第六十六話 銀灰の奥 - 2
響哉の眉が、わずかに動いた。
月明かりが、二人の間に静かに降り注ぐ。
響哉の表情が、わずかに歪んだように見えた。口元が引き結ばれ、顎の線が緊張で強張る。
銀灰色の瞳の奥で、何かが揺らめく。それは、怒りか、悲しみか──普段は決して見せることのない、彼の内側の脆さが、かすかに覗いたかのようだった。
しかし、それは一瞬のことだった。すぐに、彼の顔から感情の色は消え、元の無表情に戻る。まるで、氷の膜が再び表面を覆ったかのように。銀灰色の瞳から、先ほどの揺らぎは完全に消え去り、そこには冷徹な戦士の眼差しだけが残されていた。
だが、その一瞬の揺らぎを、見逃す琴葉ではない。
「ルイとシアは、絶対に死なせない。私と貴方の、誓いにして」
琴葉の声は、確かな決意を帯びていた。畳みかけるように、言葉を紡ぐ。
「──『守る』という言葉は使わない。もう、軽々しく言わない」
彼女の指が、無意識に自分の胸元を撫でた。そこには、これまで「守る」と言って守れなかった者たちの記憶が、重くのしかかっている。その言葉を、もう二度と軽んじないために。彼女はその言葉を、自らに禁じた。
「ルイとシアにも、力をつけてもらう。もっと、もっと。世界の誰も、彼らに届かないくらい」
琴葉の声に、かすかな熱が込められる。それは、彼らへの信頼であり、同時に、彼らが辿るであろう過酷な未来への覚悟でもあった。
「彼らはきっと、それを望んでいるわ」
彼女の脳裏には、ルイとシアの姿があった。まだ幼く、未熟で、しかし確かに成長している二人の姿が。
沈黙。
響哉は、しばらく琴葉を見つめていた。その表情は、月明かりの影でよく見えない。紫檀色の髪が、わずかな夜風に揺れる。彼の瞳は、琴葉から外されることなく、ただ静かに、彼女を見据えていた。
時間が、ゆっくりと流れる。
羊皮紙の端が、風に擦れるかすかな音。遠くから、何かの物音が微かに聞こえる。しかし、この瞬間、この空間では、二人だけの時間が流れていた。
「…………」
やがて、彼は深く息を吐いた。長く、重い吐息が、夜の静寂に溶けていく。
「……好きにすればいいだろ。お前の人生だ」
その声には、投げやりな響きがあった。響哉は壁に背を預け直し、琴葉から視線を外す。まるで、この対話そのものに興味を失ったかのように。紫檀色の髪が、彼の横顔を覆い、その表情を隠す。
「もういいさ。逃げたお前に興味はねえよ」
彼は、完全に琴葉から目を背けた。銀灰色の瞳は、窓の外の闇に向けられている。それは、明確な拒絶の姿勢だった。これ以上、語ることはない。そう告げるかのように。
しかし──
「本当に逃げているのは貴方じゃないの?」
琴葉の声が、静かに、しかし確かに響いた。
その言葉に、響哉の背中が微かに強張る。目に見えない何かが、彼の心臓を一瞬、確実に掴んだ。
「……何?」
響哉の瞳が、わずかに細められた。彼は振り返らない。しかし、その声のトーンが変わった。先ほどの投げやりな響きは消え、代わりに警戒するような鋭さが混じっている。
琴葉は、その背中に向かって、ゆっくりと語りかける。
まるで、逃げる獲物を追い詰める狩人のように。ただ、「貴方を確かめたい」という、静かな執念を持って。
「私が揺らいだから逃げたと言うなら、貴方は、あの時から一度も揺らいでいないの?」
深紅の瞳が、響哉の背中を捉える。その視線は、彼の仮面の奥にある真実を見透かそうとするかのように、鋭い。
「貴方は、『守りきれなかった』って事実から、目を逸らしていない?」
琴葉の言葉は、矢のように放たれた。
闇の中で、響哉の肩が、わずかに震えたのが見えた。その微かな動きを、琴葉は見逃さない。
「……私だけが、罪を抱えて立ち止まっているみたいな言い方、しないで。
私たちは、同じ場所にいた。同じものを守ろうとして、同じ結果を迎えた」
──その言葉を聞いて、響哉はゆっくりと振り返った。
銀灰色の瞳が、琴葉を捉える。その瞳には、先ほどの冷徹さはない。代わりに浮かんでいるのは、かすかな動揺と、そして──燃え上がるような、怒りの炎だ。
「……貴方は何から、そこまで必死に目を逸らしているの?」
「……何が……分かるって言うんだ?」
彼の拳が、わずかに握りしめられた。指の関節が白く浮き上がる。紫檀色の髪の下で、彼の表情が苦渋に歪む。
足が自然と動いていた。気づけば、彼は琴葉の目の前に立っていた。彼女の冷たい肩を強く掴み、無理やり引き寄せる。その手のひらに伝わる、死者の冷たさ。それでも、彼の指はさらに強く食い込んだ。
「お前なんかに……俺の、何が……ッ」
