第六十五話 世界を抱いて、ただ一つの願いを - 4
「……私のこと、ちゃんと話したい」
琴葉はゆっくりと息を吸い込んだ。白いドレスの胸元がわずかに膨らみ、その動きが抱きしめ合うシアにも伝わる。抱き締める腕の中で、琴葉の体が確かに生きている──いや、存在していることを、肌で感じ取れた。
「聞いてくれる?」
問いかけは、シアだけに向けられたものではなかった。部屋の中の三人──ルイと、壁にもたれる響哉へも、静かに届く。
誰も、否定しなかった。
夜風が、大理石の間を縫って静かに通り抜ける。羊皮紙の端がひらりと舞い上がり、月明かりの中で一瞬だけ白く輝き、そしてまた静かに落ちた。まるで、これから語られる物語を、この部屋のすべてが耳を澄ませて待っているかのようだった。
シアの腕の力がほんの少し強くなる。言葉ではなく、全身で「聞く」と伝えているようだ。その小さな背中に、ルイの手がそっと添えられる。彼の掌の温もりが、確かにシアの肩から伝わってくる。
ルイもまた、何も言わず、ただそこに立っていた。響哉も、壁にもたれたまま、目だけで琴葉を見つめていた。銀灰色の瞳に、いつもの鋭さはない。
琴葉は、一呼吸置いた。
深紅の瞳が、遠くを見つめる。それは、この皓絳の白い壁の向こうではなく、もっと遠い──時間の向こう側にある、忘却の彼方へと向かっているようだった。彼女の視線の先に、何が見えているのか。長い睫毛が、月明かりに濡れてかすかに震えている。
「私はどこかで……殺されて、この地に運び込まれた」
琴葉の声は、淡々としていた。まるで、遠い昔の他人事のように。語っているのが自分の過去であるという実感さえ、どこか薄いかのように。
「この地で、たとえネガイとしてでも再び動けるようになったのは奇跡……もう一度、生きるチャンスを得られたことを、本気で恨んだことは一度もないわ」
彼女は自分の手を見つめた。白く、透き通るような指。月明かりがその輪郭をなぞり、内側からほのかに光っているかのような錯覚を与える。かつては無数の命を奪い、そのたびに血に染まったこの手が、今はただ静かに、シアを優しく抱いていた。
冷たいはずのその手のひらから、なぜか温もりが伝わってくるように感じるのは、錯覚だろうか。
「『ネガイ』の字……以前、貴女たちに聞かれたことがあったわね」
ルイは黙ってうなずいた。
初めて、琴葉と共に外へ出て、荒野の夜の生き延び方を教えてもらった日。ルイとシアは琴葉に問い──そして、琴葉は『話が長くなるから』と、誤魔化した。
「贄に、骸。それで、贄骸」
その言葉が、夜の空気に重く沈む。
贄──捧げもの。骸──死体。
二つの漢字が組み合わさって生まれた、彼女という存在の名前。
琴葉はゆっくりと顔を上げた。深紅の瞳が、まっすぐに三人を見据える。その瞳には、悲しみも、怒りも、憐れみを求める色もなかった。ただ、静かに、確かに、自分という存在の真実を告げる者の、透明な強さだけがあった。
月明かりが、彼女の横顔を照らし出す。白い頬、長い睫毛、引き結ばれた唇。そのすべてが、まるで長い時を経た彫刻のように、美しく、そしてどこか哀しい完成度を湛えている。
「この皓絳という国が、何の代償もなしに成り立っていると思う?」
その問いかけは静かだったが、確かな重みがあった。まるで、見えない錘が一つ、夜の空気の中に落とされたかのように。
「……皓絳は、殺した異能者たちを養分に、成り立ってるの」
夜気が、一層冷たく感じられた。月明かりが琴葉の横顔に影を落とし、その影が彼女の言葉の重みを目に見える形で表現しているかのようだった。頬の曲線に沿って流れる影が、彼女の表情をより深く、より哀しく見せる。
「この国にもまた、変異体がいる。地下の奥深く……黑曜……いえ、ベリースヴェートもそう呼んでいたし、"オブシディア"と呼びましょうか」
彼女の声は、凍りつくように冷たく、澄んでいた。まるで、冬の夜空に浮かぶ星のように。その声音には、恐れも、憎しみもない。
「魔法というのは、その変異体オブシディアの異能なの。魔力は──オブシディアの、星溶粒子ということ」
「……は?」
ルイの眉が跳ね上がる。
「ちょ、ちょっと待て……魔法が……一人の、異能!?」
信じられず、ルイは思わず口を挟んでいた。
世界の隅々にまで行き渡っている魔法が、たった一人の変異体の異能だというのか。世界中で使われている魔法が、すべて。
ルイの驚愕に対して、琴葉は特に顔色を変えなかった。彼女にとっては、それが"当たり前の知識"でしかないのだ。
