Interlude III: 21xx - Red Eve 撥雲見日
再び、朝最初に訪れた闘技場に戻る。
轟音は止んでいた。亀裂が入っていたはずの壁や床も、元通りに修復されていた。まるで、激しい戦いの痕跡など最初からなかったかのように。魔法の力によって、完全に再生している。
琴葉と響哉の姿はない。二人はすでに訓練を終え、どこかへ去ったらしい。ルイは無意識に、彼らの姿を探してしまった。闘技場の隅々まで視線を巡らせるが、白いドレスも紫檀色の髪も見当たらない。
ただ、その代わりに、闘技場には多くの魔法士の姿があった。贄骸ではない。生きた、人間の魔法士だ。彼らがそれぞれに訓練に励んでいる。剣を振るう者、魔法式を刻む者、互いに手合わせをする者たち。汗を飛び散らせ、息を切らせながら、彼らは今日も研鑽を積んでいる。その姿は、まるで一つの生きた芸術作品のように、力強く、そして美しかった。
ポーランが、闘技場の外に立っていた。その巨体は、まるで岩のようにどっしりと構え、微動だにしない。彼の鋭い瞳が、魔法士たちの訓練の様子を見つめている。一人ひとりの動きを、欠点を見逃さないかのように、じっくりと観察していた。時折、微かにうなずいたり、逆に首をかしげたりする。その表情からは、指導者としての厳しさと愛情が同時に感じられた。
シュエンとルイの姿に気付き、ポーランは手招きをした。大きな手が、ゆっくりと動く。
「程宰衡。貴殿は職務に戻るがよい。彼は我が預かる」
「はいよー。よろしくネ。じゃあね、ルイ君」
シュエンが軽く手を振り、そのまま軽やかな足取りで、闘技場を後にした彼の細い髪が、天頂に近付いた日に照らされてキラリと輝く。
彼の背中が見えなくなるまで、ルイはぼんやりと見送っていた。
ルイは、ポーランの横に腰を掛けた。彼の巨体の隣に座ると、自分がひどく小さく感じられる。
闘技場のベンチは冷たく、ひんやりとした感触が衣服越しに伝わってきた。その冷たさが、疲れた体にはかえって心地よかった。三時間の訓練で熱を持った体を、優しく冷ましてくれるようだ。
「……大体、其方らの実力は把握した。配置についても纏まりつつある」
ポーランの声は、低く、落ち着いていた。その口調には、確かな自信が感じられる。長年、数多の戦場を見てきた者の、揺るぎない判断だった。言葉の一つ一つに重みがあり、無駄がない。
その声を聞いていると「着いていけばいいのだ」と、そう思わせる何かがあるように感じた。この人に着いていけばいいと安心させる何かがある。それが、誰にも真似できない、彼だけの強さであることは自明だ。理屈ではない。言葉でもない。ただそこに存在するだけで、周囲に安堵を与える不思議な力。それが、ポーランという男だった。
「俺は、何をやればいいんだ?」
ルイが問う。
深緑の真剣な瞳が向けられ、ポーランもそれを見返した。二人の視線が交錯する。
「其方には敵の"本体"を探して欲しい。七年前、最も苦戦した所以だ」
ポーランの紫色の瞳が、遠くを見つめる。その視線の先には、七年前の戦いの記憶が広がっているかのようだった。激しい戦闘、無数の死、そして――最後の最後まで見つけることができなかった、敵の位置。リタとエゼキエルが隠れていた場所。
偶然、あの二人の子供を見つけ、追い詰め、地獄を終わらせることはできた。だが、逃げられてしまったことを、今日も後悔し続けている。もし、あの時もっと早く見つけられていたら。もし、粒子の違いを見分けることができていたら。無数の「もし」が、彼の心に今も重くのしかかっている。
「あの時は、無数の亡霊と荒れ狂う魔力に紛れ、敵の粒子を捉えることが叶わなかった」
彼の声に、かすかな悔しさが混じる。あの戦いで、どれだけの者が命を落としたか。その重みが、彼の言葉の端々に滲んでいた。強い男の、しかし拭いきれない後悔の色が、その瞳の奥に沈んでいる。
「そもそも、我々では魔力と異能者の放つ星溶粒子の差までは見極められぬ。同じ粒子として映るのだ。
……だが、程宰衡と沈天医の見立てによれば、其方は個々の粒子の見分けがつくとか?」
ポーランが、ルイの瞳を覗き込むように、しっかりと見つめる。その瞳には、期待が滲んでいた。わずかな希望を託すかのような、真剣な眼差しだった。長年探し続けていたものに、ようやく手が届きそうな、そんな緊張感が彼の表情に漂っていた。
ルイは「ああ」と短く言いながら、頷いた。すると──ポーランはわずかに目を見開いた。
「ほう……」
彼の口元が、かすかに緩む。それは、喜びの表情だった。無骨な顔に浮かぶ、穏やかな笑み。
大きな手が、ルイの肩をポンと叩いた。その手のひらから伝わる温もりが、ルイの疲れた体にじんわりと染み込んでいく。その拍子に、ルイの体がわずかに傾いだ。ポーランの手の大きさと重みに、思わず体勢を崩しそうになる。しかし、その感触は、確かな信頼の証のように感じられた。
