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第六十三話 星落ちる先に秩序はない - 5

 彼女が目を開けた時、その瞳の色が変わっていた。

 普段の自然な光ではなく、確かな意志の炎を宿した、宝石のように爛々と煌めく、強烈で揺るぎないものが宿っている。


「え? 今の話聞いてた?」


 シュエンが間抜けな声をあげる。包帯の下から、血が滲んでいるのも構わず、上半身を起こした。点滴の管が揺れ、カチカチと忙しなく音を立てる。


「聞いてたよ」


 シアは静かに言った。その声には、もう迷いはなかった。


「ルイ、さっきの魔力使うよ」

「おう。見せてやれ」


 ルイは短く応えた。二人の間に、目に見えない信頼の糸が張り詰める。それは、長い旅路と幾度もの共闘が育んだ、言葉にできない絆だった。


 シアが、慎重にシュエンに近付いていく。


 一歩。かすかに床を踏む音。白い靴底が、磨き込まれた大理石に触れる。

 また一歩。患者衣のしわ、包帯の巻き方、ガーゼから滲む血痕の色。それらを一つひとつ、焼き付けるように見つめながら。


 そして、彼女は立ち止まった。距離、わずか五十センチ。

 彼女の小さな掌が、ゆっくりと掲げられる。指先が、月明かりを浴びて半透明に光る。それはまるで、これから奇跡を紡ごうとする、祈りの形だった。



「え、ちょ、待って待って待って!? ホンキ!?!?」


 シュエンの声が、これまで聞いたことのない高さで裏返る。


「治癒魔法って失敗したら奇形になったりしちゃうんだけど!? それは勘弁だよ!?」


 彼の両手が、無意識に自分の腹部を覆う。包帯の下で、まだ塞がりきらない傷口が疼く。ガーゼの端から、新しい血がほんのりと滲んでいる。彼の顔から、さっきまでの飄々とした余裕が完全に消えていた。サングラスの奥の瞳が、本気で怯えている。


「大丈夫!」


 シアの掌に魔力が集まり始める。

 最初は、かすかな揺らぎ。蛍の光のような、淡い淡い輝き。しかしそれは瞬く間に濃さを増し、彼女の掌全体を包み込む青白いオーロラへと変わる。光は脈打つように明滅し、彼女の指の隙間からこぼれ落ちては、また集まる。まるで、それ自体が意志を持った生き物のように。


 その光を見て──リンファとマキが、同時に立ち上がった。

 マゼンタの髪が翻る。白い長衣の裾が宙を舞う。二人の手が、ほとんど同時にシアの手首を掴んだ。


 リンファの指が、深くシアの細い腕に食い込む。その手は、さっきまで床に座り込んで呆然としていた者とは思えないほど、力強く、確かだった。爪が白く変わっている。彼女はそれに気づいていない。

 マキの手は、震えていた。深紅の瞳が、シアの掌に宿る光と、彼女の決然とした横顔とを、交互に見つめている。彼の白い喉仏が、ごくりと音を立てて上下した。言葉を探しているのに、見つからない。そんな表情だった。



「ま、待ちなさいよ!」


 リンファの声が、病室の空気を切り裂く。


「傷の状態もロクに見ずにできると思ってんの!? アンタ今のシュエンの話聞いてた!?

 治癒魔法はアタシ以外に成功した人間がいない。それだけじゃない。使うたびに代償がある。アタシはこの通り、杖がないと歩けない生活よ!?」


 彼女の声は、怒っているのに、どこか哀願するようだった。その瞳の奥で、何かが揺れている。


「うん」


 シアは、ただ静かにうなずいた。


「それでもやるって言うの!?」

「うん」

「冗談じゃないわ!」


 リンファの声が、さらに鋭くなる。


「アンタたち賓客は大事なゲスト。それにシュエンだって、アタシたちの大切な──!」


 彼女の言葉が、途中で止まる。大切な、何だと言うのか。

 その先を、彼女は飲み込んだ。唇が、微かに震えている。黒髪が、うつむいた拍子にさらりと揺れた。その仕草は、さっきまであれほど威圧的だった彼女からは想像もできないほど、脆く、人間的だった。