「ええ。でも──私たちは、そのオブシディアに依存していることになる」
琴葉の言葉は、さらに続く。
「オブシディアが力を失えば、皓絳の全ての建物はたちまち崩壊する。身を護る術はなくなり、人々はもう生きてはいけない。私も、本当に……死んでしまうことになるわ。
だから、オブシディアが放出した粒子を補うために、異能者の死体が贄として捧げられる。死体から星溶粒子を吸収される過程で体が変化して──残った体が……こうなる」
彼女は自分の腕をそっと撫でた。
──死んでいるから、筋肉も、内臓も、細胞も、活動を止めている。血も流れないそこに、代わりに流れたのが、魔力だった。月明かりが彼女の腕を照らし、肌の下にかすかに走る黒い血管のような模様を浮かび上がらせる。
それを見て、シアが苦しそうに顔を歪めた。大切な彼女がまた要らぬことに心を痛めた瞬間を、琴葉は見逃さない。
「そんな顔をしないで、シア」
琴葉の声が、急に優しくなった。まるで、冷えた夜風にさらされた頬を包み込むような温かさだった。深紅の瞳に、シアだけを映して。
「同情なんて、してほしくない。だって……これは、悲しいことじゃないもの」
シアのアメジストの瞳に、再び涙が滲んでいた。月明かりに照らされて、それはまるで夜露のように煌めいている。彼女は唇を噛みしめ、必死にそれをこらえていた。こらえればこらえるほど、涙は瞳の表面に溜まり、今にもこぼれ落ちそうになる。
琴葉の言葉を聞いて、ルイはふと浮かんだ疑問を、素直に聞くことにした。
彼はここにいる誰よりも──全てを知りたいと、知らぬまま判断したくないと、強い渇望を持っているから。この世界の理不尽さの中で、ただ流されるのではなく、自分の足で立ち、自分の目で見極めたいと思っているから。
「なら、どうしてこの国を出たんだ?」
ルイの声が、静かに問うた。その声音には、詰問の色はない。
「魔法士のルールは知っているでしょう?」
琴葉の問いに対して、
「見つけ次第……全て、殺す」
「ええ。そう」
ルイは迷いなく答えた。琴葉は静かに頷く。
「私は……それがどうしても嫌だった。罪のない人まで殺して……何の意味があるのかさっぱり分からない」
琴葉の言葉は、もう揺るがなかった。
ずっと、正しかったのか、迷い続けてきた道だった。
自分が選んだ選択が果たして正しかったのか、何度も何度も自問した夜があった。暗闇の中で一人、答えの出ない問いを繰り返した日々があった。
だが──時を越えて、ようやく、揺るぎない答えを得た。
「澄幽を見つけて……本当であれば、私はその時に、あの全てを壊さなければいけなかった。でも、しなかった。そんなこと、したくなかった。
だから、私は天衡院を裏切ったの。そして……澄幽で、黒華琴葉として生きてきた」
彼女の声に、後悔も、誇りもない。ただ、自分が選んだ道を、そのまま語っているだけ。
「……半端で、迷惑な人生よ」
琴葉は自分の腕をそっと撫でた。その仕草は無意識で、まるでこの手が刻んできた業を確かめるかのようだった。
白い指先が、同じく白い皮膚の上を這う。そこに残るのは、数え切れない命の感触であるはずだ。
「澄幽の人たちを、骸兵として殺したこともある。貴方たちが知るように……澄幽の一員として、魔法士を殺したこともある」
言葉の一つ一つが、夜の空気に重く沈んでいく。
「魔法士たちにとって、私は使い捨ての道具。でも、それでいいの。贄骸として、私はその道が正しいと思う」
その言葉に、シアが顔を上げた。涙に濡れたアメジストの瞳が、何かを言いたげに揺れている。唇がかすかに開きかけて──しかし、静かに結ばれた。
これは彼女の決心であるはずから。それに口を挟み、彼女を否定してしまいたくないと、堪えたのだ。
「響哉が、私をなんと罵倒しようと、私はそれを受け入れる。私はそれ以上の罪を重ねてきた。それは事実だから。それを、甘やかされて、有耶無耶にしたくはない」
彼女の声に、悲壮感はなかった。ただ、諦念にも似た、静かな受容。深い淵の底で、自分自身と向き合う者の、不思議なほど澄んだ響きがあった。
響哉は何も言わない。目を伏せ──彼女の姿を見ないようにして。
月明かりが、彼女の全身を包み込む。
白いドレス、黒い髪、深紅の瞳。死したはずのその身が、今この瞬間、最も鮮やかに輝いていた。まるで、己の罪を正面から受け止めることで、かえって魂が浄化されるかのように。
この瞬間──ルイは、確かに感じた。
この世界で、死んだ彼女こそが最も人間らしく──本当に、生の輝きを放っているように。




