第六十六話 銀灰の奥 - 1
ルイとシアを見送った後、部屋には冷えた空気だけが残された。
二人の足音が完全に消え去り、静寂が再び支配者となる。羊皮紙の擦れる音も、風の気配も、すべてが息を潜めたかのように、重く、深い沈黙だけがそこにあった。
琴葉は椅子に腰を下ろしたまま、目の前の羊皮紙の山を見つめている。月明かりが、積み重なった無数の文字を淡く照らし出していた。
一枚一枚に込められた、災厄を退けるための人々の知恵。それらを、彼女は頭の中で構築して、維持し、引き出すための触媒となる紋を石板に刻み付ける作業に、そろそろ戻らなければいけない。
だが響哉は、壁にもたれたまま動かない。銀灰色の瞳が、月明かりの届かない暗がりの中で、かすかに光っている。紫檀色の髪が、わずかな夜風に揺れる気配もない。まるで、彼自身がこの部屋の一部であるかのように、完全な静寂を保ったまま、ただそこに存在している。
その視線は、琴葉の背中に突き刺さったまま、決して外されることはなかった。
沈黙が、重くのしかかる。
羊皮紙の擦れる音さえ、今は聞こえない。まるで、部屋の中の空気そのものが、次の言葉を待って息を潜めているかのようだった。
その胸の動きが、白いドレスの布地をわずかに上下させる。吸い込んだ空気は冷たく、彼女の体内で何かを満たしていく。
彼女の指先が、無意識に自分の腕を撫でた。白く、透き通るような腕。そこには、数え切れない戦いの記憶が刻まれている。骸兵として、七年前救えなかった人々。澄幽で守れなかった仲間たち。彼らの最期の表情を──彼女は忘れないように、脳に刻み付けていた。
瞼の裏に浮かぶ、いくつもの顔。手を伸ばしても届かなかった指先。消えていく温もり。それらすべてが、彼女の中で決して癒えることのない傷となって、今も疼いている。
深紅の瞳が、わずかに揺れた。
その揺らぎは、一瞬だった。しかし、確かにそこにあった。長年押し込めてきた感情が、表面に現れようとする、かすかな兆候。
そして──響哉へ、"思い"を投げる。
「……私は、澄幽に来たあの頃の自分の思いを……大切にしたい。そう、決めた」
深紅の瞳が、遠くを見つめる。
その視線の先には、過ぎ去った日々が広がっている。澄幽に足を踏み入れたあの日。荒野を彷徨い見つけた、かすかな灯り。木々の隙間から漏れる、暖かな光。笑い合う人々の姿を、初めて目にした瞬間の衝撃。
壊したくないと葛藤したあの夜。今までの殺しを、問い詰める悲痛な叫びを投げかけられた瞬間。そして──今までのすべてを手放した夜。守るために殺すという呪縛から、初めて解き放たれたかのように感じた、あの一瞬。
──だが、それを"共犯者"は受け取らなかった。
「……今さら何を言ってんだ」
響哉が、壁にもたれたまま低く返す。
その声には、からかいも、嘲笑もなかった。ただ、冷たい事実を指し示すだけの、平坦な響き。銀灰色の瞳が、わずかに細められる。月明かりの届かない暗がりの中で、その瞳だけが冷たく光っていた。
「決めただろ? 守るために全て殺すって」
「ええ。そうね。でも……」
琴葉の言葉が、そこで途切れる。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。月明かりが、白い頬を照らし出す。深紅の瞳が、窓の外に浮かぶ月を捉えた。
──あれも、澄幽の空と同様に偽物だ。その月は、冷たく、美しく、そして遠い。それでも、この夜を照らす唯一の明かりだ。
琴葉は月を仰ぎ、静かに続ける。
「全てを殺す道から逃げたのに。守れなかった彼らへのためにと、またその道へ戻ろうとして……駄目だった。揺らいでいるのに、それを見ないふりをし続けてきた」
白い指先が、冷たい夜空に向かって伸びる。失ったものを掴もうと──だが、当然、何も掴むことはなく、手は空を切る。月明かりが、その手のひらを透過し、淡い影を床に落とした。掴めなかった空虚が、掌全体に広がっていく。
「彼らへの贖罪は果たす。でも……私のこの振る舞いを望む、彼らではないと思うの」
その言葉には、静かな確信が込められていた。
守れなかった者たちは、きっと望んでいない。彼女がまた血に染まることを。また罪を重ねることを。彼らが守りたかったのは、そんな琴葉の姿ではなかったはずだ。
彼らは──琴葉を守るために、自ら死しかないであろう道を選んだのだから。
「戦いたくない」と、素直に口にしていたあの頃の琴葉。守られるべき存在として、ただそこにいた、世界の犠牲者であった琴葉。彼らは、そんな彼女を救いたくて、命を落としたのだ。
その記憶が、琴葉の脳裏に鮮明に蘇る。荒野で、自分を庇って倒れた仲間たちの最期の表情。血に染まりながらも、彼らは微笑んでいた。琴葉が無事であることを確かめて、安心したように、目を閉じた。
