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第六十四話 新星はまだ、涙を知らない

 静かになった病室。

 先ほどまでリンファの嗚咽が満たしていた空間は、今や深い海の底のような静寂に支配されていた。呼吸さえも憚られるかのような、張り詰めた沈黙。


 シュエンはベッドの上で微動だにせず、琥珀色の瞳を虚空にさまよわせている。サングラスを外した素顔は、いつもの飄々とした仮面の下にあった何かが、今だけは剥き出しになっていた。

 マキは椅子に座ったまま、深くうつむいている。白髪がさらりと垂れて彼の表情を完全に覆い隠していた。白い指が膝の上で組み合わされ、わずかに震えている。彼がこれほど長く沈黙するのを、ルイは初めて見た。


 一言も発せずにいる。

 彼らが何を思っているのか──ルイには手に取るようにわかった。



 ──魔法で努力してきた者ほど、異能の輝きに絶望させられる。



 琴葉の世界が崩壊した原因となった場所にひびを入れたのは、シアの異能による“偽物の魔法”。そのひびが、ルイの本気の異能を──あの吹雪の夜に目の当たりにした時、決定的なものとなった。彼女の脆い世界は音を立てて崩れ、ついに自らの弱さを曝け出した。守護者としての責務から逃れたいと、震える声で告白した。

 リンファは、もっと直接的に、その絶望を涙として零した。長い歳月を治癒魔法に捧げ、失った自由と未来。そのすべてを、シアはたった十秒で無価値にしてみせた。彼女の人生を、ただの無駄だったかのように。

 二人とも、耐え切れなかった。


 異能の残酷さを、ルイは理解している。

 この力は少なくとも、能力に目覚めなかった彼らにとっては呪いだ。努力も研鑽も代償も、すべてを無意味にする、抗いがたい暴力。平等でも公正でもない、ただそこに在るというだけで、誰かの人生を踏みにじる理不尽そのもの。

 自分とシアがその理不尽の体現者であることも、理解している。


 それでもルイは、シアを止めなかった。自分も、彼らには出来得ないことをしてみせた。

 確かに、この力を理解してもらう必要があったからだ。戦力を託すというのなら、その実態を知らなければ判断できない。それは正しい。間違っていない。


 ──しかし、それだけのために力をひけらかしたわけではない。

 これを見て、彼らがどれだけのことを自分たちに強いるかは未知数だ。

 ルイの力も、シアの力も、あまりに汎用性が高い。攻撃、防衛、索敵、治療──ありとあらゆる局面で、魔法士たちの何十倍もの効率と利を叩き出すことができる。戦場における決定打たりうる。その輝きは、時に味方を救い、時に相手を殺す。



 魔法の矜持を以て、頼らない道を選ぶか。

 はたまた、その輝きを燃え尽きるまで利用するか。



 彼らの根本を知りたかった。



 ──ルイは、そのどちらでもいいと思っていた。いや、正確には、異能を見せようとしたその時から、どちらでも構わないと、すでに覚悟を決めていた。


 たとえ後者の道を辿る必要に迫られたとしても、やり遂げる。


 自分たちの力を搾り取るように使われようとも、それで助かる命があるのなら。

 自分たちが怪物扱いされようとも、それで守れる日常があるのなら。


 それが、自分がこの世界で成し遂げたいことだから。



 ルイは黙って、シュエンとマキを見つめていた。

 窓の外では、皓絳の夜空に放たれた光の粒が、まだ名残のように漂っている。ルイの手のひらから零れ、増幅され、この街の空を埋め尽くした無数の星屑。それらは静かに、静かに降り積もり、やがて闇に溶けていこうとしている。


 その光がすべて消えたとき、彼らがどんな答えを出すのか。

 ルイは、ただ待つ。



「……また、分からないことや試したいことがあれば、明日呼んでほしい」ルイの声は、重たい沈黙を割くように、静かに響いた。「今日は怪我も治ったばっかりなんだし……休んでくれ」


 それは気遣いだった。しかし同時に、これ以上は踏み込めないという境界線でもあった。彼らが言葉を取り戻すまでには、まだ時間がかかる。沈黙の底から、自分たちの感情と言葉を拾い集める時間が。


「……お部屋にご案内しますか?」


 マキが静かに問うた。深紅の瞳はうつむいたまま、長い白髪が彼の横顔を覆い隠している。白い指は膝の上で微かに絡み合い、まるで祈るように組み合わされていた。彼の声は、いつもの淡々とした調子を取り戻そうと努めているようだったが、その端々に、かすかな震えが混じっていた。


「いや、まだいいかな。できれば……琴葉とも話したいんだけど」


 ルイがそう告げると、マキの肩がほんの少し揺れた。彼が何かを言いかけた——その気配が、空気の微かな動きで伝わった。

 しかし、彼が言葉を発するより早く。


「ああ……それなら、ポーランのとこに繋いでる魔法式があるから、コレを使うといいよ」


 シュエンがベッドの上でごそごそと動きつつ、ルイを手招きした。

 琥珀色の瞳は、まだどこか遠くを見つめていた。しかしその仕草は、いつもの飄々とした調子を取り戻そうとする、必死の努力の跡だった。

 ルイが静かに彼の近くに寄ると——シュエンは、掌に何かを乗せて差し出した。


 それは、鳥の羽を精巧に模造したような道具だった。

 銀灰色の軸は、磨き抜かれた金属のように滑らかで、かすかに月光を反射している。こげ茶と黒が幾重にも重なった繊毛は、一枚一枚がまるで生きているかのように、柔らかく重なり合っていた。手触りは温かく、触れていると、かすかな鼓動さえ感じられる。まるで、小さな生命を掌に包み込んでいるかのようだった。


