第十話 アリア・イン・ザ・クレバス - 2
地割れから脱出し、死の水に溶かされる最期もどうにか回避したルイとシア。
二人は肩で息をしながら、鉛のように重くなった身体をなんとか支えていた。足元はふらつき、立っているだけで精一杯だった。
その様子を――ミレディーナは、蔑むような冷徹な視線で見つめていた。
「……まあ。意外とお足が早くていらっしゃるのね。でも――残念ですわ。お話にもなりませんこと」
ミレディーナの周囲には雷が迸り、その周りを氷塊が静かに浮遊している。
その圧倒的なオーラに、二人は無意識に息を呑む。足元がますます重く感じられた。体が震えるのを抑えきれない。
自分たちは、ここまで必死に戦ってきた。この一つの戦いの中だけでも何十回と命の危機に瀕してきた。今の自分たちは、息も絶え絶えだ。
それに対して――
ミレディーナは汗一つかいていない。呼吸が乱れることもない。
その瞳は冷徹そのもので、焦りも不安もまるで無いかのように輝いている。まるで全てを支配し、支配される側の命運など微塵も感じていないかのようだ。
――自分たちは、これほどまでに消耗させられているのに。
明確に分かる。
ミレディーナは自分たちとは次元が違う存在。
何もかもが圧倒的で、ルイとシアはその力の前で完全に屈しているように感じられる。
ルイは歯を食いしばり、荒い息を吐きつつも、必死にミレディーナを睨みつけた。
だがその目には、もはや戦いの余力は感じられない。シアも同様だ。
二人の息の音、心拍の音、すべてが重く響くように感じられる中、ミレディーナの冷たい視線がさらに強くなる。
「こんな程度でファロン様の寵愛を受けるなんて――どうして? 一体、アナタのどこにそんな価値があるとおっしゃるの?」
ミレディーナの声は静かでありながら、その奥に潜む怒りと憎しみが滲み出ていた。言葉が鋭く、まるで刃物のようにルイの胸を突き刺す。感情を完全には殺しきれず、声色にその焦燥と苛立ちが色濃く反映されている。
その言葉に――ついに、ルイの中で何かが爆発した。
「さっきから……ファロン、ファロンって……一体誰なんだよ、それ……ッ!」
その一言が放たれると同時に、空気が凍りついた。
周囲の音がすべて消え、時間が一瞬、止まったかのような錯覚が二人を包み込む。
ルイの怒りがミレディーナへぶつけられ――その衝撃が周囲に反響するように感じられた。
その言葉を聞いた瞬間、ミレディーナは目を見開いて硬直した。まるで時間が止まったかのように動けず、彼女の中で言葉が反復される。
「……『誰』? ファロン様を……ご存じない?」
理解が追いつかない。彼女の中で、言葉が行き場を失い、少しの間、思考が停止したかのようだった。
一瞬の間。まるで息を呑む暇もなく、ミレディーナはただ立ち尽くしていた。
ミレディーナは一瞬、目を見開き、動きが止まる。
一瞬、理解ができず、頭の中で、ルイの言葉をもう一度なぞった。
「……は?」
ミレディーナの口元がかすかに震える。その反応が、無意識に漏れ出た。強く保とうとしていた冷徹な表情が崩れ、静止する。
ぱち、ぱちとゆっくりと瞬きを繰り返す。まるで時間が少しだけ遅れて動き始めたように。
――ふっと鼻で笑い、わざと冷ややかな表情を浮かべて言葉を発しようとした。
「冗談も……ほどほどになさって。アナタが……ファロン様を、知らない? そんな……そんな馬鹿な話が……」
しかし、その言葉には、先ほどまでの絶対的な自信や威圧感は微塵も感じられなかった。むしろ、その発言の裏にある動揺を隠しきれず、少しばかり震える声が聞こえた。
だが、ルイはそれを許さなかった。まるでその冷ややかな言葉が自分に対する侮辱であるかのように、ルイは一歩前に踏み出し、目を真っ直ぐにミレディーナへと向けた。
「……ッ、全く、知らない!! 知らないのに……」
ルイの怒声は、彼自身の限界を超えた感情の爆発だった。
息を呑み、言葉を絞り出すように吐き出す。怒りは抑えきれず、胸の中から次々と噴き出すように溢れ出した。
「なんなんだよ、お前も"アイツ"も……俺は全く知らないのに襲ってきて……!! 『迎えに行く』? 冗談じゃない!!」
ルイは拳を握りしめ、その指が白くなるほど力を込めた。怒りはもはや抑えきれず、全身を駆け巡り、彼の中で爆発寸前まで膨れ上がっている。
シアを背中に庇いながら、彼女には顔を見せずに隠すようにして、叫んだ。
「俺に……俺たちに関わらないでくれ!!」
その言葉が、まるで風のように一気に周囲の空気を震わせ、少しだけ強く風が吹いた。空気が張り詰め、ルイの怒りが場を支配し、その怒気が空間にまで伝わるかのようだった。
ミレディーナは、まだその場で動けなかった。
