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第六十五話 世界を抱いて、ただ一つの願いを - 1

 深紅の瞳が、ルイたちの姿を捉えた。

 その瞳に、どんな感情が宿っているのか──月明かりの下、椅子に座る彼女の表情はまだ遠くて見えない。ただ、白いドレスの裾が、夜風にわずかに揺れている。


 月光は高窓から差し込み、琴葉の姿を銀色の輪郭で縁取っていた。解かれた長い黒髪は彼女の肩から胸元へとかかり、風に触れた端がほんのわずかに持ち上がる。背もたれの高い椅子に凭れたその姿勢は、戦士というよりは、古の物語に登場する予言者のようだった。周囲に積まれた羊皮紙と石板が、彼女を祭壇の主のように祀り上げている。


 静寂。羊皮紙の端が風に擦れる音だけが、かすかに聞こえる。



「……もう、用は終わったのね」


 琴葉の声は、静かだった。

 数時間前、澄幽であれほど激しく揺れていた心の波濤が、嘘のように凪いでいる。涙に濡れた睫毛も、震える声も、あの切迫した「戦いたくない」という告白も──すべてが、まるで別人のものだったかのようだ。

 彼女の声は、穏やかだった。凪いだ湖面のように、なんの澱みもなく。


「魔力で遊んでいるの、感じたわ」


 わずかに首をかしげる。黒髪がさらりと流れ、月光を受けて青白く光る。


「また、無茶苦茶なパフォーマンスをしたのね」


 その口調には、咎めるような響きはなかった。むしろ、どこか諦めにも似た、穏やかな受容。まるで、そういうものだと、すでに理解してしまった者の声だった。



 ルイは一歩、前に進み出た。大理石の床に、彼の靴底が触れる。冷たい石が、足裏を通じて彼の背筋を伸ばさせた。その澄んだ乾いた音が、静けさの中でやけに大きく、長く響いた。


「無事か?」

「ええ。貴方たちこそ、何もなくて良かったわ」


 短い言葉の応酬。だが、その間に流れた沈黙には、言い尽くせない言葉の残滓が漂っていた。

 これまでに琴葉と交わした会話、そこから得た本音。何度もぶつかり合ったからこその信頼。それらが、この沈黙の中に封じ込められている。

 琴葉はルイから視線を外さなかった。深紅の瞳は、ただ静かに、彼を見つめている。問いかけるでもなく、責めるでもなく、ただ──そこにいることを確かめるように。


「進捗は?」


 ルイは静かに聞いた。

 琴葉はゆっくりと、周囲に積まれた羊皮紙の山へ視線を落とした。月明かりが、彼女の長い睫毛の影を頬に落としている。


「三百は終わった。けれど」


 彼女は指先を、そっと一枚の羊皮紙へと向けた。

 それは、まるで蝶が花に止まるかのような、かすかな、優雅な動きだった。彼女の白い指先から、目に見えない糸が伸びる。羊皮紙がふわりと浮かび上がる──重力から解き放たれたかのように、ゆっくりと、緩やかに宙を舞った。


 琴葉は、それを一瞬だけ見つめた。

 その横顔は、まるで古の書を紐解く学者のように静かで、同時に、刃を研ぐ職人のように研ぎ澄まされていた。


 彼女が瞬きをする。まぶたが落ち、上がる。その一瞬。



 ──カッ。



 硬質な音が、月光の下に響いた。

 傍らに置かれた、何も刻まれていない石板。その表面に、目映いばかりの光の線が走る。幾何学模様。精緻な円弧と直線。まるで、見えない彫刻師が一瞬で刻み上げたかのような完璧な紋様。ただの判別用であるだろうそれが、芸術品のように美しい。

