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第六十三話 星落ちる先に秩序はない - 6

 シアは小さく頷き、もう一度掌を前に構えた。

 ──魔力は、ここに満ちている。ルイが生み出した光の粒子が、病室の空気にまだ無数に漂っている。それはまるで、彼女のために用意された小さな星屑の海のようだった。


 外で戦っていたときのような「効率」を追求する必要はない。最小の力で最大の効果を、という駆け引きはいらない。今はただ、目の前の命に、ありったけの想いを注ぎ込めばいい。

 治らなければ──つまり、失敗すればシュエンの身を危険に晒すことになる。その責任が、シアの指先をわずかに震わせた。しかし同時に、彼女の心臓を熱く焦がすものがあった。


(最初の感覚を、思い出そう)


 最初に、この力が魔法ではなく、異能だと響哉に教えてもらった頃の、純粋に願うだけの感覚。理屈でも計算でもない、ただ「こうあってほしい」と心の底から想うこと。


 シアは目を閉じた。


 まぶたの裏に浮かぶのは、シュエンの傷口。内部で裂けているのであろう、肉。途切れたのであろう、血管。砕けたのであろう、骨の断面。

 そして──それらが、健やかに繋がっていくイメージ。


 怖くない。できないことはない。


(──だって、私はずっと願ってきたから。大切な人たちが、傷つかずに生きていける世界を)



「《治って》」



 短い、けれど、彼女のすべてを込めた祈りが、シアの口から零れ落ちた。


 その瞬間、世界が息を吸い込んだ。


 漂っていた無数の魔力粒子が、まるで呼応するように一斉に輝きを強める。そして、ゆるやかな渦を描きながら、シュエンの体へと流れ込んでいく。

 その様子は、まるで星の川だった。青白い光の流れが、包帯の隙間から、ガーゼの上から、優しく、しかし確かに彼の体内へと吸い込まれていく。


 内部では、奇跡が起きていた。

 裂けた血管が、端から端へと伸び合い、再び結ばれる。砕けた骨の破片が、元の位置に戻り、隙間なく癒合していく。足りない組織は、まるで初めからそこにあったかのように、静かに再生していく。

 シュエンが、はっと息を呑んだ。痛みはない。ただ、自分の体内を温かい何かが満たしていく感覚。それは、凍えた夜に湯浴みをするような、優しい陶酔だった。


 シアの瞳に、涙が滲む。

 嬉しいわけではなかった。でも、自分の願いが、確かに誰かを救っている。そのことが、彼女の胸の奥をじんわりと熱くした。


 星のような細かな煌めきが、シュエンの傷口に吸い込まれていく最後の一粒。それはまるで、願いを叶えるための最後のピースのように、そっと、深く、沈み込んだ。

 肩の傷が、完全に塞がった。新しい皮膚が、周囲となんの違和感もなく馴染んでいる。そこに、ついさっきまで深い傷口があったとは、誰も信じられないだろう。



 ──終わった。

 ほんの十秒にも満たない、短い力の行使だった。

 しかし、その十秒が、この病室の空気を永遠に変えてしまった。


 シアはそっと手を下ろした。指先に、まだかすかな温もりが残っている。


 できた。

 私、できたんだ。


 平然と、息を切らすこともなく、シアは大きなアメジストの瞳で、シュエンの様子を見つめていた。まるで、「宿題をやり終えました」という生徒のような、ただそれだけの表情で。



「……シュエン、大丈夫?」


 リンファの声が、震えていた。

 シュエンが、ゆっくりと肩を動かした。手を握る。開く。痛みはない。違和感もない。まるで、初めから傷など負っていなかったかのように。


「……動ける」


 彼の声も、少し掠れていた。


 リンファは突然、弾かれたように動いた。

 彼女はシュエンの傷口を覗き込む。包帯の上からでもわかる。確かに、傷は塞がっている。内部の損傷は? 組織の再生は? 炎症反応は? 確認すべきことは山ほどある。すぐに別室に連れていって、精密な診断をしなければ──


 彼女が顔を上げ、口を開きかけたその瞬間、我に返った。

 別室は、空いていない。それに、何より彼女がそこに連れていこうとした"患者"は、ここに座って平然と肩を回している。


 確認するまでもない。


 どう見ても、シュエンの様子におかしな点は見受けられない。

 彼は今やベッドの上であぐらをかいて、包帯を解いていき、自分の腹部をぺたぺたと触っている。珠桜がつけた刀傷も、さらには縫合のために刻まれた痕さえも綺麗さっぱり消えていた。



 リンファは、ゆっくりと視線をシアに移した。


 彼女は、知っている。自分であれば、同じ治癒魔法を使った今頃は肩代わりしたかのように、口から血を吐き、内臓が軋む痛みに耐え切れず、床に蹲って震えているはずだ。


 なのに。シアは、何事もなかったかのように、そこに立っている。


「……代償は? 意識は……体は、大丈夫なの……?」


 リンファの声は、掠れていた。それは、嫉妬でも驚嘆でもない。あまりにも簡単に"不可能"を超えていったこの少女が、もしかすると自分と同じ苦しみを背負うのではないかという、切実な恐れだった。