──言いかけて、響哉は止めた。
銀灰色の瞳が、激しく揺れる。彼は琴葉の顔を見つめていた。深紅の瞳が、静かに、ただ静かに、自分を見返している。その瞳には、恐れも、驚きもなかった。ただ、すべてを受け入れるかのような、不思議な透明さだけがあった。
彼の指の力が、緩む。
手を離して、踵を返す。何も言わずに部屋を出ていこうとした。逃げるように。自分の感情からも、彼女の眼差しからも。
「……ごめんなさい。深入りしすぎたわね」
彼女の声は、優しかった。先ほどまでの鋭さは完全に消え、代わりに、相手の痛みを包み込むような温かさがあった。
まるで、触れたら壊れてしまうものに、そっと手を伸ばすかのような、慎重な優しさ。それに、響哉の足が止まる。
深紅の瞳が、わずかに伏せられる。長い睫毛が、頬に淡い影を落とした。その表情には、かすかな悲しみが滲んでいた。自分の言葉が、相手を傷つけてしまったことへの、静かな後悔。
「……私には、貴方の痛みのすべては分からない。分かろうとすることしか、できない」
彼女の声は、少しだけ掠れていた。月明かりが、その横顔を照らし出す。口元には、かすかな笑みさえ浮かんでいた。しかし、それは悲しみを含んだ、儚い笑顔だった。
誰のことも、本当には分かり合えない。それでも——分かろうとすることだけは、できる。その諦念と希望が、彼女の言葉に込められていた。
彼女は、ゆっくりと椅子に深く座り直した。
白いドレスの裾が、床に広がる。その動作は、どこか疲れ果てた者のように、ゆっくりと、重かった。背もたれに寄りかかり、深く息を吐く。その胸の動きが、かすかに震えているように見えた。
「貴方も、休んで。魔法士たちに負けないよう教えてきたけど、貴方にとっても、今回の戦いは決して簡単なものじゃないわ」
琴葉の視線が、響哉に向けられる。その瞳には、慈愛にも似た優しさがあった。戦友として、そして──同じ傷を負った者としての、共感。
響哉は、何も言わない。
彼の拳は、まだ握りしめられたままだった。しかし、その力は、先ほどよりもわずかに緩んでいるように見えた。銀灰色の瞳の奥で、激しく燃えていた炎が、徐々に落ち着きを取り戻していく。
あれほど鋭く光っていた瞳が、今はただ静かに、琴葉を見つめている。その瞳に、何が映っているのか。怒りか、悲しみか、あるいは——何かを諦めた者の──
琴葉は、そっと目を閉じた。
長い睫毛が、月明かりに淡い影を落とす。その影が、彼女の白い頬の上で、かすかに揺れている。呼吸のたびに、かすかに、ほとんど感知できないほど微かに。白い頬が、冷たい光に照らされて、まるで彫刻のように美しかった。しかし、その美しさは、触れたら砕けてしまいそうな、儚さを伴っていた。
彼女の表情は完全に凪いでいた。先ほどの激しい対話の余韻さえ、今はもう感じさせない。深紅の瞳を閉じたその顔は、まるで深い眠りにつく者のように、静かで、安らかだった。
「おやすみ」
それは、戦いの終わりを告げる合図のように。あるいは、互いの傷を認め合った者同士の、静かな和解のように。言葉以上に、多くのものを含んだ、たった一言だった。
響哉は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
月明かりが、彼の紫檀色の髪を照らし出す。銀灰色の瞳は、閉じられた琴葉のまぶたを見つめていた。その瞳に、どんな感情が宿っているのか、誰にも分からない。
ただ、彼は動かなかった。まるで、時が止まったかのように。
羊皮紙の端が、風に擦れるかすかな音だけが、二人の間を漂う。積み上げられた石板の冷たい表面が、月明かりを淡く反射している。すべてが、この一瞬のために息を潜めているかのようだった。
──やがて、彼は無言で部屋を後にした。
振り返らない。言葉もない。ただ、背中だけが、暗がりの中へと消えていく。
彼の足音が、遠ざかっていく。コツ、コツ、という規則正しい音が、次第に小さくなり、やがて完全に消えた。その音が完全に途絶えた時、部屋には、より深い静寂が訪れた。
部屋には、琴葉一人だけが残された。
月明かりだけが、彼女の白い横顔を優しく照らし続けていた。羊皮紙の山も、石板の積み重なりも、すべてが静かに彼女を見守っている。冷たい石の床に、彼女の影が長く伸びていた。その影は、まるで彼女の孤独そのもののように、深く、そして静かだった。
琴葉は、目を閉じたまま、微かに息を吐く。そして、再び月を見上げる。
(……いつか、貴方のことも……救ってみせる。この戦いを乗り越えて……)
長い夜は、まだ終わらない。