「まあ見てろ」


 ルイが、静かに口を開いた。


「シアの願いに、世界は従う」


 その声には、一片の疑いもなかった。断言。いや、確信。彼は何度も見てきたのだ。この少女の願いが、世界の理すらねじ伏せる瞬間を。


「ウチの嬢も、そっちに負けねえくらい破天荒だぜ?」


 響哉が嗤う。壁にもたれたまま、腕を組んで。しかしその目は、確かにシアを見ていた。この少女の持つ、静かで、しかし暴力的なまでの可能性を。



 沈黙──その後、シュエンは、深く、深く、溜息を吐いた。

 サングラスの下の琥珀色の瞳が、ゆっくりと上がる。そして、シアのアメジストの瞳を、まっすぐに見据えた。

 狂気的なまでの自信と輝きに溢れた瞳だった。恐れ、先んじて破壊し続けてきた、異能者たちの光。世界の理を燃やし尽くす、抗うことのできない輝き。



「大丈夫」


 シアは、もう一度言った。


「私、失敗しないよ」


 その言葉は、まるで呪文のように、病室の空気を変えた。



「……ハァ」



 ──シュエンが、ついに諦めたように肩を落とした。


「いいよ。実験体になってあげる」

「シュエン!!」


 リンファの悲鳴のような声が、再び響く。彼女の指が、シアの腕により一層深く食い込む。


「心配してくれるお嬢、めずらし~」


 シュエンは、にへらと笑った。先程まであれほど怯えていたのに、もう飄々とした表情に戻っている。しかしその瞳の奥には、確かな信頼が浮かんでいた。彼は、リンファの必死の制止を、まるで子どもの我儘をあやすように受け流す。


「いいじゃん。やってみせてもらえば」彼は、リンファを見上げた。


「オレたち、この子たちを戦力として未来を託すわけデショ?」


 その言葉に、リンファは何も言えなかった。

 彼女は、シアの腕を握る手に力を込めたまま、固まっている。指の関節が白く浮き上がる。マゼンタの瞳は、潤み、震えていた。


 何かを言おうとして、唇が微かに開く。しかし、声にならない。彼女はまた唇を引き結び、今度は噛みしめるように閉じた。歯が柔らかな粘膜に食い込み、鉄の味が広がる。

 彼女の胸が、大きく上下する。吸う息、吐く息。そのたびに、握る手の力が強まり、緩み、また強まる。まるで、自分の内側で何かが激しく戦っているかのように。


 ――守らなければいけない。なのに、リスクがありすぎる。


 その言葉が、彼女の喉の奥で何度も形になろうとしては、消えていく。

 賓客を守る責務。シュエンを守る責務。そして、治癒魔法という禁忌を、誰よりもよく知っている者の恐怖。



 彼女は、この魔法と共に生きてきた。

 初めて成功させた日の歓喜。二度目に蘇生的な領域に足を踏み入れた日の戦慄。三度目、四度目と重ねるごとに、少しずつ失われていく自分の身体の自由。

 杖がなければ歩けなくなった日、彼女は泣かなかった。ただ、目の前の患者の傷が塞がっていくのを見つめていた。その代償が自分の体だったとしても、彼女はそれを選び続けた。



 ――けれど。


(……もし、本当に成功させられるのだとしたら)


 リンファの脳裏に、未来が映った。

 目の前の少女が、治癒魔法を使いこなす姿。傷ついた兵士たちが、次々と息を吹き返す。戦場で倒れた者たちが、再び立ち上がる。


 そして――



 もう、自分が無理をしなくてもいい。

 自分が倒れることで、誰かを悲しませなくてもいい。


 リンファは、何度も死にゆく人々を治そうとして、周囲に止められてきた。「貴女自身が命を落とすようなことが、あってはならない」と。その言葉の裏にあったのは、信頼ではなく、諦めだったのかもしれない。

 治癒魔法を使い続ければ、命を落とす。それは、リンファ自身も、周りも、よく分かっていた。



 彼女は、何かを振り切るように、ゆっくりと顔を上げた。

 マゼンタの髪が、その動きに合わせてさらりと揺れる。一筋、涙がこぼれそうになって、彼女はそれを瞬きで拭った。決して流さない、という意志を込めて。



「……やっていいわよ」


 リンファの声は、小さかった。

 それは、怒りでも、諦めでもなかった。ただ、認めるしかない、という静かな決断の響きがあった。


「でも」


 彼女は、まっすぐにシアを見た。

 さっきまであれほど揺れていた瞳が、今はただ真っ直ぐに、シアを見据えている。その瞳には、もう迷いはなかった。


「もし失敗したら、アタシが全力で元に戻すから」


 その声は、震えていなかった。


「その代償でアタシがどうなっても、文句言わないこと」


 彼女のマゼンタの瞳が、静かに燃えていた。


 天才としての矜持。医師としての責務。そして、その奥に隠された、優しさ。

 それは、誰にも触れさせなかった自分の領域を、初めて他人に預ける瞬間の、眩しいほどの潔さだった。



 彼女の指が、ゆっくりと、ひとつずつ、シアの腕から離れていく。

 爪が白く変わるほど握りしめられていた手は、離れる瞬間、かすかに震えた。それは、何かを手放す痛みに耐えるような、名残惜しさにも似た震えだった。


 ──そして、シアは静かに息を吸い込んだ。

 この手に託されたのは、一人の天才の祈りと諦めと、それでも捨てきれなかった希望のかけらだ。


 絶対に、成功させる。


 彼女のアメジストの瞳に、静かで、揺るぎない焔が灯った。

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