Interlude III: 21xx - Red Eve 飲河満腹 - 2
「……いいなぁ、十九かあ。たしか、そんときにはもう、魔法の勉強してたっけなぁ」
ポーランが、懐かしむように呟く。彼の紫色の瞳が、遠くを見つめていた。その視線の先には、自分自身の若き日々が広がっているかのようだった。無意識に口元が緩み、かすかな笑みが浮かぶ。
「その頃に皓絳はあったのか?」
ルイが尋ねる。彼もまた、この国の成り立ちに興味を持ち始めていた。白亜の街並み、整然とした制度、魔法士たちの組織——それらが、どのようにして生まれたのか。
「どうだっけなぁ。まだまだ小さかったが……この周辺地域の生き残りをかき集めて、共同体みたいなのはあった気がするな」
ポーランは、顎に手を当てて考え込む。その表情は、まるで遠い記憶を手繰り寄せるかのようだった。目線は宙をさまよい、時折「うーん」と呟きながら、記憶の断片をつなぎ合わせている。
といいつつ、あまり思い出せてはいないようだった。きっとこれまでにたくさんのことがあったはずだ。戦い、決断、別れ、出会い。数え切れない出来事が、彼の人生を彩ってきた。そのすべてを覚えていろというのは、無理な話だ。昔のことを、どんどん思い出せなくなっていくのも仕方ない。
「その時からポーランは将衡なのか?」
「いーや まだその制度がなかった。天衡院の制度がしっかりと組まれてったのは、七年前のことがあって『もっとこの国を強くしなくちゃいけねえ』って思ったからなんだ」
ポーランの声に、かすかな力が込められる。七年前の災厄。多くの命が失われたあの戦いが、彼の中でまだ生々しく息づいている。紫色の瞳の奥で、一瞬だけ暗い影が走った。あの時、守れなかった者たちの顔が、脳裏をよぎる。しかし、それはすぐに消え、彼は再び穏やかな表情を取り戻した。戦士として、彼は前に進むことを選んだのだ。
「じゃあ、ここの指導者……トップは、ポーランってことか」
ルイの言葉には、自然な思考の流れがあった。ポーランが制度を作り、軍を率い、街の人々からこれほど慕われている。ならば、彼がこの国の頂点に立つ人物なのだろう——そう考えるのは、当然のことだった。
ルイの問いに、ポーランはゆっくりと首を振った。
「んー、それも違う」
彼は、一度言葉を切ってから、静かに続けた。
「天衡院、そして皓絳の頂点に立つ御方は、"院主様"だ」
「院主……?」
ルイの眉が、わずかに動く。数度聞いた言葉。彼の好奇心が刺激される。
「おう。"黑曜"と契約を結ばれ、この皓絳そのものをお造りになった御方だ。
今も魔法の力が維持され続けているのは、院主様と黑曜の契約があるからこそ。人々が暮らす街並みも、ただ造られただけではなく、今この瞬間も院主様の力によって保たれている。
街のすべてが、院主様の存在を土台として成り立っている。だからこそ、この国の頂点は院主様ただお一人だ」
ルイは息を呑んだ。
この巨大な都市は、人の手で建造されたのではなく──一人の魔法で創られている?
崩壊した世界のどこに、これほどの国を作り上げるだけの資材があるのか、確かに不思議だった。廃墟と化した街々から、これだけの白亜の建材を集めることなど、不可能に近い。だが──それが、魔法であるのなら、全て説明はつく。
一人の人間が、魔法でこのすべてを創り出したのだ。信じられないような話だが、ポーランが嘘を言うはずがない。
ルイは、改めて食堂の窓の外に広がる白亜の街並みを見た。そのすべてが、たった一人の手によって生み出されたという事実に、言葉を失った。
「ただし。その正体に迫るのは、いくら天衡院の定める秩序に縛られない賓客の立場といえど、止めてもらえると助かるぜ」
ポーランの声が、わずかに硬くなる。しかし、その瞳には敵意はない。ただ、大切なものを守る者の、静かな決意があった。紫色の瞳が、まっすぐにルイを捉えている。
「『院主様』は誰かが代われる立場じゃない。だから、万が一にでも危険に陥るようなことがないように、正体は伏せられてる」
彼の言葉の重みが、ルイの胸に響く。この国の頂点に立つ存在。その命が、どれだけ多くのものを支えているか。それを思うと、正体を隠す必要性も理解できた。
「オレも知らない。といいつつ……」
ポーランは、そこでにやりと笑った。
「オレが院主、本人である可能性もある」
「え……?」
ルイの目が、思わず見開かれる。ポーランが、院主? 彼がこの国の頂点に立つ存在?
