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第六十三話 星落ちる先に秩序はない - 3

「申し訳ありません。業務時間中は、定められた口調、定められた定型的な応対が求められているのですが、それ以外はその制限は緩みます。なので……」


 マキの声は、まるで規則書を読み上げるかのように平坦だ。深紅の瞳はやや伏せられ、眉根にはかすかな緊張が刻まれている。彼なりに懸命に説明している。理路整然と、正しく、間違いなく。


「マキ! 硬い! 嫌! もっと柔らかく! ほら、笑ってみなさいよ!」


 リンファがずいっと顔を近づける。マゼンタの髪が揺れ、同色の瞳がマキの顔を覗き込む。その距離、拳一つ分。否、もしかするとそれすらない。

 マキの白い睫毛が、わずかに、しかし確かに震えた。


「……………………」


 沈黙。

 彼の口元が、ほんの一ミリだけ横に引けた。それが限界だった。

 笑顔の輪郭。笑顔の残像。笑顔の、あまりにもかすかな痕跡。それはまるで、凍りついた湖面に一瞬だけ走ったひび割れのように、すぐに消えた。


 リンファはそれを見て、ぷはっと吹き出した。


「不気味!」


 一言。それだけ。


 マキの表情は、すぐに元の無表情に戻った。深紅の瞳の輝きが、ほんの少し曇った気がする。そういうわけにはいかない、という雰囲気がひしひしと伝わってくる。マキにとっては、今は賓客の案内をするという立派で崇高な業務の途中なのだ。リンファと違い、まだ規則の中に生きている時間なのである。

 リンファはマキの手を取ると、ずるずると引きずるようにして近くの椅子に座らせた。乱暴だが、どこか慣れた手つきだ。何度もこうやって彼を椅子に落ち着かせてきたかのように。マキはされるがまま、深紅の瞳を伏せている。抵抗する気力も、する理由も、とうの昔に手放してしまったかのようだった。

 リンファ自身はベッドの端に腰を掛け、再び足を組む。シュエンの足元を遠慮なく蹴り上げて、より良い位置を確保した。シュエンが「あ、また足蹴られた」と呑気に呟く。包帯の下から新しい血が滲んでいないか、ルイは少し心配になった。



「──それで? 何を見せてくれるって?」


 リンファの口調が、唐突に変わった。

 さっきまでの騒がしさが嘘のように、静かで、鋭い。マゼンタの瞳の光が、研ぎ澄まされた刃のように変わる。そこにはもう、寝起きで叩き起こされた女医の不機嫌も、規則を盾に取った子どものような我儘もない。

 ただ、この国の最高峰に立つ医師として、魔法士としての冷徹な判断力だけが、ギラリと輝いていた。


「アタシの貴重な時間を奪う価値はあるの? 魔法の劣化版だったら、その場で窓から投げ捨てるわよ」


 リンファの口元は笑っている。だが、そのマゼンタの瞳は一切笑っていなかった。


「俺とシアの異能を見せるって話で……」


 ルイは一瞬、言葉を探した。さっきまでのはしゃぎ声が嘘のような、この張り詰めた空気の変化に戸惑いながら。


「知ってるわ。どんな異能?」

「俺は星溶粒子を操る。シアは、願ったものを現実に引き起こす」

「ふーん」


 リンファが、不遜に笑った。

 口元だけで作られた笑顔。感情の乗っていない、冷たい形だけの弧。彼女は組んでいた足を解き、ゆっくりと背筋を伸ばした。その仕草だけで、病室の空気の密度が変わった。


「星溶粒子……魔力のもとね。操るって、それで何ができるの? 別に、アタシだって……」


 彼女はスッと指を掲げた。

 マゼンタの瞳が薄闇の中で鮮やかに発光したその瞬間──目の前でバチっと火花が散るような鋭い衝撃とともに、ルイの視界が内側から爆ぜた。


「っ!?」


 白い閃光が網膜を焼く。ルイは思わず目を押さえ、一歩、二歩とよろめいた。瞼の裏に、まだ残像がこびりついている。


「ルイ! 大丈夫っ!?」


 シアが駆け寄る。彼女の細い指がルイの腕を掴んだ。だがルイは片手を上げて、それを静止した。一瞬の焼けるような痛みは、もう引いていた。残るのは、わずかな違和感だけ。


「このくらいはできるわ」リンファの声には、一片の謙虚さもなかった。当然だと言わんばかりの、傲慢なまでの確信。彼女は自分の指先を眺めながら、まるでつまらない玩具を弄ぶように言った。

「……今のは?」ルイは目を開けた。まだ視界の端がチカチカするが、彼女の顔ははっきりと見えた。その、試すような笑みの輪郭も。


「アンタの体内の粒子を強引に眼球へ集めたの。眩しかったでしょ? たくさんの粒子を視たから」


 リンファは首をかしげ、猫のような無邪気さで付け加えた。


「もっと出力を上げてたら、眼球ごと沸騰してたわね」



 ピキリ。


 ルイのこめかみで、何かが張り詰める音がした。それは血管か、あるいは理性か。彼は奥歯を噛みしめた。



 ──なるほど。


 字面だけなら確かにそうだ。粒子を操ることが普遍的な技術ならば、魔法士たちにとってルイの異能は、大したものに聞こえないかもしれない。彼女は自分の指先一つで、確かに星溶粒子を操ってみせた。その技術は精緻で、無駄がなく、研ぎ澄まされていた。


 だが、彼らは知らない。

 魔法士が積み重ねた研鑽による粒子の操作と、理そのものを書き換える異能による粒子の操作の間に、どれほどの絶望的な隔たりがあるかを。


 ──琴葉の反応を見ていればわかる。あの守護者が、ルイの異能を前に、その重責から逃れたいと口にした。魔法士たちの努力や研鑽、命さえも、この異能の前ではどれほど簡単に踏みにじられるかを、彼女は痛いほど知っているからだ。


 ルイはゆっくりと、顔を上げた。

 視界の端にまだちらつく残像を、瞬きひとつで払う。シアが心配そうに覗き込む横顔に、彼は小さく、確かにうなずいて見せた。その瞳に、迷いはない。

 響哉は壁際で黙ったまま、腕を組んで一部始終を冷ややかに観察している。その口元には、かすかな笑み。彼は知っている。これから何が起きるかを。

 マキは椅子に座ったまま、深紅の瞳に不安と好奇心を等分に混ぜて、成り行きを見守っていた。白い指が膝の上で微かに震えている。


(異能の底力ってやつを、見せてやる)



「……ここに、魔力の粒子があるだろ」


 ルイは手を差し出した。指先に意識を集中する。すると、空気の中からひと粒の光が静かに浮かび上がった。黒と白が混ざり合う、かすかな揺らぎ。手のひらの上で、それはまるで生まれたばかりの星のように、頼りなく瞬いている。

 この病室内に漂う魔力粒子は、先ほどリンファがシュエンの治療のために使用した直後だ。その数は決して多くない。

 ルイは静かに、その光へと意識を注いだ。


「……目を、閉じろよ。天才さん」


 忠告の声は、異様に静かだった。そして──



「──《増幅(ブースト)》」



 その言葉は、爆発の引き金だった。

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