「ないよ」


 シアは、無垢な笑顔を返した。


「魔力はたくさん使っちゃったけど……」



 その笑顔に、天衡院の天才たちは言葉を失った。

 リンファは、マゼンタの瞳を大きく見開いたまま、固まっている。呼吸すら忘れたかのように、彼女の胸は微動だにしない。

 マキは、深紅の瞳を何度も瞬かせ、まるで数式の間違いを探すかのように、シアの全身をなぞっている。彼の白い指が、膝の上でわずかに震えていた。この書庫の番人は、ありとあらゆる魔法理論を頭に叩き込んでいる。しかし、目の前の現象を説明できる方程式は、どこを探しても見つからなかった。



 自分たちが一生をかけて研鑽し、命を削って辿り着いた"頂上"。


 禁忌。

 代償。

 血を吐き、体の自由を奪われ、それでも手放せなかった奇跡の一片。


 その頂上を、この少女は。

 散歩ついでのように。軽やかに。代償もなく。ただ"願う"だけで、踏み越えていった。



 ──沈黙の中、シュエンがポツリと呟いた。


「……こりゃ、すんごい奇跡を見た」


 彼は自分の肩をぐるぐると回しながら、天井を見上げる。琥珀色の瞳が、サングラスの奥で、どこか遠くを見つめている。


「理不尽極まりない。でも……たしかな祝福だ」


 その声には、驚きも、恐怖もなかった。ただ、新しい時代の始まりを目の当たりにした者の、静かな諦観。



 ──リンファは、自分の手を見つめた。


 この両手で、何人の命を救っただろう。

 この両手で、何度自分を削っただろう。


 治癒魔法を使うたびに、彼女は何かを支払ってきた。細胞の一部。寿命。未来。歩く力。記憶の一片。それでも、彼女は使い続けた。それが、彼女に与えられた唯一の使命だったから。



 なのに。


 目の前の少女は、何も支払っていない。


 ただ、手をかざした。

 ただ、願った。


 それだけだ。



「…………ずるい」



 声が、漏れた。それは、掠れた、かすかな声だった。

 誰かに聞かせるための言葉ではなかった。溢れ出る虚無が、形になってこぼれ落ちただけだ。


「なにそれ、ずるい」


 リンファの目から、涙がこぼれ落ちた。

 彼女の頬を伝う雫は、止まらなかった。十年以上の努力が、十年以上の痛みが、十年以上の諦めが、一瞬で無意味になったかのような、虚無。


 今まで救った命は、何だったのか。

 今まで払った代償は、何だったのか。


 失った自由は、失った時間は、失った未来は、何のためだったのか。


 この少女が、ただ願うだけでいいのなら。

 自分は、何のためにここまで来たのか。



「なんでアンタだけ、代償なしで……」


 声が、震える。


「アタシ、ずっと……ずっと、これしかできなくて……それでも精一杯で……」


 彼女は、その場に崩れそうになった。

 でも、崩れなかった。崩れる場所すら、もうここにはなかったのだ。


 リンファは、袖で乱暴に涙を拭った。


「……ったく、寝起きに泣かせるとか最悪」


 声は、もう震えていなかった。虚無は、涙のあとに静寂だけを残した。


「アタシ、治療ももう要らないなら寝る。起きたら、アンタたちの異能……もっと詳しく教えてよ」


 リンファは、杖を引きずるようにして部屋を出ていった。その背中は、小さく、丸まっていた。

 かつて天衡院で「天才」と称えられ、「神業の治癒師」と崇められ、誰よりも誇り高かった女の背中は、まるで魂の抜けた抜け殻のように、頼りなく揺れていた。



 杖が床を叩く音だけが、虚ろに響く。


 コツン。


 コツン。


 コツン。



 その音が遠ざかるのを──シュエンも、マキも、引き留めることはできなかった。



 ──その光景を見てシアが、小さく首をかしげた。

 アメジストの瞳が、不安そうに揺れる。それは、目の前で起こっている感情の奔流を、まったく理解できないという困惑の色だった。


(治したのに……)


 彼女の脳裏には、ただそれだけがあった。

 傷は塞がった。血は止まった。シュエンはもう痛くない。ちゃんと動ける。



 ──なのに、どうしてリンファは泣いている?

 ──なんで、あんなに悲しそうな顔をしているのか?



 シアにとって、治すことは善だ。誰にでもそうなはず。誰かを救うことは、正しいことだった。その結果で、誰かが傷つくなんて、想像もしたことがなかった。


 彼女は、自分が何かを「奪った」とは、微塵も思っていない。

 自分がリンファが命を賭して積み上げてきたものを無意味にしたとは、永遠に気づかないだろう。


 ただ、純粋に。無垢に。「助けたい」と思っただけだ。その純粋さが、いっそう残酷だった。


 リンファが命を削って築いたすべてを、シアは「知らない」のだ。自分の足で立つことの難しさを。血を吐きながらそれでも手をかざし続けた日々を。失った記憶の一片一片に、どれだけの思い出が込められていたかを。



 知らないから、平気で笑える。

 知らないから、「代償はないよ」と無邪気に言える。


 知らないから──ただの善行として、相手の人生を壊せる。



「……シュエン、本当に大丈夫?」


 シアの声は、あくまでも優しかった。心配そうにのぞき込むその顔は、まさに善人のそれだった。

 その無垢な問いかけに、シュエンは一瞬、言葉を失った。


 そして、小さく息を吐いた。


「……うん。もうバリバリ動ける。今なら黒華珠桜殿と追いかけっこしても逃げきれちゃうかも。

 …………アリガトね」


 彼の声は、いつもの飄々とした調子だった。

 しかし、その瞳は笑っていなかった。

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