「おもしろい仕組みだろ?」
ポーランは、いたずらっぽく笑った。その仕草は、堅物の軍人というイメージからは想像もつかないほど、無邪気だった。大きな体を揺らして、くつくつと喉を鳴らす。
確かに、面白い仕組みだ。誰もが院主である可能性があり、誰もが院主ではない。その曖昧さが、院主を守っている。真実を知る者は、おそらくごくわずか。あるいは、誰も知らないのかもしれない。
「なるほどな」
ルイの口元にも、自然と笑みが浮かんだ。この巨大な都市を支える仕組みの一端を、今、垣間見た気がした。
その時、厨房からいい匂いが漂ってきた。
ルイの鼻孔をくすぐる、食欲をそそる香り。肉の焼ける芳ばしい香り、香辛料の複雑な香り、そして長時間煮込んだスープの濃厚な香りが、複雑に絡み合っている。
「お待たせしました!」
店主が、大きな盆を抱えて現れた。盆の上には、所狭しと料理が並べられている。湯気が立ち上り、色とりどりの食材が美味しそうに盛り付けられていた。
まず運ばれてきたのは、湯気を立てるスープ。透き通った黄金色の液体からは、長時間煮込まれた肉と野菜の旨味が香る。
次に、前菜の盛り合わせ。色彩豊かな小皿の数々が、食欲をそそる。
さらに、魚料理、肉料理と続く。焼き上げられた魚、煮込まれた肉、香辛料の香りをまとった炒め物——次々に運ばれてくる皿に、ルイの目は点になった。
まだまだ——料理は止まらない。
大きな皿に山盛りにされた肉。骨付きのスペアリブ、厚切りの豚の角煮、香草と共に炒められた羊肉。それらが次々とテーブルを埋め尽くしていく。
ルイは、目の前に広がる光景に言葉を失った。これが一人前の量なのか。いや、明らかに普通ではない。皿の数も、それぞれの盛り付けの量も、常軌を逸していた。
ポーランも、目を丸くして並べられた料理の山を見つめている。彼の表情には、驚きと、そしてどこか楽しげな色が浮かんでいた。
「店主……これはいくらなんでも、やりすぎじゃないか?」
「何をおっしゃいます! お二人はこれから戦いに臨まれるのでしょう? ならば、腹ごしらえはしっかりと!」
店主は胸を張って言い放つ。その顔には、料理人としての誇りと、客人をもてなす喜びが溢れていた。割烹着の袖が、彼の誇らしげな仕草に合わせて揺れる。
ルイとポーランは、顔を見合わせる。ポーランの紫色の瞳が、いたずらっぽく細められた。ルイの深緑の瞳にも、自然と笑みが浮かぶ。そして、同時に小さく笑った。
これが、皓絳の日常。これが、守られた人々の食卓──いや、守った人々の食卓であり、これから守る人々の食卓でもある。戦いの日々の中で、こうして共に食卓を囲み、笑い合うこと。それこそが、守るべきものなのかもしれない。
「……いただきます」
ルイは、そっとスープを口に運んだ。
温かい。そして、美味い。澄幽で、藤崎が作ってくれる料理とはまた違った美味しさがある。体中に、染み渡るような旨味が広がる。それは、ただの栄養補給ではなく、何かもっと深いものを満たしている気がした。




