第六十五話 世界を抱いて、ただ一つの願いを - 2
──だが、シアの反応は異なった。
琴葉が笑うのを見て、困惑が、彼女の表情を走った。眉根が寄せられ、引き結ばれた唇の端が、かすかに震える。月光が頬に落とす影が、呼吸のたびに微かに揺れた。
月明かりが、シアの横顔を照らし出した。アメジストの瞳が、わずかに見開かれる。長い睫毛の下で、何かを探るように、瞬きさえ忘れたかのように、その一点を見つめている。
その瞳の奥で、理解しがたい感情が浮かんでは消える。水底から立ち上る泡のように、ゆっくりと、確かに、彼女の意識の表面へと昇ってくる。
──なんで。
胸の奥で、小さな問いが生まれた。
──なんで、笑えるの?
琴葉の笑みが、焼き付いて離れない。あの穏やかな、諦念にも似た、それでいて確かな温かさを含んだ笑み。
──なんで、そんなに重い役目を、平然と引き受けていられるの?
シアの細い指が、無意識に自分の服の裾を探る。握りしめた指の関節が、月明かりの下で白く浮き上がる。布地に皺が寄り、指先の震えが伝わる。
私だったら、絶対に無理だ。その思いが、シアの中で何度も反芻される。ずっと同じことを繰り返すのは、どんなに大変だろう。夜通し作業するなんて、信じられない。こんな冷たい石の床の部屋で、一人きりで。周りに積まれた羊皮紙と石板だけを相手にして。
きっと見張りだっているはずだ。数時間前の門での出来事のように、琴葉の行動が気に入らなければ、また誰かが支配する。傷つける。今度は、もっとひどいやり方で。
なのに、琴葉は。
一人で、こんなに重いものを背負って。誰にも頼らず、誰にも泣き言を言わず、ただ黙って石板を刻み続けて。
そして、またしても──大丈夫だと笑う。
「──琴葉ちゃんばっかり……可哀想だよ……!」
声が、零れ落ちた。彼女自身の意思を超えて、喉の奥から湧き上がった、心そのものの叫び。我慢の限界だった。
シアの細い肩が、かすかに震える。握りしめた裾から、指の震えが全身に伝わった。アメジストの瞳がみるみるうちに潤み、月明かりを反射してその表面が煌めき始める。
その声を聞いた瞬間、琴葉がゆっくりと椅子から立ち上がった。
背もたれの高い椅子が、かすかに軋む。その音は、深い夜の静けさの中で、まるで長く押し込めてきたため息のように響いた。白いドレスの裾が、彼女の優雅な動きに合わせて揺れ、月明かりが布地の柔らかな襞を浮かび上がらせる。
彼女は一歩、また一歩とシアへ近づいた。足音は、大理石の冷たい表面に吸い込まれるように消えていく。
月明かりが、近づく琴葉の全身を照らし出す。白いドレス、黒い髪、深紅の瞳。三つの色が、夜の闇の中で鮮烈に浮かび上がる。彼女が通った後、積まれた羊皮紙の端が、その気配に触れて微かに震えた。
「いいの」
琴葉は静かに首を振った。
解かれた黒髪が、月光を浴びて銀色の糸を散らす。風に揺れる柳の枝のような、優雅で儚げな仕草だった。その髪の一部が彼女の白い肩に触れ、まるで名残惜しむように一瞬留まり、また滑り落ちていく。肩の曲線を伝って落ちる黒髪の軌跡が、月明かりに照らされて一筋の影を描く。
「やらせて、お願い」
声には、哀願と、わずかな甘えが混じっていた。それは、まるで子供が欲しいものをねだるような、無邪気さを含んでいた。しかしその奥に、これだけは譲れないのだと言いたげな、静かな強さが潜んでいる。
拒絶ではない。むしろ──この役目だけは、誰にも渡したくないという、独占欲にも似た執着だった。
「でも……っ!」
シアの声が、夜気を震わせて跳ね上がった。その声には、もう理性のたがは残っていなかった。
アメジストの瞳が大きく見開かれ、その中で感情の嵐が渦巻いている。張り裂けそうなほどに。
「いくらなんでも無茶苦茶すぎるよ!!」
言葉が、堰を切ったように溢れ出した。長い間、押し込めてきた感情が、一気に喉元へと駆け上がる。
止まらない。止められない。彼女の小さな体の奥底で、ずっと押し殺してきた何かが、ついに牙をむいた。
「あの人たちは、平気な顔で……まるで機械に仕事を頼むみたいに!」
涙が、彼女の頬を伝い始めた。
「琴葉ちゃんがどんな気持ちかなんて、全然考えてない! 考えようともしてない!」
声が、嗚咽に変わっていく。言葉の一つ一つが、途切れ途切れに紡がれる。
「なのに、琴葉ちゃんは、なんで笑ってるの? なんで平気なの?
