Interlude III: 21xx - Red Eve 飲河満腹 - 1
白亜の街に降りてきた。
天衡院の門をくぐってしばらく歩くと、視界が突然開けた。目の前に広がっていたのは、これまでに見たことのない光景だった。
石畳の道の両側に、様々な店が軒を連ねている。一つの大きな建物の中に、無数の店が詰め込まれているわけではない。しかし、道の両側に立ち並ぶ店々が、まるで一つの巨大な市場のように連なっているのだ。二階、三階と吹き抜けになった空間には、渡り廊下が張り巡らされ、人々が行き交っている。
服屋には、色とりどりの衣服が並べられている。ルイの知っているような簡素なものではなく、鮮やかな色彩のドレスや、仕立ての良い上着が、マネキンに着せられて飾られていた。隣の店には、生活雑貨が所狭しと並べられている。陶器やガラス製品、木工細工など、様々な素材で作られた道具たちが、棚の上で朝日を受けている。さらにその隣では、見たことのない機械たちが、規則正しく並べられていた。四角い箱のような形をしたもの、丸い画面がついたもの——それらが、おそらく「家電」と呼ばれるものなのだろう。
人々が行き交い、それぞれの用事を足している。買い物袋を提げた女性たちが、立ち話に花を咲かせている。その笑い声が、楽しげに響く。一方で、書類や通信端末を抱えて忙しなく歩く人の姿もある。彼らは足早に人混みをすり抜け、どこかへ消えていく。様々な人々の、様々な生活が、ここにはあった。
これが、皓絳の日常。七年間、災厄から守られてきた人々の"当たり前"。
ルイは、その光景にしばし見入った。澄幽とは違う。澄幽にも人々の生活はあった。しかし、ここには人が溢れかえっている。そして、人々は皆笑っている。広大な土地を存分に使って、ルイの知らないものを使って。その当たり前もまた、輝いて見えた。
澄幽の細々とした暮らしとは比べ物にならない、豊かさと活気。それが、ここにはあった。
——その空気が、ポーランがその場に現れた瞬間に変わった。
「あっ!」
一人の少女が、ポーランの姿を認めて目を輝かせた。彼女の頬がほんのりと赤らむ。無邪気な喜びが、その表情から溢れ出ていた。しかし、すぐに「しまった」というような顔をして、自分の口を両手で塞いだ。ぱっと俯き、何事もなかったかのように足早に通り過ぎていく。その背中が、ほんの少しだけ跳ねているように見えた。
他の人々も同様だった。ポーランを見て目を輝かせては、すぐに口を噤む。視線を逸らし、俯き、通り過ぎる。しかし、その背中には笑顔が浮かんでいるように見えた。まるで、大切な人を見つけたけれど、そっとしておくことを選んだ者の、温かい笑顔だった。
時々、ルイのことも少し長めに、不思議そうに見る者もいた。見慣れない顔。ポーランと共に歩く少年。彼らは名残惜しそうに目を逸らしながら、何事か囁き合っている。おそらく、ルイの正体について話しているのだろう。例の客人か、異能者か——様々な憶測が、彼らの間を飛び交っているに違いない。
「ごめんな。これじゃ落ち着けないよな」
ポーランが、ルイに小声で言った。その声には、申し訳なさが滲んでいた。彼自身はこの状況に慣れっこでも、連れている者にとっては居心地が悪いだろうという配慮だった。
「いや。大丈夫」
ルイは慌てて首を振る。しかし、視線が集まる居心地の悪さは、確かに感じていた。肌に無数の視線が突き刺さるような、落ち着かない感覚。彼らに悪意がないことは分かっていても、慣れない状況だった。
「……人気者、みたいだな」
「ありがたいことにな」
ポーランは、照れくさそうに笑った。その表情は、昨晩から見てきた「李将衡」の厳しい顔とはまるで別人だった。無骨な頬がわずかに緩み、目じりに深い皺が寄る。
「休憩の時は、みんな邪魔をしないようにと声をかけずにいてくれる。そう言った心遣いもありがたい」
彼の言葉に、ルイは納得した。だから彼らは、ポーランを見つめても声をかけないのだ。休憩時間を邪魔しないために。英雄を讃えるのではなく、一人の人間としての時間を尊重するために。その心遣いが、かえってポーランの人望の厚さを物語っていた。
