第六十五話 世界を抱いて、ただ一つの願いを - 6
「……それじゃあ」
琴葉が、ゆっくりと言った。その声は、長い夜の終わりを告げる鐘のように、静かに、そして確かに響いた。
「今日はゆっくりと休みなさい。明日も、やることがたくさんだから」
ルイはうなずいた。月明かりが彼の横顔を照らし、その表情には、琴葉との対話を終えた後の、どこか晴れやかな色が浮かんでいる。
「ああ。分かった。琴葉も、無理するなよ」
「……ええ。分かった」
琴葉は、小さくうなずいた。その仕草は、どこか誇らしげで、そして優しかった。深紅の瞳に映るルイの姿が、彼女の中で何か新しいものとして刻まれていくかのようだった。
「また明日」
「……おやすみ」
琴葉の声は、夜風に溶けるように消えた。それは、まるで子守唄のように優しく、確かに彼らの耳に残った。羊皮紙の端が、その声音に応えるように、かすかに揺れた。
ルイは、振り返らずにその場を後にする。彼の背中は、どこか誇らしげで、同時に、これからの決意に満ちているように見えた。
シアは、名残惜しそうに、何度も振り返る。月明かりに照らされた琴葉の姿が、小さくなっていく。白いドレスが、遠ざかるにつれて、まるで夜の闇に溶け込むかのように淡くなっていく。それでも、彼女の深紅の瞳だけは、闇の中でも確かに光っているように見えた。
──最後に、シアは駆け戻った。
小さな体が、琴葉の胸に飛び込む。その勢いで、琴葉の黒髪がふわりと揺れた。シアの両腕が、琴葉の背中に回される。ぎゅっと、もう離したくないと言わんばかりに。
「……眠くなったら、ちゃんと寝てね?」
シアの声は、くぐもっていた。琴葉の胸に顔を埋めたまま、子供のように甘える声音だった。
「はいはい。そういう貴女も、夜更かししないでね」
「もうっ……そんな子どもじゃないもん」
「十分子どもよ」
琴葉の手が、そっとシアの髪を撫でた。
その仕草は、優しく、慈愛に満ちていた。指の一本一本が、シアの柔らかな髪を梳くように通り抜ける。月明かりが、その指先を銀色に染めていた。それは、まるで長い旅を終えた者が、ようやく見つけた安らぎの場所のように、静かで、温かかった。
「……おやすみ」
シアが、ようやく名残惜しそうに離れる。
彼女の目尻には、まだ涙の跡が光っていた。しかしその瞳は、さっきまでとは違う、澄んだ輝きを取り戻していた。アメジストのような輝きが、月明かりを受けて、まるで新しく生まれ変わったかのようにきらめいている。
二人の足音が、大理石の床に吸い込まれていく。
コツ、コツ、という規則正しい音が、次第に遠ざかり、やがて完全に消えた。羊皮紙の擦れる音だけが、再び部屋の支配者となる。
その背中を見送りながら、琴葉は静かに、そっと息を吐いた。
強く心を揺さぶられた印象的な一日に、ようやくいつもの静けさへ戻ってこようとしていた。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。その呼吸とともに、肩の力が抜けていくのが分かった。
彼女はもう一度、椅子に腰を下ろした。冷たい感触が、ドレス越しに伝わる。背もたれの高い椅子が、かすかに軋んだ。その音は、まるで古い友人の挨拶のように、彼女を包み込む。
目の前には、無数の羊皮紙と石板の山。月明かりに照らされたそれらは、まるで彼女の帰りを待っていたかのように、静かに、そして重く積み重なっている。彼女の仕事は、まだ始まったばかりだ。
一つ、伸びをする。
──そして。
「……貴方は、眠らないつもり?」
琴葉は、振り返らずに言った。
その声は、先ほどまでルイやシアに向けていたものとは、まったく違っていた。優しさはなく、甘さもない。ただ、淡々とした、事実を問うだけの声音だった。
響哉は──その場に残っていた。
壁にもたれ、腕を組み、銀灰色の瞳でじっと彼女を見つめている。月明かりが彼の紫檀色の髪に当たり、冷たい輝きを放っていた。その瞳に、先ほどのような鋭さはない。ただ、静かに、何かを待つかのような、不思議な沈黙があった。
先ほどまでの温かな空気が、一瞬で引き締まる。暖かな家族の団欒から、一転して──そこには、ただ二人の戦士が、夜の静寂の中で向き合っていた。




