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第六十五話 世界を抱いて、ただ一つの願いを - 5

「……これから、どうするんだ?」


 ルイの問いは、短かった。けれど、その短い言葉の中に、彼のすべての思いが込められていた。琴葉が歩もうとする道。彼女が選ぶ未来。それを確認したいという、ただそれだけの願い。余計な飾りも、遠回しな表現も必要なかった。

 琴葉は、ゆっくりと顔を上げた。深紅の瞳が、月明かりを受けて静かに輝く。その瞳には、迷いの影すらなかった。


「私はいつまでも澄幽と共にありたいという思いは揺らがないわ」


 その声には、確かな意志が宿っていた。まるで、深く根を張った大樹のように。風が吹こうと、雨が降ろうと、決して倒れることのない強さを湛えて。

 彼女の言葉は、ただの願望ではない。既に選択し、歩み始めている道の"宣言"だ。


「もちろん、今この国を守るための式を組んではいるけれど……これも、私の意思で、全てが終わった時に壊せるようにしてある。今回限りってこと」


 彼女は、はっきりと言い切った。

 皓絳への決別を誓う言葉。そして、澄幽への、より深い帰属の表明。それは、天衡院という組織の力を自ら捨て、力が及ばない可能性があると分かっていながら、それでも荒野で地獄を這って生きるという、覚悟の伴った言葉だ。



 ルイは、澄幽を出る前に、診療室で琴葉が言った言葉を思い出していた。


『……慰めはいらない。私が、変わらないといけないということは明白だから』

『私の代わりに、貴方たちが戦うのは……嫌だから。ちゃんと、覚悟を決めるわ』


 あの時、琴葉は泣いていた。壊れそうな声で、戦うことに疲れたと告白した。自分の手が血に染まることに耐えられないと、殺すことの罪悪感に押し潰されそうだと、震える肩で語っていた。

 その記憶が、ルイの胸の奥でまだ疼いている。彼女の涙を、彼は忘れていなかった。


「琴葉は……本当はもう戦いたくないと言った。それでも、戦うために……覚悟を決めるって」

「……ええ。言ったわね」


 ルイは、ゆっくりと言葉を選んだ。それは、確認であると同時に、彼女の決意への敬意でもあった。軽々しく扱っていい言葉ではないと理解していた。この問いを投げかけること自体が、彼女の傷口に触れるかもしれない。

 ──それでも、彼は知りたかった。



「その覚悟は……決まったのか?」



 少し、ルイからその言葉が出てくることに驚いたかのように、深紅の瞳が一瞬だけ大きく見開かれた。その瞳の奥で月明かりが揺れ、まるで水面に映る光のようにきらめいた。

 ──しかしすぐに、それは柔らかく細められ、彼女の表情から緊張が解けていく。長い睫毛が、ゆっくりと上下した。


「……ええ」


 彼女の深紅の返事に、迷いはない。

 その一言が、羊皮紙の擦れる音だけが支配する静寂の中に、確かな重みを持って落ちた。積まれた石板の冷たい表面が、その言葉を反射するかのように、月明かりを淡く返している。


「言ったでしょう? 罪のない人は殺さない。でも……人の命を脅かす、害ある奴らには今まで通り、容赦はしない」


 その言葉は、刃のように研ぎ澄まされていた。彼女の声は、決して大きくはない。しかし、その一言一言が、まるで金属を打つ槌のように、確かな響きを持って聞く者の心に届く。曖昧さも、逃げも、何もなく、ただ、まっすぐな決意だけがあった。

 彼女の深紅の瞳に宿る光は、かつてルイが見たどの表情よりも、鮮やかで、力強かった。


「守れる人を、ちゃんと、全て守りたい」


 琴葉は、自分自身に言い聞かせるように、ゆっくりと続けた。その声は、誓いを立てる者のそれだった。彼女の視線は、ルイを通り越して、その先にある何か──守りたい人々の姿を見つめている。


「魔法だけじゃ駄目だった。でも、珠桜のおかげで私はあの時より成長してる。

 それに……貴方たちがいる。私にはできないこと……たくさんできる、貴方たちが」


 その声は、わずかに、ほんのわずかに、震えていた。それは、感情の弱さではなく、むしろ、その感情の確かさの証だった。

 琴葉は、初めて本当の意味で、彼らを「仲間」として見ているのかもしれない。対等な、共に歩む者として。守る対象ではなく、共に戦う存在として。



「私は、もう迷わないわ。間違わない。間違ったと、後悔はしない」


 彼女の宣言は、静かだった。けれど、その静けさの中に、長い迷いの果てにようやく見つけた、燃える決意が込められている。


「貴方たちも、その力を正しく使って。

 私ができないことを、貴方たちが叶えて」



 深紅の瞳はルイとシアを真っ直ぐに捉える。その視線は、重く、そして温かかった。託す者の、揺るぎない信頼の眼差しだった。

 ──月明かりが彼女の瞳に反射し、その中にルイとシアの姿が小さく映り込んでいる。まるで、彼らという存在を、これからもずっと見つめ続けると誓うかのように。



「貴方たちが……好き勝手に、でも、正しく世界を希望へ導けるよう、私は貴方たちができないことをする」


 彼女の言葉は、夜空に浮かぶ月のように、静かに、しかし確かにそこにあった。白いドレスの裾が、夜風に揺れてかすかな音を立てる。その音だけが、彼女の決意の重さを紛らわすかのように、優しく響いていた。

