放り出された時点で、生きているだけでもおかしいのに。地球に衝突して怪我一つなく。しかも、腹を立てて地球を吹雪を尽くすって......そんな人物を匿うなんて無理な話ですよね」

「十中八九、無理だね。コロニーが雪で溢れかえって、みんな圧死してしまうだろうよ」


 そう言って、珠桜は笑った。だが、その笑みはどこか空虚で──ほんの一瞬、影が差したように見えた。


 コロニーは、すべての人間を受け入れる楽園ではない。そこは、犯罪歴のある人間や体が弱くこの先そう長くはもたない人間、そして異能者を寄せ付けないようにしていた。それが、宇宙での人類繁栄に必要不可欠だと考えられているからだ。

 繁栄できない者や、繁栄の邪魔になりそうな者は、宇宙船から放り出されるか、もしくは──何らかの形で、息の根を止められてしまう。


 だが、だからといって、地球に残ることが正しいというわけではない。


 地上は不安定だった。異能者の気分ひとつで、天変地異が引き起こされる。今日が平穏でも、明日にはすべてが崩れ去るかもしれない。

 澄幽もまた、例外ではない。"源"となるものの力が尽きれば、この安息もすぐに消える。それに、異能者にこの場所が知られるのも、時間の問題だった。


『コロニーこそが希望』と考える者も、かつて澄幽に大勢いた。だが、それはすでに手の届かない場所へと去り、辿り着いたところで待つのは排除だけだとわかり、その考えは安直だと批判されるようになった。


 珠桜はこの澄幽で暮らす者たちを、安全な場所へ導きたいと願っている──だが、いまだにその方法も、安全な場所の候補も見つけられずにいるのが現実である。


「とりあえず、今回の件、解決してくれて本当に助かったよ。また何かあったら頼ませてもらうよ」


 珠桜は、指先を組みながら小さく息をついた。ほんのわずかに伏せられた睫毛が、どこか遠い世界を見ているように揺れる。まるで、まだ解決しない"何か"を胸に抱えているかのように。


「はい。よろこんで」


 その返事に、珠桜はゆるやかに微笑んだ。


「失礼します」と、ルイは頭を下げ、部屋を出ようとした。その瞬間。


 ──バンッ!


 勢いよく、珠桜の後ろにあったドアが開かれた。


 そこに立っていたのは、一人の男。

 目元を覆い隠すほど長く伸びた前髪が、振動とともにわずかに揺れる。紫檀色の髪は、強く波打つような癖を持ちながらも、しっかりと整えられていた。ルイは、それが珠桜の奮闘の結果であることを知っている。

 一見、頼りなげにも見える細身の体躯。しかし、衣服の下には鍛え上げられた線の細い筋肉が確かに存在していることが、わずかに張った服越しに伝わってきた。


 彼は珠桜の"二人"いる従者の片割れ。夜霧(やぎり)律灯(りっと)である。


「珠桜様......ッ」

「そんなに慌ててどうしたんだい、律灯」


 律灯がこれほどまでに慌てた様子を見せるのは珍しい。普段は常に冷静で、感情を昂らせることなんてないのに。

 ルイはそっと後ろ手で開けかけたドアを閉め、律灯のほうへ体を向ける。『彼がこんなにも取り乱すなんて、きっと何か問題が起きたに違いない』。そんな憶測が、ルイの体を部屋の中に留めた。


 ──実際、律灯は珠桜やルイにとって、あまりにも衝撃的なことを報告した。



「──"ミコ"様が、お目覚めになりました」

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