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第六十七話 未来を見るため。共に立つ夜

 一方で──


 部屋から出てすぐ、ルイは響哉が着いてきていないことに気付いた。白亜の廊下は月明かりに照らされ、彼らの影だけが長く伸びている。振り返ると、閉ざされた扉だけがそこにあった。響哉は、あの部屋に残ったのだ。

 戻って呼びに行こうかとも考えた。しかしその瞬間、疲労感がドッと押し寄せてきて、足が急激に重くなった。まるで、鉛を詰め込まれたかのように。全身の筋肉が悲鳴を上げ、骨の髄まで疲れが染み込んでいる。


 一日、いろいろなことがありすぎた。

 魔法士との戦いで琴葉が立ち止まったあの瞬間から──荒野に琴葉を探しに出て、皓絳に招かれ。数え切れないほどの出来事が、怒涛のように彼を飲み込んだ。一つ一つの出来事が、彼の心と体に確かな痕跡を残している。

 積み重なった疲労が、今になって静かに、しかし確実に彼を蝕んでいた。アドレナリンが切れた後の、どうしようもない虚脱感。全身が、休息を求めていた。


「……はぁ」


 ため息がつい漏れたことも、しばらくの間気付かないほどに。

 その息は、冷たい夜気の中で白く煙り、月明かりに照らされて一瞬だけ幻想的に輝き、そしてすぐに消えた。自分の吐息さえ、今は遠く感じられる。まるで、自分自身が自分ではなくなってしまったかのような、不思議な感覚だった。



「ルイ……?」


 思わずハッとした。顔を上げると、シアが月明かりの下でルイの顔を覗き込んでいる。アメジストの瞳が、心配そうに揺れていた。彼女の頬には、先ほどの涙の跡がうっすらと残っている。月明かりに照らされて、その跡は銀色の線のように光っていた。


「ルイも……無理しちゃダメだよ」


 シアの声は、か細く、それでも確かな思いやりが込められていた。彼女自身も疲れているはずなのに、それでもルイを気遣うことを忘れない。その優しさが、ルイの胸の奥にじんわりと沁みた。


「……ああ。分かってる」


 ルイは壁に手をつき、深く息を吸った。

 大理石の冷たさが、手のひらからじんわりと伝わってくる。この皓絳の建物を支える白い石は、見た目の美しさとは裏腹に、どこまでも冷たかった。その冷たさが、逆に彼の朦朧とする意識をわずかに覚ます。


 遠くから、規則正しい足音が微かに聞こえる。コツ、コツ、コツ——一定のリズムを刻むその音は、夜間の見回りだろうか。この完璧な都市は、眠らない。いつ、何が起きてもおかしくないという緊張感が、夜の闇の中に潜んでいる。

 ルイは、その足音を聞きながら、ぼんやりと白い壁を見つめていた。疲労で霞む意識の中で、ただ音だけが規則正しく通り過ぎていく。



「私……本当に、守ってもらってばっかりだよね」


 シアの声が、少し震える。

 ルイは顔を向けた。彼女は自分の手を見つめていた。月明かりの下に晒された、細く、小さな手。まだ子供の面影を残す、華奢な指。その手で、彼女は何を掴めるというのだろう。何を守れるというのだろう。その自問が、彼女の表情から痛いほど伝わってくる。


「琴葉ちゃんも響哉さんも、ルイも、ずっと私のこと庇ってくれてる。でも、私、何も返せてない……いや、返そうともしてないのかもしれない」


 アメジストの瞳が、かすかに揺れる。自己嫌悪と、焦燥と、そして——自分自身への苛立ちが、その揺らぎに込められていた。


「違う。そんなことない」


 ルイはゆっくりと壁から手を離し、シアに向き直った。

 彼の深緑の瞳が、まっすぐに彼女を捉える。疲れ果て、限界を超えているはずのその瞳に、確かな意志が宿っていた。


「いつだってシアに助けられてる」


 その言葉に、シアの瞳がわずかに見開かれた。アメジストの輝きが、月明かりの中で一瞬だけ強まる。それは、暗闇の中に差し込んだ一筋の光を見つけたかのような、かすかな希望の色だった。

 しかし、その輝きは一瞬だけで──その後、彼女の表情は苦しそうに歪んでしまった。


「私……自分に、何ができるのか……分かんなくなっちゃいそう」


 シアの声が、次第に小さくなる。まるで、自分自身に言い聞かせるように。自分の存在意義を、必死に探す者のように。細い指が、無意識に自分の腕を抱きしめる。自分を守るかのように、あるいは、自分という存在を確かめるかのように。


