Interlude III: 21xx - Red Eve 喧々囂々 - 1
朝、ルイの部屋の扉がノックされた。
コンコン、という軽快な音に、ルイは重い瞼を開ける。視界に飛び込んできたのは、見慣れない白亜の天井。
彫刻のような装飾が施されたその天井を、ぼんやりと見つめる。一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった──が、天衡院の離宮に用意してもらった部屋であることをどうにか思い出し、深く息を吐いた。
窓から差し込む光が、部屋を柔らかく照らしていた。空は分厚い雲で覆われ、その奥から光が差し込む。皓絳の朝は、澄んだ青空ではなく、どこか重たい雲の向こうから始まるらしい。その光は、直接的な陽光というより、雲に濾過された優しい明かりだった。
昨夜の疲労がまだ体の奥に残っている。全身の筋肉が鉛のように重く、起き上がることさえ億劫に感じられる。指先一つ動かすのに、意識を集中させなければならなかった。
(……ストレッチはしたのに)
恨めしそうな表情で、ルイは頑張って起き上がった。シーツが擦れる音が、静かな部屋に響く。伸びをして、肩を回す。ゴキゴキという関節の音が、自分の体でありながら他人事のように聞こえた。体が起きるまではまだもう少しかかりそう──しかし、ノックの主は待ってはくれなかった。
「おっはよ〜〜んっ!」
返事を待たずにバン!と爆音を立てて扉が開き、シュエンがひょっこりと顔を出す。
勢いよく開かれた扉が壁に当たり、部屋中に反響する。そのけたたましい音に、ルイの頭痛が一層ひどくなった気がした。シュエンのグレージュの髪が朝日を受けてキラキラと輝いている。まるで、疲れや迷いとは無縁の世界から来たかのように、その笑顔は無邪気で、まぶしかった。
「ポーランサマからのお呼びだしだよ〜ん! ささ、武衡局へレッツゴー!!」
その無邪気な笑顔に、ルイは少しばかり怒りを覚えたことは内緒だ。
──シュエンの表情に、昨夜の病室で見せた淀みは一切なかった。たった一夜で全てを乗り越え、消化してきたかのように、清々しい朝の顔をしている。あの時、ベッドの上で見せた苦しそうな表情は、まるで嘘のようだった。
ルイは、自分と彼の違いに、ただただ圧倒された。精神的なタフネス。そして、朝から叩きつけられるけたたましい声量。その両方に、ルイは思わず天井を仰いだ。
白亜の天井がそこにある。ただ、その天井を見上げる自分の状況が、なんだか滑稽に思えた。
◇◆◇
武衡局に足を踏み入れた瞬間、耳をつんざくような破壊音が響いた。
ドカン、ドゴン、と連続する破砕音。何かが砕け散り、粉々になる音が、広い空間に反響している。まるで、建物全体が崩壊するかのような轟音が、ルイの鼓膜を震わせた。
「いいわー!! そこ! そこ! やってしまいなさい、ポーランーッ!!」
リンファの甲高い声が、破壊音に負けじと響き渡る。その声には、子供が遊園地ではしゃぐような無邪気な興奮が満ちていた。
ルイが目を向けると、そこでは琴葉とポーランが手合わせの真っ最中だった。
二人の動きは、魔法によって極限まで引き上げられている。それこそ、速度によって肉体が崩壊してしまうギリギリくらいまで。目で追うことも叶わない。琴葉の白いドレスが翻るのも、ポーランの巨体が繰り出す拳も、残像が溶ける様子しか分からない。
たまに、空間を切り裂くような鋭い音とともに、破壊の痕跡が残される。
琴葉の踵落としが空を切ったのか、地面に放射状に亀裂が広がる。大理石の床が蜘蛛の巣のようにひび割れ、その中心は粉々に砕けていた。
ポーランの拳が空を切ったのか、その後方の壁に大きな亀裂が走る。頑丈そうな石壁が、まるで紙のように裂けていく。
その破壊力に、ルイは思わず息を呑んだ。人間の出す衝撃とは思えない。いや、彼らはもはや人間の域を超えている。その一撃一撃が、建物を破壊するだけの威力を持っている。
リンファは外周にある対面のベンチの側で、ぴょんぴょん跳ねながらポーランを応援している。彼女の黒髪が、跳ねるたびに揺れた。肩口で切りそろえられた髪が、跳ねるたびにふわりと浮き上がる。目をキラキラと輝かせ、両手を叩きながら、声の限りに声援を送っている。