 羊皮紙は、そっと、静かに、作業が終わったほうの山の一番上に積まれる。その動きは、まるで長い時を経て故郷に帰る渡り鳥のように、自然で、迷いがなかった。


「追加で倍量は来ると思う。いつ終わるのかはさっぱり」


 彼女はやれやれ、と小さく肩を竦めた。

 それは、疲れているようには到底見えない、嘘らしい仕草だった。彼女らしくはない。だが──少し、楽しそうだった。



「どんなものを作ってるんだ?」


 ルイは、積み上がった羊皮紙と石板の山々を見渡した。

 床から膝の高さまで堆積した羊皮紙の束は、風に端をめくれさせながら、互いに重なり合い、寄り添うように積まれている。

 別の場所には、丁寧に、何列も積み上げられた石板の山。表面は磨き上げられ、月明かりを受けて鈍く光っている。一枚一枚に刻まれた紋様が、光の加減によって浮かび上がっては消える。

 月光はそれらの凹凸に影を落とし、無数の皺や折れ目を浮かび上がらせていた。一枚の羊皮紙が、風に端を揺らす。まるで、まだ終わらない作業を訴えるかのように。


「移動式の防衛拠点」


 琴葉は、一枚の石板を手に取り、月明かりにかざした。

 彼女の白い指が、石板の冷たい表面を撫でる。その指先の動きは、まるで楽器を奏でるかのように滑らかだ。第一関節から第二関節へ、第二関節から掌へと伝わる微かな圧力。


 呼応するように、表面に刻まれた紋様が青白く浮かび上がった。幾何学模様が複雑に絡み合い、中心から外縁へと光が走る。それはまるで、長い眠りから覚めた生き物が、初めて脈打つ瞬間のようだった。

 しかし、指を離した時、光は静まる。紋様は再び、ただの刻印に戻る。


「固定砲台として使えるような殲滅魔法。座標指定の焼夷魔法。そういうのをどんなシチュエーションでも使えるように数種類ずつ、バリエーションを用意している」


 石板を置く音が、静寂に吸い込まれる。それは、羽毛が落ちるよりも、かすかな、かすかな音だった。

 彼女は次に、羊皮紙の束を手繰り寄せた。指が紙の端を捉え、一気に自分のもとへ引き寄せる。古い羊皮紙が擦れる乾いた音が、夜気に溶ける。


「あとは、索敵用の探査魔法。防壁を瞬間展開する防御魔法。万が一負傷したときに逃げるための煙幕、閃光、足止め──」


 彼女の指が、羊皮紙の上を滑る。

 インクの匂いがほのかに立ち上る。鉄錆びたような、それでいてどこか甘やかな、筆記具と年月の交じり合った香り。

 そこには、びっしりとルイの知らない言語での指示が、整然と、しかし緊迫した筆致で書き込まれていた。一文字一文字に込められた集中力が、紙の表面から滲み出ている。筆圧の強いところではインクが微かににじみ、弱いところでは掠れかけている。書いた者の呼吸が、そのまま文字になったかのようだった。


 琴葉の横顔を、月光が照らし出す。

 長い睫毛が、淡い影を落とす。その影は、彼女の頬の曲線に沿って流れ、顎の先でふっと消える。

 深紅の瞳は、自分の指先がなぞる文字の列を追っている。その瞳は、書類の上を、ただ正確に、機械的に滑っていく。感情の揺らぎは、そこにはなかった。


「防衛から攻撃まで、幅広く。考えつくものは全て用意して、みたいな感じかしら」


 琴葉の声は、平坦だった。しかしその平坦さの裏に、どれだけの時間と労力を注ぎ込んでいるのか。羊皮紙に刻まれた無数の文字。石板に彫られた幾何学模様。その一つ一つが、彼女の指先から生み出されたのだ。

 彼女はここに座り続けている。オーダーを見て、魔法陣を刻む。その作業を、ルイたちがマキやシュエンと言葉を交わす間、休むことなく繰り返したはずだ。



「その、魔法式って──俺たちじゃ絶対作れないのか?」


 ルイの問いに、琴葉はほんの少し首をかしげた。黒髪がさらりと揺れる。


「まあ、異能者だから、無理でしょうね」


 それは、まるで「雨が降ったら地面が濡れる」と言うのと同じくらい、当然の事実を述べる口調だった。

 異能者にはできない。異能者は魔法を使えない。それはこの世界の、揺るぎない理屈だ。ルイもそれは理解しているが、さすがに今回ばかりは力になれないことを悔しいと思った。



