Interlude III: 21xx - Red Eve 喧々囂々 - 2
すると、汗を拭いながらポーランが歩いてきた。上衣の裾をたくし上げ、たくましい腕で顎をつたう雫を拭っている。その動作の一つ一つに、戦いを終えた者の充足感が滲んでいた。大粒の汗が、彼の隆起した筋肉の間を伝い、床に落ちる。
──鍛え上げられた鋼のような筋肉が、空から注ぐ柔らかな光を受けて鈍く輝く。胸板は厚く、腹筋は割れ、肩から腕にかけての筋肉は、まるで彫刻のように隆起している。無駄な肉は一切なく、すべてが戦うために最適化された肉体だった。そのあまりの存在感に、ルイは「ひょっ」と声を上げた。思わず一歩後ずさりしそうになる。
「其方、戦闘は得意か?」
ポーランの声は、戦いの直後だというのに、まったく乱れていなかった。深く響く低音が、ルイの鼓膜を震わせる。汗に濡れたその表情は、むしろ清々しささえ感じさせた。
先程の戦いを見た後に『戦闘は得意か』と聞かれ、自信満々に答えられるほどの実力は、ルイにはない。あの二人の動きは、人間の領域を超越していた。自分が同じ土俵に立てるとは、到底思えなかった。
「そこそこ……? あ、でも、射撃には自信がある」
ルイが答えると、ポーランは顎で前方を示した。その仕草は簡潔で、余計な言葉を一切排していた。
「そこに的がある。試しに撃ってみせよ」
視線を向けると、十個の的が等間隔に並べられていた。木製の、シンプルな標的だ。的の中心には、黒く塗られた円が描かれている。距離は約二十メートル。決して難しい距離ではない。本調子ではない体ではあるが、普段通りやればすべて正確に撃ち抜けるはずだ。
ルイは静かに銃をショルダーホルスターから抜いた。手に馴染んだその感触が、彼の集中力を高める。グリップの冷たさが、かえって意識を研ぎ澄ませた。深く息を吸い込み、星溶粒子をまとめたエネルギー弾を充填する。体内から粒子が集まり、銃口に淡い光が宿る。
狙いを定める。的の中心に、照準を合わせる。呼吸を整え、引き金に指をかける。周囲の喧騒が遠ざかり、的だけが視界に存在する。
──放った。
一発目が的を捉える。木屑が舞い、標的が揺れた。続けて二発目、三発目。ルイの指は迷うことなく、規則正しくトリガーを引いていく。それぞれの弾丸は、正確に的の中心を撃ち抜く。四発、五発、六発──弾丸が空気を切り裂く鋭い音が、武衡局に静かに響く。
七発、八発、九発。的が揺れ、木屑が舞い散る。そして最後の一発。彼は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながらトリガーを引いた。十発目も、見事に的の中心を射抜いた。
「……どうだ?」
ルイがポーランを見ると、彼は顎に手を当てて考え込んでいた。太い指が、顎を撫でる。その瞳は、遠くを見つめるように虚空に向けられていた。
「ふむ」
(……ん?)
思ったような反応ではなかった。ルイは少し肩透かしを食らったような気分だった。賞賛か、あるいは批評か、何か言葉があると思っていたのに、ポーランはただ考え込んでいるだけだ。その無骨な顔に、称賛の色も失望の色も浮かんでいない。ただ、じっと虚空を見つめ、何かを咀嚼するかのように顎を撫でている。
言葉を継ぐことなく、ポーランは自然な動作で壊れた的を魔法で撤去した。木片が魔力の粒子に変わり、空気に溶けて消える。そして──新たな的を生み出した。
今度は空中なども含め、印がつけられた立方体のようなものが、四方に無数に用意される。大小様々な立方体が、床から、壁から、天井から浮かび上がるように出現する。まるで空間そのものが歪んだかのような錯覚を覚える光景だった。数えてみれば、百はくだらない。いや、百を優に超えている。
ルイが反射的にその一つに照準を合わせたところ──肩に手が置かれ、止められた。
その手は大きく、温かく、しかし確かな重みを持っていた。ルイが顔を上げる間もなく──
──世界が、揺らぐ。
並行する世界で構築された魔法が現実に転写される瞬間の、魔力粒子の揺らぎ。
爆風と、木屑がルイの顔に叩きつけられた。
目を開けていられないほどの衝風。顔を覆った腕の向こうで、耳をつんざくような破砕音が一斉に響き渡る。それは先ほど琴葉と戦っていた時とは比べ物にならない、一瞬の、しかし圧倒的な破壊の音だった。
風が収まり、ルイが顔を上げる。ポーランの巨体の背景で、先ほど用意された百個以上の形の全てが、粉みじんになっていた。木屑は魔力の粒子と戻り、空へ溶けていく。まるで、最初から何もなかったかのように。ただ、粉塵だけが空間に漂い、光を受けてキラキラと輝いていた。
ルイは、ただただ言葉を失った。口が、かすかに開いたまま動かない。目は見開かれ、目の前の光景を理解しようと必死に情報を集めているが、脳が追いつかない。一瞬で。本当に、一瞬だった。
「人間が一発銃を放つ間に、魔法士は最低でも百発は撃ち込む」
ポーランの声は、淡々としていた。そこに、誇示するような響きはない。ただ、事実を述べているだけだった。まるで「今日は天気がいい」と言うのと同じくらい、当然のこととして。
「距離や相手の速度など、考慮する必要すら無い。目標がいる場所に、勢いをつけた状態で生成するのみ。体内で生成し、内側から破壊するのも良かろう。百発全てが必中する」
ルイの頬に、たらりと汗が垂れた。これは──紛れもなく、冷や汗だ。背筋を冷たいものが這い上がる。
──昨日までの敵。今だけの味方の本領は、これなのだ。これが、魔法士という存在なのだ。
「……其方は戦力としてではなく、特別な危機を回避するための役とするのがよさそうか」
背後で、リンファの大爆笑が聞こえる。昨夜あれだけ泣いていたのは何だったのか。もしくは、あの時の鬱憤を晴らすためだろうか。彼女の笑い声は、武衡局の天井にまで響き渡っていた。
「戦闘は、我らに任せよ」
ポーランの言葉は、シンプルだった。しかし、その言葉には、絶対的な自信と、そして──ルイへの信頼が込められていたように思えた。見下しているわけではない。蔑んでいるわけでもない。ただ、それぞれの役割があるということを、静かに伝えているだけだった。
ルイは、目の前に立つ巨漢を見上げた。ポーランの表情は穏やかで、そこに嘲笑の色は一片もない。その無骨な顔は、ただ真っ直ぐにルイを見つめていた。汗に濡れたその姿は、神々しくさえあった。
「…………ハイ」
ルイは、小さくうなずいた。その声は、悔しさと、決意が混ざり合った、複雑な響きだった。