どうしてそんなに、自分のこと、大切にしないの……?」
彼女の目から大粒の涙が溢れる。ぽろぽろと、止めどなく、子どものように。アメジストの瞳は涙で曇り、鼻の頭は赤く染まっている。頬を伝う涙の数が増えるたびに、彼女の呼吸はさらに乱れていく。
「私、ずっと見てきたよ……澄幽でも、琴葉ちゃんはいつも、みんなのために頑張ってて、自分のこと後回しにしてて……」
震える手で、彼女は涙を拭おうとしたが、次から次へと溢れてくるそれに追いつかない。拭っても拭っても、新しい涙が頬を濡らす。手のひらが濡れ、袖が濡れ、それでも涙は止まらない。
「嫌だよ……そんなの、嫌だよ……
琴葉ちゃんが、壊れちゃうところ、見たくない……!」
肩が上下に揺れ、背中が丸まり、両手はただ無力に自分の胸の前で震えている。それは、我慢の限界を超えた者の、純粋で無垢な悲痛だった。
「シア……落ち着いて」
琴葉が静かに声をかけた。その声は、風のない夜の湖面のように、凪いでいて穏やかだった。深紅の瞳に宿るのは、責める色ではなく、ただ純粋な心配だけ。彼女の手が、シアの震える肩に触れようと、ゆっくりと伸ばされる。
月明かりの中を、白い指先が優しく進む。それは、傷ついた小動物を慰めるような、慈愛に満ちた仕草だった。指の一本一本が、かすかに震えるシアの肩へと、まるで硝子細工を扱うように慎重に近づいていく。
しかし──
「落ち着いてなんかいられないよ……ッ!」
その手が肩に触れるより早く、シアは反射的にそれを振り払った。
パシン、と乾いた音が、夜の静寂を切り裂いた。小さな、しかし確かな衝突の音。それは、まるで薄く脆い硝子が、うかつな接触で砕けてしまうかのような、痛々しい響きだった。
驚愕の色が、琴葉の深紅の瞳に浮かんだ。わずかに見開かれた瞳。長い睫毛が、一瞬、大きく震える。その瞳の中を、困惑と哀しみが交錯する雲のように過ぎっていった。拒絶されたことへの驚きよりも、シアの状態への心配が、色濃く滲んでいた。
シアもまた、自分のしたことの意味に、一瞬遅れて気づいた。
謝罪の色が、涙で濡れた彼女の表情を走る。口元が、何かを言いかけては閉じられ、言いかけてはまた閉じられる。唇が、わずかに、そして激しく震えている。「ごめん」という言葉が、喉の奥で何度も形を作っては消えていく。しかし、その言葉を声にする勇気が、彼女にはもう残っていなかった。
それでも──彼女は必死に堪えるように、自分の唇を強く噛んだ。白い歯が、下唇に深く食い込み、血が滲みそうなほどだった。
「……ポーランさんはどこ? 私、話してくる……!」
声が震えている。涙に濡れたアメジストの瞳には、もはや理性の光はなかった。あるのは、ただ衝動だけ。誰かを、何かを、変えなければという、子供じみた正義感と無謀な勇気が混ざり合った、危うい熱だけだった。
彼女は一歩、無謀にも踏み出そうとした。
その足が、冷たい大理石の床を蹴る、まさにその瞬間──
「シア」
琴葉の声が、静かに、しかし確かに響いた。それはまるで、深い森の中で突然聞こえる澄んだ鈴の音のようだった。深紅の瞳が、優しく、けれど確かな重みを持って、少女の瞳を真っ直ぐに射抜く。月明かりが、その瞳の奥に、かすかな光の粒を宿らせていた。
責めるような視線ではなかった。叱るような視線でもない。