「どういう仕組みなんだ? それ」


 ルイはさらに問うた。

 琴葉は一瞬、言葉を探すように宙を見つめた。深紅の瞳が、月明かりの中で微かに揺れる。長い睫毛が、瞬きのたびに影を落とす。彼女は何かを思い出すように、遠くを見る目をしていた。


「魔法は、この世界と並行する別の世界で構築するの」


 彼女は、両手のひらを広げた。

 そこには何もない。ただ、彼女の白い掌が月明かりに照らされているだけ。しかし、その手のひらは、まるで見えない何かを包み込むかのように、そっとカーブを描いていた。


「それを魔力に照らして、この世界に顕現させる」


 彼女の右手のひらに、一滴の水滴が浮かんだ。

 それは、朝露が葉先に宿るように、静かに、自然に、そこに現れた。透き通った、小さな宝石のような水滴。その表面が月明かりを反射し、内部で光がゆらゆらと揺れている。


 左手のひらには、一粒の光。

 蛍の灯りにも似た、かすかな、しかし確かな輝き。それは呼吸をするように、ふわり、ふわりと明滅している。


「たとえとして──よく、光と水滴。それが虹を作る、という現象が扱われるわ」


 右手の水滴が、ゆっくりと浮かび上がる。まるで、目に見えない糸で吊るされているかのように、滑らかに上昇する。

 左手の光が、それに向かって伸びていく。光の糸が、水滴へと静かに、優しく絡みつく。


 水滴に光が差し込んだ瞬間、そこに小さな虹が生まれた。

 七色の弧が、琴葉の手のひらの上で、かすかに揺れている。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫──それらが重なり合い、透き通り、瞬く間に消え入りそうになりながら、しかし確かにそこに在る。



「魔法式は、その別世界で魔法を構築させた状態を保ち続ける必要がある」


 彼女は、虹を消した。思考を途切れさせるように頭を振り、魔力を霧散させる。

 水滴も、光も、静かに闇に還っていく。まるで、最初から何もなかったかのように。


 その後、琴葉は、積み上がった石板の山を見つめた。


「作った数だけ、その式を覚えておいて、イメージを保たないといけない」


 彼女の声は、どこまでも平坦だった。


「百個、水蒸気を冷やし、氷を作る魔法式を用意したら、その過程を覚えた百個を、常に頭の中で考え続ける」


 彼女は、自分の左のこめかみを、そっと指で触れた。白い指先が、薄い皮膚の下に沈む。

 指の腹が伝う先には、彼女だけが知る重みがある。積み上げられた時間の厚み。削られた記憶の深さ。決して目に見えない、代償の堆積。


「ここに、百の氷の世界を、同時に存在させ続けるの」


 ルイは息を呑んだ。


 想像を絶していた。

 自分の頭の中に、百の別世界を保持し続ける。そのすべてを、決して忘れず、決して混ざらず、決して崩さず──



「……人間技じゃないな」

「ええ」


 琴葉は、ほんのわずかに口元を緩めた。

 それは、ほんの数ミリの変化だった。唇の端が、かすかに、本当にかすかに上がっただけ。


「だって、私は人間じゃないもの」


 その口調に、重さはなかった。

 むしろ、そこに浮かんだのは──かつての彼女なら絶対に見せなかった、かすかな笑み。


 凍りついた湖面に、ようやく差し込んだ、春の陽射しのような。

 長い冬の終わりを告げる、最初の一筋の光のような。


 かすかな、かすかな、笑み。


 彼女の言葉は、シュエンのように軽く、おかしそうな笑いを含んだものだった。

 自嘲ではない。諦めでもない。ただ、自分の在り方を、誇りとして話す、静かな微笑み。


 ルイは、その横顔を黙って見つめた。



 月明かりが、琴葉の白い頬を照らしている。その頬には、涙の跡はもうなかった。

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