「誰も……救えてる気がしない……っ」


 彼女の瞳に、新たな涙が滲み始める。月明かりに照らされて、それはまるで砕け散りそうなガラス玉のように儚く輝いていた。涙が溜まり、アメジストの色を歪ませ、今にもこぼれ落ちそうになる。彼女は唇を噛みしめ、必死にそれをこらえていた。白い歯が、下唇に深く食い込む。

 彼女の小さな肩が、かすかに震えている。その震えは、冷たい夜気のせいだけではなかった。自分の中に巣食う無力感と、それでも前に進もうとするもどかしさが、彼女の全身を震わせていた。


 声をかけたかった。だが、もう思考がまとまらない。なんと声をかければいいか考えることもできないくらいに、頭に靄がかかったように思考がぼんやりとする。言葉を紡ごうとしても、形にならずに消えていく。まるで、水の中で手を伸ばすかのように、何も掴めない。



 ──ここからは、ずっと無意識的な行動の連続だったと思う。


 足が勝手にシアの方を向いた。思考より先に、体が動いた。月明かりに照らされた白亜の廊下で、彼の影がシアの影と重なるように近づく。

 シアの華奢な肩を抱え込んで。

 ふらりと足元が覚束なくて、シアにもたれこむようだった。疲労で限界を超えた体が、彼女の小さな体を支えにしてしまう。彼女の首元に顔を埋めて。強く、強く引き寄せた。


 彼女の髪から、かすかに優しい香りがした。



「……救えてる」ルイの声は、静かだった。「シアが居なかったら、俺はここには居ない」


「どこかで野垂れ死んでいたか……自分で戦おうと思わずに、澄幽の安全な場所に閉じこもったままだったかもしれない。そしたら、珠桜さんとちゃんと話すこともできなかった。琴葉を引き止めることもできなかった」


 シアを抱き締める腕に力が入る。疲れ切って、何も考えられなくなっていた。それでも、彼女を独りにしたくないとは、確かに強く思っていた。思いだけが、彼の意識の中で唯一、はっきりと形を保っている。


「シュエンの傷が治ったのも事実だ」


 彼は、ゆっくりと顔を上げた。深緑の瞳が、まっすぐにシアを捉える。月明かりがその瞳に差し込み、疲労の色の奥にある、変わらぬ優しさを浮かび上がらせた。


「シアが救った人はちゃんといる」

「ほんと……?」


 シアが聞き返す声は震えていた。信じたいという願いと、まだ信じ切れない自分自身への不安が混ざり合った、複雑な響きだった。アメジストの瞳が、ルイの言葉を受け止めようとして、それでもまだ揺れている。まるで、風に揺れる水面のように、落ち着かない。

 彼女は、うつむいた。長い睫毛が、頬に影を落とす。その影が、彼女の表情をさらに哀しく見せていた。


「でも……誰も笑顔じゃないよ」

「……笑ってほしいのか?」


 ルイの問いは、短かった。


「……うん」


 小さな、しかし確かなうなずき。彼女の髪が、その動きに合わせてかすかに揺れた。


「……そっか」


 ルイは、少しだけ口元を緩めた。


 そして。



 ──目尻を落とした、穏やかな笑み。


 それは、彼の疲れ切った表情の中で、まるで暗闇に灯る光のように浮かび上がった。

 深緑の瞳が細められ、頬の線が柔らかく緩む。戦いの傷跡も、疲労の影も、その笑顔の前ではただの背景に過ぎなかった。

 その笑顔には、これまでのどんな言葉よりも多くのものが込められていた。感謝、信頼、そして──大切な人を想う、確かな気持ち。言葉にしなくても伝わるものがある。


 ──それが、今、確かにシアの心に届いた。



「これで、どうだ?」


「……っ」



 シアの目が大きく見開かれて──その頬が、熟れた果実のように赤く染まった。確かに差したその朱は、みるみるうちに耳の先まで広がっていった。

 彼女の唇が、かすかに開く。何かを言おうとして、しかし言葉にならない。代わりに、彼女の目尻から、新たな涙が一筋、こぼれ落ちた。しかし、それは悲しみの涙ではなかった。温かい、幸福の涙だった。