ただ、まっすぐに、彼女の心の奥底まで見通そうとするような、不思議な透明さを持った眼差し。まるで、澄んだ湖面の向こう側に沈むものすべてを、じっと見つめるかのように。
「貴女は、力の振りかざし方を考えるべきよ」
琴葉の声は、諭すようでいて、その根底には確かな慈愛が流れていた。
「……動いているのは私だけじゃない」
彼女は、周囲に積まれた羊皮紙の山へと、一瞬だけ視線を落とした。月明かりに照らされた無数の文字が、それぞれに影を落としている。一枚一枚に込められた誰かの想いが、静かにそこに眠っていた。
「この部屋の外には、眠らずに見張りを続ける骸兵がいる。街角では、夜通し魔法式を複製する者たちが何百、何千と動いている。城壁の上では、見張りが冷たい風に耐えながら、西の闇を見つめている。
誰もが、この国を守るために……戦えない、けれど、それでもまだこの星で息をしている、一億もの人々を守るために、必死に頑張っている」
その数字が、冷たい空気の中で、ひときわ重く、そして温かく響く。
「私は、たった二日間——今日と明日だけ、その一億分の一の重みを、ほんの少しだけ肩に乗せて動くの」
──琴葉の声には、誇りが滲んでいた。
「だから、心配しないで。これは私にとって——」
彼女は、ほんの一瞬、言葉を切った。月明かりが、彼女の横顔を優しく包み込む。
白い頬に落ちた睫毛の影が、わずかに揺れる。黒髪の先端が、夜風に触れてかすかに持ち上がり、また静かに落ちた。
「誰かのために戦える、かけがえのない時間なの」
その言葉の一つ一つが、まるで夜空に輝く星のように、シアの胸の奥深くに静かに落ちていった。
痛みを伴うほどに、深く、深く。
「強大な力に、押し潰されるしかない人がいる。無理やり押し付けられたことに、黙って従うしかない人が……
貴女は──その、押し付ける側。誰かに強制できるだけの、異能の力を持っている」
深紅の瞳が、まっすぐにシアを捉える。その視線に、逃げ場はない。
シアの瞳が、不安げに揺れた。アメジストの輝きが、月明かりの中で曇った。
──それでも、琴葉はその先の言葉を、迷わず紡いだ。
「貴女は、無理矢理押し付けて……それでいいの?」
自分の中に巣食う「強い力を持つ者」としての在り方への、初めての真正面からの問い。
琴葉の問いかけが、静かに、しかし確かにシアの胸の奥へと届いた。
その声音に、責めるような棘はなかった。ただ、問いかけるように、優しく響く。
「──それでいい時と悪い時があること」
琴葉は続けた。彼女の深紅の瞳が、まっすぐにシアを捉えている。その瞳の奥には、これまでの長い月日で積み重ねてきた無数の経験が、静かに沈殿しているように見えた。喜びも、悲しみも、後悔も、そして多くの人を傷つけてしまった痛みさえも、すべてを飲み込んだ深い色だった。その瞳の底には、決して消えることのない、かすかな灯火がともっている。
「貴女ならちゃんと分かるはずだって……」
言葉が、夜気に溶ける。それは、ただの慰めではなかった。確かな重みを持って、シアの心の岸辺に打ち寄せる波のように、ゆっくりと、しかし確かに届いた。羊皮紙の匂いが、月明かりの冷たさが、すべてがその言葉を運ぶための背景のように感じられた。
「私は、信じてる」