「使い方わかる?」

「ああ。琴葉に教えてもらった」


 ルイはその羽をそっと掌に包み込んだ。

 その瞬間、脳裏にあの日の記憶が蘇る。澄幽の食堂で、藤崎や律灯に見守られながら、琴葉がおずおずとこの羽を差し出した日。彼女は「護身用に」「探索用に」「連絡用に」と、まるで言い訳をするように、いくつもの魔法式を刻んだ道具を並べた。その声は、押しつけがましい感じは微塵もなく、むしろ、これで役に立てるだろうか、守れるだろうか、と不安そうに揺れていた。


 彼女の白い指が、この羽の使い方を教えてくれた時の、真剣な横顔。

 深紅の瞳に宿る、切実なまでの誠実さ。


 ルイは、その記憶を掌の温もりに重ねた。



「君たちの部屋は離宮に用意してあるよ」


 シュエンが言った。彼はもうルイを見ていなかった。琥珀色の瞳は、天井の一点を見つめている。何も映っていない、ただの虚空。


「場所はその道具に刻み付けてあるから、用事が終わったら自分たちで戻るといい」


 彼はヒラヒラと手を振った。

 その仕草は、いつもの飄々としたものだった。しかし、どこか小さく、頼りなく見えた。ベッドの上に横たわるその体は、もう傷は癒えているはずなのに、ひどく弱々しく見えた。


「ごゆっくり」

「また……明日」


 ルイは小さく返した。

 病室の空気はまだ重く、沈んでいた。窓の外では、先ほど放った光の粒がすっかり消え、皓絳の夜は深い闇に包まれている。


 ルイは振り返らずに、シアの手を引いた。細く、温かな指が彼の手の中で微かに動き、握り返してくる。


 目配せだけで、彼女を呼ぶ。

 シアは何も言わずにうなずいた。そのアメジストの瞳には、まだ理解しきれない困惑の翳りが、水底に沈む影のように揺らいでいた。


 なぜリンファが泣いたのか。

 なぜマキがうつむいたまま、指を震わせていたのか。

 なぜシュエンがあんなに遠く、何もない虚空を見つめていたのか。


 それでも、彼女はルイの手のひらの中に、自分の指を委ねた。その温もりだけが、今は確かなものだった。



 響哉は最後に一度だけ病室を見渡し、軽く手を振った。彼の背中が、先に扉をくぐる。


 三人の背中が、静まり返った病室を後にする。

 扉が閉まる音が、鋭く、冷たく響いた。



 ◇◆◇



 ──廊下に出ると、先ほどまでの重苦しさがほんの少しだけ薄れた。

 とはいえ、夜の医局はまだ静寂に包まれている。磨き込まれた大理石の床は、わずかな足音をどこまでも吸い込まずに跳ね返し、冷たい反響を繰り返す。天井の照明は、必要最低限の灯りだけが点され、長い廊下の先は深い闇に飲み込まれている。


 昇降機へと続く道すがら、三つの足音だけが、規則正しく床を叩く。


 ルイは、掌の中の羽に意識を集中した。

 銀灰色の軸が、淡い虹色に変わり始める。こげ茶と黒の繊毛が、白く染まり、風もないのにそよぎ始めた。それはまるで飛び立つ瞬間の鳥の羽ばたきのような、神聖な瞬間の輝きだった。


 魔力が集まる。


 最初は、蛍のような微かな光。指の隙間からこぼれる、かすかな残像。

 やがてそれは、確かな輝きへと変わる。掌全体を包み込む、青白いオーロラ。まるで、遠い星の光を集めて凝縮したかのような、透き通った光。


 三人の姿を、強い光が包み込む。

 視界が白く染まり、体がふわりと浮き上がるような感覚。重力が解け、空間が折り畳まれ、時間さえも歪んでいき——



 次に目を開けた時、そこに広がっていたのは、開けた大理石張りの空間だった。


 光が、天井近くに設えられた高窓から差し込み、冷たく白い床に幾何学模様を描いている。

 外周には、等間隔に円形の柱が立ち並び、その一本一本に精緻な彫刻が施されていた。蔓草と、何かの花——おそらく、この国でしか咲かない植物——が絡み合う意匠は、昼間であれば荘厳な美しさを放つだろう。しかし今、夜の帳の中で、それらはただ静かに、沈黙して立っている。


 その中央に。

 背もたれの高い椅子に腰を掛け、琴葉が目を瞑っていた。


 彼女の周囲には、羊皮紙の山が幾重にも積み上がっている。新しいもの、古いもの、端が焼けて焦げたもの、水に濡れて波打ったもの。それらは無造作に積まれているようでいて、彼女の手の届く範囲に、整然と配置されていた。

 石板もある。大きなもの、小さなもの、文字の刻まれたもの、まだ何も書かれていないもの。



 まるで、彼女はこの場所で、一人、何かを待っていたかのように。


 瞼が、ゆっくりと持ち上がる。

 その動きは、春の訪れを待つ凍った湖面が、ようやく解け始める瞬間のように、ゆっくりと、確かに。



 深紅のガラス玉のような澄んだ瞳が、ルイたちの姿を捉えた。



 その瞳に、どんな感情が宿っているのか。


 まだ、遠くて見えない。

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