ルイは、改めて周囲を見渡した。彼らが向ける視線の先には、確かな敬意と愛情があった。それは、強さへの憧れだけではない、もっと深い何かだった。
しばらく歩くと、一軒の食堂にたどり着いた。
古びた暖簾がかかった、こぢんまりとした店だ。周囲の白亜の建物とは趣を異にする、どこか温かみのある外観。白壁ではなく、木の温もりが感じられる造りで、窓からは柔らかな灯りが漏れている。暖簾には、達筆な文字で店名が記されていた。何度も洗濯されたのだろう、ところどころ色が薄くなっているが、それがかえって歴史を感じさせた。もしかしたら、災厄が訪れる以前から使われているものなのかもしれない。
ポーランは暖簾をくぐった。
「店主! 予約の時間ぴったり、来たぞ!」
「おっ、李将衡! よくいらっしゃいました!」
暖簾の向こうから現れたのは、屈強な体格の男だった。恰幅の良い体に、真っ白な割烹着がよく似合っている。がっしりとした腕は、料理人というよりは戦士のように見える。包丁を握るというより、武器を握る方が似合いそうな風貌だ。しかし、その顔には満面の笑みが浮かんでいた。目じりに刻まれた深い皺が、彼の長年の仕事を物語っている。
彼もまた、ポーランを見て目を輝かせている。先ほどの人々と同じように。しかし、彼は口を噤むことなく、まっすぐにポーランを見つめていた。その表情には、親しい友に対するような、親しみと信頼が溢れていた。
「食堂の親父さんだ。お前の食の好みが分からなかったから、とりあえず日本食もこの国の飯も食える場所を選んでみた」
ポーランが、ルイに向かって説明する。彼の大きな手が、ルイの背中を軽く押した。
「安心してくれ。オレの行きつけだから、味は保証するぜ」
その言葉には、確かな自信が込められていた。戦場での判断と同じように、食の選択にも彼なりの譲れないものがあるらしい。
「その御方が例の賓客で……? ずいぶんと若い方ですね。てっきり、もっと戦場を渡り歩いてきたような、傷だらけの屈強な方かと……」
店主が、ルイをまじまじと見つめる。好奇心と、わずかな驚きが混ざった視線だった。大きな体を少し屈め、ルイの顔を覗き込むようにして見ている。
その言葉に、ルイの表情が緊張した。朝の訓練でのやり取りを思い出す。自分は戦力として数えられない。ポーランと違い、やはり頼りなく見えるだろうかと。深緑の瞳に、一瞬だけ陰りが走る。
しかし、店主はすぐに気づいて、慌てたように手を振った。
「……ああっ! もちろん、悪い意味ではなくてですね! 若くても強い御方はたくさんおりますし! 細身でも強い御方だってごまんと!!」
彼の大きな手が、必死に否定するように空中を切る。その様子が少し滑稽で、ルイの緊張がほどけた。
「あ、そんな……悪く言ってるわけじゃないっていうのは分かってます」
ルイは、かすかに笑った。この店主も、ポーランと同じく、悪意のない人間だとすぐに分かったからだ。
「そういえば、ルイって何歳なんだ?」
ポーランが、何気なく尋ねた。彼は先に椅子に深く腰掛け、くつろいだ様子でルイを見ている。
「歳……? 十九だけど……」
「「若ッ!?!?」」
ポーランと店主が同時にルイを凝視した。その勢いに、ルイは思わずのけぞる。まるで、二人の視線が物理的な圧力となって押し寄せてくるかのようだった。
「十個も離れてるぞ!? マジか! 全然オレにも物怖じしないし、ガッツあるなと思ってたら……!」
ポーランが、目を丸くして叫ぶ。その表情は、驚きと感嘆が混ざったものだった。
「李将衡だって若いですからね! それにしても若い! 昔、延命の手術を受けて、百を超えて生きる人たちもたくさんいるってのに……!」
店主も、負けじと声を張り上げる。彼の大きな手が、机の上で興奮したように動いていた。割烹着の袖が、その動きに合わせてひらひらと揺れる。
「こりゃ、たくさん食ってもらわないといけませんね……!」
店主はそう言うと、嬉しそうに腕まくりをしながら厨房へと入っていった。その背中からは、やる気に満ちたオーラが漂っているようだった。