 シアは黙ってその言葉を受け止めた。彼女の冷たい手のひらに乗せられた、目に見えない重みが、確かに自分の掌にも移された気がした。



 ルイは──


「……どうだかな」


 軽く、笑い飛ばすように言ってみせた。

 余裕が滲む声。琴葉の重い決意を、ただ真面目に受け止めるだけではなく、自分なりのやり方で応えようとする、彼なりの意思表示だった。口元がわずかに緩み、普段はあまり見せない、少年らしいいたずらっぽさが浮かんでいる。


 それを聞いて、琴葉の表情が固まる。その表情に、困惑と、そして──かすかな苛立ちが混ざっていた。せっかくの決意を、こんな軽い調子で返されるとは思っていなかったのだろうか。


「……ルイ。貴方、舐めたことを言っていると後で後悔することになるわよ」


 その口調は、まるで以前の彼女と変わらない、厳しい守護者のそれだった。しかし、その声の端々に、かつてのような冷徹さはない。むしろ、どこか甘やかな響きさえ含まれていた。叱っているのに、本当に怒っているわけではないことが、声音の奥から滲み出ている。

 そして、その瞳の奥には、かすかな笑みが浮かんでいるように見えた。

 凍てついた湖面に差し込む、春の陽射しのような温かさだった。長い冬の終わりを告げる、最初の一筋の光。彼女の深紅の瞳の中で、その光は確かに揺れていた。


「さあ? 確かめてみよう」


 ルイは、思わず笑った。爽快な、珍しい、満面の笑みだった。彼の頬が緩み、目元が細まり、口元から自然と笑い声が漏れる。普段は滅多に見せない、年相応の少年の笑顔。その笑顔には、これまでの重い空気を吹き飛ばすような、不思議な力が宿っていた。



 ──それが僅かに緩んで、穏やかに次の問いを投げる。


「……でも、お前が俺たちのことを認める日が来たら……お前は、本当に戦いをやめられるかもしれないのか?」


 そその問いかけに、深紅の瞳が、月明かりの中で大きく開かれる。長い睫毛が震え、その奥で何かが激しく揺れた。まるで、長い間閉ざされていた窓が、突然開かれたかのように。



 ──何度も、何度も何度も、繰り返し聞いてきた言葉だ。


 相手はルイだったかもしれないし、シアだったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。

 自分の身を削る琴葉を止めようとした、心優しい人々の言葉。だが、その言葉を口にした皆──もう、この世界からいなくなってしまった。

 彼らの最期の表情が、琴葉の脳裏をよぎる。守れなかった後悔。届かなかった手。そのたびに彼女は、自分が選んだ道の正しさを迷い続けてきた。


 だが──


(……この、ルイの言葉は……多分、違う)


 代わりとなろうとしているのではなかった。訪れるかもしれない、遠い未来の話。訪れたらいいなと夢見る、希望の話。


 羊皮紙の擦れる音だけが、数秒の間、部屋の中を漂った。積まれた石板の冷たい表面が、静かに月光を反射している。すべてが、彼女の答えを待っていた。



 ──そして、ゆっくりと、深くうなずいた。


「ええ。まあ、そうかもしれないわね」


 彼女の声には、驚きと、わずかな喜びが混ざっていた。それは、自分でも気づいていなかった可能性を、指し示された者の反応だった。

 深紅の瞳の奥で、かすかな灯火が揺れている。その灯りは、先ほどの決意の炎とは少し違う。もっと柔らかく、もっと温かい──希望と呼ぶにはまだ儚い、しかし確かに存在する、小さな光だった。


「でも大変よ? 私より長生きするのが絶対条件だから」


 琴葉は、自分の手を見つめた。

 月明かりに照らされたその手は、白く、透き通り、永遠の時を刻んでいるかのようだ。細い指、わずかに硬くなった指先、そして皮膚の下にかすかに走る黒い血管のような模様。それらすべてが、彼女が人間ではないことを物語っている。

 冷たいはずのその手を、彼女はまるで初めて見るかのように、じっと見つめていた。


「ただ殺しただけじゃ死なない。老いもしない。そんな私よりも長生きするなんて。難しそうねえ」


 それは、自嘲のようでいて、けれど、どこか茶目っ気のある口調だった。声の端々に、かすかな笑みが含まれている。自分の非人間性を、ただ嘆くのではなく、むしろそれをネタに軽口を叩けるほどに、彼女の心は軽くなっていた。

 月明かりが、彼女の横顔を優しく包み込む。黒髪が風に揺れ、その先端が白い肩をかすめた。深紅の瞳は、まだ自分の手を見つめたまま。しかしその口元が、ゆっくりと、ほんのわずかに動き始める。


 ──そして、花がほころぶように。


 彼女は、確かに柔らかく、満面の笑みを返したのだった。

 その笑顔は、凍てついた大地に突然咲いた一輪の花のようだった。長い冬を経て、ようやく春の訪れを告げる、最初の花。深紅の瞳が細められ、白い頬がわずかに上がり、唇の端が愛おしそうに弧を描く。


 それは、戦士の笑顔ではなかった。守護者の笑顔でもなかった。ただの、一人の女性の、心からの笑顔だった。

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