これまで何度も自分の意思で支配してきた場所、この一瞬、全てを操ってきたはずの彼女が、初めて感じた強烈な衝撃だった。
何かを考えるように、迷いが一瞬だけ彼女の顔を掠めた。今まで自信に満ちた視線を見せていた彼女が、その揺れ動く心情を隠せずにいる。ルイの言葉が、彼女の身体を石に変えてしまったかのように、固まっている。
しかし、ルイのその激しい怒りが収まることはなく、全身の血が沸き立つのを感じていた。内なる怒りが、今まで押し込められていた感情を全て放出するように、さらに激しさを増していった。
「俺になんの恨みがあるっていうんだよ、なあ!? そんなに恨むなら、俺だけ狙えばいいだろ!! ……ああ゛ッ、それだけじゃない、本当に、俺は何も知らないのに、勝手なことばっかり口にして、決めつけて……!! 関わるな、俺は絶対、お前らの元になんか行かない!!!」
狭間に引き込まれ。なんの面識もない、おそらく、"ファロン"というのであろう男の手で殺され。そのファロンがきっかけで、今ミレディーナに襲われている。すべての暴力が、彼を理不尽に巻き込んでいる。
その中で感じた無力さ、無情さに対する怒りが、止まらなかった。何も知らないまま、ただ自分が巻き込まれていく。そのすべてが、怒りの源となってルイの身体を揺さぶっていた。
それが全てルイ一人のことであればまだしも――シアのことまでも巻き込み。
ルイは、無力感と怒りが渾然一体となり、体中に力を漲らせる。今まで内省しようとしていたことが、もう限界に達していた。体の中で沸き立つ熱と怒りが、息もつかせずに心を突き動かす。
だが――隣にいるシアは、じっと静かにミレディーナを見つめていた。
シアの瞳には――彼女の表情が、なぜか、とても悲しそうに映ったから。
――その刹那、二人の全身に細かな傷が走った。
「「!?!?!?!?」」
シアが急いで防御魔法を展開するも、その瞬間には遅かった。
ミレディーナの異能が引き起こした風が、砂を巻き上げ、無数の砂粒が二人の身体に鋭く打ちつけていた。すでに浅い傷口から、血の雫がにじみ出て浮かび上がってきている。
皮膚を裂かれたような痛みが走る中、周囲は一気に砂で覆われたが――それは、一瞬のことだった。
一瞬で砂嵐が収まり、そこに姿を現したのは――怒りに満ち、青筋を浮かべたミレディーナだった。
その表情はもはや、理性を欠いた狂気そのもの。
「……どうして」
ぽつり。
「どうして、ワタクシではなく、"オマエ"なの」
呪詛のような言葉がルイに向けられる。
「こんなにも、ファロン様を想い、祈り、焦がれているワタクシを差し置いて――どうして、オマエが、その御心に触れているの……?」
その声に、疑念と憎悪が濁って混じり、周囲の風がそれに呼応するように凶暴に荒れ狂っていた。まるで、空気そのものがミレディーナの怒りに共鳴しているかのようだった。
「……ふふ、ええ。もう、結構ですわ」
その瞬間、二人の体が前兆もなく宙に浮いた。
そして――重力を無視されたかのように、無力なまま空に引き上げられた。
何の前触れもなく、突如として、巨大な竜巻が発生した。風が渦を巻き、地面が揺れ、空気が一気に圧縮される感覚が広がる。その風は、音もなく、ただ圧倒的な力で二人を捕らえ、次第にその力が増していく。空を切り裂くような鋭い風の音と共に、竜巻が渦を巻き、周囲の砂や砂粒が空中に舞い上がる。
「本当は……命までは奪うつもりはございませんでしたの。でも、先ほどのその言葉――あれは、“死より重い侮辱”ですもの」
ミレディーナの冷徹な声が、その荒れ狂う風の中に響いた。声は鋭く、どこか諦めきった冷淡さを湛えていた。
「どうぞ、冥界の底で思い知りなさい――オマエ自身の、愚かさを」
その言葉は、まるで冷徹な裁きのように響き、風がその言葉を空に運んでいった。
「シア!!!!」
ルイが必死に叫ぶ。しかし、その声は瞬時に風にかき消され、どこか遠くへ消えていった。彼の叫びが届くことなく、二人の距離はみるみる広がり、恐怖と無力感が胸を締め付ける。
「――ッ!!」
シアの声もまた、かき消される。彼女の体が空に引き上げられる中、目の前の景色が遠ざかっていき、彼女の表情が薄れ、やがて黒雲に遮られて完全に視界から消えた。
そして、二人は空の彼方に消えていき、もはやその姿を見ることはできなくなった。
その静寂と、空に広がった風の音だけが、残酷に響き渡る――。
第十話 アリア・イン・ザ・クレバス
1 - 2025.4.27 18:00
2 - 2025.4.29 18:00
x - 2025.5.1 18:00 投稿予定
となります。次回もぜひ、よろしくお願いいたします。