彼らが望んだのは、琴葉が生き続けること。そして、もう戦わなくていい日が来ること。決して、彼女がまた血塗られた道を歩むことではなかった。
「……ふざけるなよ」
響哉の声が、低く、鋭く部屋に響く。それは、彼がこの部屋に来て初めて見せた感情の揺れだった。今まで壁にもたれ、冷徹な観察者のように琴葉を見つめていた男が、ついにその仮面を剥がした瞬間。銀灰色の瞳が、獲物を捉えるかのように鋭く光る。
その視線を受け、琴葉の背筋がわずかに伸びた。深紅の瞳が、警戒するかのように細められる。二人の間に、見えない火花が散った。
「今更曲げられると思うな、今更逃げられると思うな」
響哉は壁から体を離した。
ゆっくりと、しかし確かな足取りで、一歩、琴葉に近づく。その足音が、大理石の床に冷たく響いた。コツ、という乾いた音が、部屋の静寂を切り裂く。
二歩目。三歩目。
響哉が近づくたびに、二人の間の空気が引き締まっていく。まるで、見えない糸で張り詰められた弓のようだった。いつ弾けてもおかしくない、危険な緊張感が、部屋全体を支配する。
「貴方は、そう思うのね」
琴葉は、振り返らずに言った。
その声は、先ほどまでの迷いの色を完全に消していた。代わりに浮かんでいるのは、静かな、しかし確かな意志。深紅の瞳が、月明かりの中で不気味なまでに澄んでいる。その瞳の奥で、何かが燃えているかのようだった。
彼女はゆっくりと、椅子から立ち上がった。
白いドレスの裾が、優雅に揺れる。布地が擦れる微かな音が、緊張の中にあってなお、気品を漂わせていた。まるで、戦いの女神がその座を立つかのような、神々しささえ感じさせる動作だった。
むしろ、そこにあるのは──対等な者同士が、向かい合う時の、静かな緊張感だった。戦士と戦士。互いの実力を知る者同士の、言葉以上の語り合い。
「でも、私はそうは思わない」
深紅の瞳が、まっすぐに響哉を捉える。その瞳には、迷いも、ためらいもない。ただ、自分の信じる道を、はっきりと見据える者の、強い光だけがあった。
それは、響哉の目に──これまでの"従順な"彼女の姿とは、まるで別人のように映った。
「私は、もう決めたの。迷わないって。間違わないって。後悔しないって」
彼女の声は、静かだった。けれど、その静けさの中に、燃えるような決意が込められていた。それは、ルイとシアに向けて宣言したものと同じ、しかし、より深く、より確かな意志だった。あの時はまだ迷いの残っていた言葉が、今は刃のように研ぎ澄まされている。
「そして、その決意は──貴方に曲げられるものじゃない」
響哉の足が、止まった。
二人の間に、わずか数歩の距離。月明かりが、二人の影を床に長く伸ばしている。羊皮紙の山も、石板の積み重なりも、すべてがこの一瞬のために息を潜めているかのようだった。夜風さえも、その流れを止めたかのように、静まり返っている。
琴葉は、響哉から視線を外さない。深紅の瞳と銀灰色の瞳が、夜の闇の中で交錯する。それは、力と力のぶつかり合いではなく──互いの意志を確かめ合う、戦士同士の静かな対峙だった。どちらが先に言葉を発するか。どちらが先に視線をそらすか。その駆け引きすらも、彼女たちの間では意味を持たない。
「私は、私の道を行く。たとえ貴方が、それを認めなくても」
その言葉には、揺るぎない確信があった。
「お前は、どれだけ殺したと思っていやがる」
響哉の声は、低く、重かった。その言葉の一つ一つが、琴葉の心に突き刺さる。銀灰色の瞳に浮かぶのは、冷徹な問いかけ。これまで彼女が積み重ねてきた罪の総量を、突きつけようとしている。
まるで、刃を突きつけるかのような鋭さだった。しかし、琴葉は一切怯むことはない。
「……全ての人々を殺せば、死んだ彼らが報われるなんてこと……絶対にない」
琴葉の声は、静かだった。しかし、その静けさの中に、確かな芯があった。深紅の瞳が、まっすぐに響哉を捉え返す。その瞳に、恐れの色は一片もなかった。
「澄幽の人々を守れなかったことも……たくさんの人々の命を奪ったことも、全て私が向き合わなければいけない、罪であると思う。『許されるため』なんてどれだけ動いても……この罪は消えない……違うかしら」
月明かりが、彼女の横顔を照らし出す。その表情には、悲壮感はなかった。ただ、静かな受容だけがあった。
「消えるさ。守りきれば」
響哉の言葉は、短く、そして重かった。
「──私たちは守りきれなかったのよ」
琴葉が、ゆっくりと顔を上げる。その深紅の瞳が、まっすぐに──目を見開く、響哉を捉えた。
「私だけじゃない。貴方も」
言葉が、夜の空気に重く沈む。
「貴方はどれだけ無茶しないでと言っても着いてきた。私と一緒に、彼らを守れなかった」
事実をそのまま伝えるだけに収まらない──咎める、響き。
何度も響哉が琴葉へ浴びせ続けてきたもの。
「……だから、貴方だって同罪」