「……ならば、その能力を活かし、リタとエゼキエルの居場所を特定して欲しい。そうすれば、我が全てを終わらせよう」
ポーランの声は、低く、重かった。それは、長年の因縁に終止符を打つ者の、静かな決意の表れだった。紫色の瞳が、まっすぐにルイを捉えている。その瞳の奥には、七年前の戦いで失ったものへの想いと、そして今回こそはという強い意志が燃えていた。
「……分かった」
ルイは、静かにうなずいた。短い言葉だったが、その中には彼なりの決意が込められていた。自分にしかできないこと。それを全うする。
「琴葉殿と響哉殿には、我と共に遊撃を務めて頂く。シア殿には、万が一死者が出た場合、その魂をすぐに天へと送れぬか、今試して頂いているところだ」
ポーランの言葉に、ルイの眉がわずかに動いた。姿を見ないと思ったが、そんなことを試していたのか。彼女もまた、自身の異能の新たな可能性を、今まさに探っている最中なのだろう。
「回復や蘇生も、状況を見つつお願いする。だが、彼女自身が自覚しておらぬだけで、代償がある可能性は十分にあり得る。慢心した異能者が滅びる様を、これまで幾度となく見てきた」
彼の声が、一段と低くなる。その言葉には、長年戦場を見てきた者の重みがあった。力は必ず代償を伴う。その真理を、彼は誰よりも理解しているかのようだった。
「彼女に無茶はさせぬ」
その言葉には、確かな決意が込められていた。彼らを守る。その思いが、はっきりと伝わってくる。ポーランの大きな手のひらから伝わる温もりが、その言葉にさらに重みを添えていた。
「いいのか? 本当に、それで」
ルイが問いかける。自分の力を求められてここに来た。ならば、その力を最大限に使うことを期待されているのではないか。無茶をさせないということは、それだけ戦力としての価値を低く見ているのではないか。そんな不安が、彼の声の端々に滲んでいた。言葉の節々から、自分への疑念が零れ落ちそうになる。
「無論」
ポーランの答えは、簡潔だった。迷いの欠片もない、即答だった。その声には、一片の曇りもない。
「我々は、身代わり欲しさに其方らに助けを求めたのではない。
戦い、生き延びる為に其方らを呼んだのだ」
その言葉が、ルイの胸の奥深くに染み込んだ。ポーランの紫色の瞳が、まっすぐにルイを捉えている。その瞳には、嘘も、ごまかしもない。ただ、真実だけがあった。
──生き延びるために。ただ、それだけのために、彼らはここにいる。
犠牲にするためではない。使い捨てるためでもない。盾としてではなく、共に戦う仲間として。
共に生きる未来を掴むために。
ポーランの言葉は、ルイの中にあったかすかな不安を、そっと溶かしていった。まるで、朝日が霧を晴らすように。緊張が解け、肩の力が抜ける。深く息を吐くと、それまで溜め込んでいた空気が、ようやく外に出ていった。
静寂が、二人の間に流れた。
闘技場では、魔法士たちが黙々と訓練を続けている。剣を振るう音。魔法式が発動する微かな光。足音。掛け声。それらが、澄んだ空気の中に溶け込んでいた。遠くから聞こえるそれらの音は、まるでこの街の鼓動のように、規則正しく、確かにそこにあった。
その時、遠くで鐘が鳴った。
ゴーン、ゴーン——重く、澄んだ音が、皓絳の街全体に響き渡る。ルイがここに来てから既に数度聞いた、一定の時間を告げる鐘だ。低い余韻が、白亜の建物の間を縫うように伝わり、やがて遠くへ消えていく。
これは——おそらく、武衡局、早番の魔法士の休憩の合図。
途端、頭に手が置かれた。
「わっ」
突然のことに、ルイはバランスを崩し、若干前かがみになる。大きな手のひらが、彼の頭のてっぺんを覆っていた。
顔を上げたそこで──
ポーランが——笑っていた。
それは、これまでの彼からは想像もつかないような、穏やかな笑顔だった。戦士の鋭さは消え、ただの、一人の人間の温かい表情がそこにあった。
──そうだ。シュエンとリンファと同じように。
「……"オレ"は皆が悲しまないようにしたい。お前らを巻き込んだ責任は、ちゃんとオレがとるぜ」
その言葉に、ルイは息を呑んだ。
彼の素顔を見た。堅物の軍人の仮面の下に隠されていた、優しい、仲間を想う者の顔を。ルイを包む大きな手のひらから、その想いがじんわりと伝わってくるようだった。
「腹減らね? メシ食いいこうぜ、ルイ」
ポーランはそう言うと、ルイの頭から手を離し、立ち上がった。その背中は、日に照らされて、大きく、そして温かく見えた。紫の瞳が、いたずらっぽく細められている。先ほどまでの重厚な雰囲気はどこへやら、そこにはただ、腹を空かせた男の普通の表情があった。
ルイも、ゆっくりと立ち上がる。さっきまでの重い空気が、嘘のように軽くなっていた。溜まっていた疲労も、なぜか和らいだ気がする。
「……ああ。行く」
二人は、闘技場を後にした。背後では、魔法士たちの訓練がまだ続いている。剣を振るう音、魔法の光、掛け声。それらが、武衡局の日常を形作っていた。