 シアの指が、ルイの服の端を掴む力を強める。離したくない。この瞬間を、決して手放したくない。その想いが、彼女の小さな手のひら全体から伝わってくる。


 彼女は、そっとルイの胸に顔をうずめた。涙で濡れた頬が、彼の服に触れる。その温もりが、ルイの疲れ切った体に、ゆっくりと沁み込んでいく。



「琴葉も、きっとお前が言えば照れながらでも笑ってくれるよ。その前に叩かれるかもしれないけど」


 ルイは元の表情に戻り、穏やかな口調で続けた。


「今は無理でも、ちゃんと全部終わったら、心から笑える日は来る」


 彼の深緑の瞳が、遠くを見つめる。その視線の先には、まだ見ぬ未来が広がっている。戦いの終わった後、平和な日々の中で、みんなが笑い合っている光景が、かすかに浮かんだ。

 ルイも、シアも。琴葉や響哉、澄幽で待っている珠桜や律灯も、皆が笑っている。そんな光景。


「そこまでの間に、何回も誰かを救う必要があると思う。終わりの見えない、辛い道だと思う」


 月明かりが、彼の横顔を照らし出す。その表情には、覚悟と、そしてわずかな哀しみが混ざっていた。彼もまた、この道のりが容易ではないことを知っている。失うものもあるかもしれない。傷つくこともあるだろう。


「でも……必ず、その日は来るから」


 彼は、シアの肩にそっと手を置いた。その手の温もりが、冷えた夜気の中で確かに伝わる。疲れ切った体から放たれる熱は、かすかで、しかし確かにそこにあった。それは、言葉以上の約束のように、シアの心に届いた。


「一緒に強くなろう、みんなで。俺たちだけじゃない……琴葉たちも、一緒に」


 ルイが小さく笑った。


「お互いを守り合おう。そして、みんなで未来を見よう」


 彼の深緑の瞳が、まっすぐにシアを捉える。その瞳に映る彼女の姿は、まるでこの世界で一番大切なもののように、優しく、そして確かにそこにあった。


「約束だ」



「ルイ……ッ」


 ──シアの感情が、ついに決壊した。


 彼女は無我夢中で彼女の背中を手繰り寄せた。ぎゅっと、もう二度と離さないと言わんばかりにしがみつく。

 小さな体が、ルイの腕の中で震えている。その震えは、恐怖からではない。溢れ出る想いを抑えきれない、心そのものの震えだった。

 震える声が、絞り出されるように溢れる。


「絶対……絶対、死んじゃダメだからっ……! 居なくなっちゃうなんで絶対イヤ!!」


 彼女の声は、涙でくぐもっていた。それでも、その言葉の一つ一つには、彼女の全ての想いが込められていた。


「琴葉ちゃんも、響哉さんも……! 誰も居なくならないでほしい……!」


 彼女の涙が、ルイの服に染み込む。温かい、確かな命の証。その温もりが、ルイの胸の奥深くにまで届く。

 シアの震える肩を、ルイの手がそっと撫でる。その仕草は、まるで壊れやすいものを扱うかのように、優しく、そして慈しむように。指の一本一本が、彼女の不安を拭い去ろうとするかのように、ゆっくりと、確かに動いていた。


「ああ」


 ルイは、そっとシアの背中に手を回した。その仕草に躊躇いはない。

 彼の腕が、彼女の小さな体を包み込む。それは、守る、支えるといった言葉を超えた、ただ純粋に、彼女の存在を確かめるかのような抱擁だった。


「そのために、俺たちは、俺たちが出来ることを精一杯頑張ろう。

 みんながそれぞれ全力を尽くす。俺たちに希望がある限り、きっとどんな災厄も打ち破れるはずだ」


 彼は、月明かりに照らされた白亜の廊下の先を見つめた。

 その先に、何が待っているのかは分からない。闇か、光か。あるいは、さらなる戦いか。しかし、確かに彼らは進まなければならない。手を取り合って、共に。


「だから泣くな。大丈夫だから」


 ルイの言葉は、優しく、確かにシアの心に届いた。

 彼の手が、彼女の髪をそっと撫でる。その温もりが、彼女の涙を優しく拭うかのように、頭のてっぺんから背中へと伝わっていく。


 シアの震えが、少しずつ落ち着いていく。彼女の指が、ルイの服を掴む力を、わずかに緩めた。

 ──しかし、離そうとはしなかった。まだ、この温もりを手放したくなかった。

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