その無邪気さと、目の前で繰り広げられる破壊の応酬のギャップに、ルイは言葉を失った。
逆サイド──ルイに近しい位置にあるベンチでは、響哉が伸びていた。
珍しい光景だった。あの響哉が、だらりとベンチに体を預け、天を仰いでいる。紫檀色の髪がベンチの背もたれから垂れ、無防備に晒された喉元が規則正しく上下している。手足は投げ出すように伸び、完全に力が抜けきっていた。普段は決して見せない、隙だらけの姿だった。
「お、おはよう。どうしたんだ……? 珍しいな」
ルイが近づき声をかけると、響哉は顔だけを向けて、掠れた声で呻いた。
「……アイツは……久しぶりに……やべえ……」
銀灰色の瞳には、疲労の色が濃く浮かんでいる。その瞳の奥には、普段の獲物を狙うような鋭さはなく、ただ只管に消耗しきった者の虚ろな光だけがあった。彼にしてこの様子なら、ポーランの実力は相当なものらしい。
視線を戦場に戻す。琴葉とポーランの戦いは、ますます激しさを増していた。
琴葉の動きは、まるで舞のようだった。白いドレスの裾が、彼女の動きに合わせて優雅に翻る。まるで、戦場に咲く一輪の白い氷の花のように、その姿は美しく、そして恐ろしかった。しかし、その一挙手一投足には、確かな殺意が込められている。彼女の手刀が空を切ると、空気が裂けるような鋭い音がした。その軌跡が、目に見えない刃となって空間を切り裂いているかのようだった。
対するポーランは、その巨体からは想像もつかないほどの敏捷さで、琴葉の攻撃をかわし、反撃する。彼の拳の一つ一つが、まさに必殺の重みを持っていた。空を切る拳が生み出す風圧が、遠くのルイの髪さえも揺らす。その一撃が直撃すれば、並みの異能者なら一瞬で粉砕されるだろう。
二人の間で炸裂する衝撃波が、周囲の空気を震わせる。まるで、そこだけ別の時間が流れているかのような、非現実的な光景だった。
「──そこまで」
その声は、静かだった。
戦場の傍らに控えていた贄骸が、ゆっくりと手を上げて試合の終了を告げる。審判員のように、いや、それ以上の威厳を持って。彼の声には、不思議な力があった。激しい戦闘の空気が、一瞬で静まる。まるで時計の針が止まったかのように、琴葉とポーランの動きがぴたりと止まった。
轟音が消え去った武衡局に、静寂が戻る。先ほどまで空間を震わせていた破壊音が嘘のように、そこには穏やかな空気だけが流れていた。
「えー!? なんで途中で止めるのよ! 最後までやりなさい!」
贄骸の指示を聞いたリンファが駄々をこねる。彼女の頬が膨らみ、子供のように足をバタバタさせた。
「リンファ様。これ以上はポーラン様のお体に障ります」
対して、贄骸は至って冷静だった。その表情には、一片の感情も浮かんでいない。まるで、機械が適切な返答を返すかのように。
聞いた話、琴葉が天衡院を去った一件を皮切りに、贄骸には一切の感情を持たせないようにしたらしい。ただ、その場面に適した発言をし、魔法式を選び使うだけ。琴葉のように、自ら考え、自ら魔法を生み出し──天衡院に反旗を翻すこともない。彼らは完全なる道具として、この国の基盤を支えている。
贄骸の冷静な言葉に、リンファは「ちぇっ」と不満そうに唇を尖らせた。しかし、すぐに表情を変え、ポーランに向かって叫ぶ。
「次はちゃんとやるのよ!! そいつなんて、ちゃちゃっと倒して!」
その声は、闘技場中に響き渡った。しかし、リンファの反応に対し、ポーランも琴葉も何も言わずに遠い目をしてスルーをかました。まるで、聞こえていないかのように。あるいは、聞こえていても気にしないという達観した境地のように。
二人の間には、戦いを終えた者同士の静かな敬意が流れていた。目線を合わせ、無言でうなずき合う。そこに、言葉は必要なかった。激しい打撃の応酬の後に残るのは、疲労と、そして互いの実力を認め合う静かな尊重だけだった。
「あ、朝から元気だな……」
ルイがぽつりと呟くと、シュエンが隣で笑った。
「オレとお嬢は勤務始まる前にチラ見しにきたワケ~。朝からこんなエキサイトなバトル見たら、さすがにゲンキ出るでしょ?」
彼の言葉通り、朝の清々しい空気の中での戦闘は、見ている者にも活力を与えるようだった。昨夜の病室での重い空気が、少しずつ晴れていくのを感じる。戦闘の余波で破壊された床や壁も、なぜか爽やかに見えた。




