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第六十三話 星落ちる先に秩序はない - 2

 医局に割り当てられた部分の最上階。昇降機の扉が開き、すぐ目の前の部屋に案内された。受付の女性は静かに頭を下げ、昇降機へ戻っていく。足音が消え、ひと気のない廊下が取り残された。

 ここは、医局の中でも特別に隔絶された区域なのだろう。壁には、この国の医療技術の粋を結集したであろう魔法式が幾重にも刻まれていた。微かに発光するそれらは、まるで呼吸をするようにゆっくりと明滅している。床は磨き抜かれた石板で、足音を立てればどこまでも響きそうな、張り詰めた静けさに支配されていた。天井から等間隔に吊るされた照明は、橙色の暖かみを帯びながらも、今は必要最低限の明るさに抑えられている。


 ──その静寂を、引き裂く怒声が飛んだ。



「──内臓にも傷! 出血多すぎ! 一体どこのどいつにやられたのよ、コレ!!」



 目の前の扉の向こうから炸裂した咆哮は、品性も秩序の欠片もない。先ほどまで張り詰めていた医局の静寂が、一瞬で粉々に打ち砕かれた。


「いやはや、東の将軍に、オレごときキツネでは敵いませんて!」


 続いて飛び出してきたのは、緊張感の欠如した軽薄な声。怒涛の剣幕をまったく意に介さず、どこか楽しげですらある。怒号と能天気な声音が、重厚な扉越しに奇怪な不協和音を奏でていた。


 重い木製の扉の前で、マキはぴたりと足を止めた。

 その横顔は、深い深い──遠い目をしている。深紅の瞳が、虚空の彼方を見つめている。おそらく彼の脳裏には、この先に待つであろう光景が鮮明に映像として浮かんでいるのだろう。そして、それに付随するであろう精神的な消耗が、確実に予測されているのだ。



 三秒の沈黙。諦観にも似た、微かなため息。


 ──マキは、何かを振り切るように扉に手をかけた。


「失礼いたします」


 その声は、どこか投げやりだった。


「し、失礼します」

「失礼します!」


 マキに続き、ルイ、シア、そして響哉が病室へ足を踏み入れた。



 ──瞬間、騒音が倍増した。


 ベッドの上で、シュエンが上機嫌に手を振っている。包帯をぐるぐる巻きにされた上半身、点滴の管がいくつも繋がれた腕。腹部を覆う厚いガーゼには、うっすらと血が滲んでいる。それなのに、その顔には一片の陰りもなく、晴れやかな笑顔が貼り付いていた。


「おおっ、来たね賓客諸君! 見てよこのザマを! 包帯ぐるぐる巻き! やっぱり君たちのボスは一味も二味も違うねぇ~っ!」


 ──まるで手柄のように語るな。


 ひらひらと振られる手のひら。無邪気な笑顔。その全身に巻かれた包帯と、ベッドサイドに並ぶ医療機器の無機質な表示が、あまりにも不釣り合いだ。

 ルイたち全員が絶句した。つい数時間前、刀で体を貫かれ、血を流して倒れた男が、ベッドで起き上がり、まるでパーティーでも始まるかのように笑っている。瀕死の人間が、こんなに元気でいいものなのか?


 そして、その横。般若のような形相で、腕と足を組み、座る女がいた。

 艶やかな黒髪は、肩口で切り揃えられ、内側だけが鮮烈なマゼンタに染められている。同色の瞳は、今は怒りでギラギラと燃え滾っていた。腕を組み、足を組み──苛立たしげに、組んだ足を、イライラと、カツカツと、揺らしている。彼女の周囲だけ、空気の温度が明らかに低い。


 マキは、開けた扉の前で、もう一度足を止めた。

 入る前に戻りたい。そう言いたげな、哀願にも似た沈黙。


 しかし、もう後の祭りである。彼は深く、深く、死んだ魚のような眼差しで天井を仰ぐと、観念したように一歩を踏み出した。



「程宰衡。事前にお伝えしていた賓客の方々で──」

「そんな堅苦しい喋り方するのやめてよめんどくさーい!」


 シュエンがベッドの上で跳ねるように言い放った。腹部の包帯に構わず、両手をばたつかせて。ガーゼの下から滲む血の色が、ほんの少し濃くなった気がする。誰もそれに注意を促さない。促す余裕すらない。


「もういーじゃん、勤務時間過ぎてるし」


 緩い患者衣に包まれながら、いつものサングラスだけは外さない。レンズの奥の瞳は読めないが、口元は三日月の形に歪んでいる。


「いつもみたいに仲良くしようぜ、"マキくん"っ」



 ──ルイは言葉を失った。

 魔法士たちの硬いイメージが、音を立てて崩れ去る。天衡院の宰衡。この国の最高権力者の一角。その人物が、ベッドの上ではしゃぎ、一端の文官を「マキくん」と呼び、包帯ぐるぐる巻きの状態でニコニコと笑っている。

 理解が追いつかない。ルイたちの頭の上に、疑問符が渦を巻いた。



「そうよ!!」


 今度は別の方向から、金切り声が炸裂した。


「アタシ、さっきまで寝てたんだけど!! なのに急に叩き起こされて瀕死のコイツ押し付けられて! なんで寝起き一発目にあんな大がかりな"治癒魔法"使わなきゃいけないの! あんなの魔力ごっそり持ってかれるんだからね!

 天医の勤務は基本六時間、週四日。当直明けの翌日は非番って明文規定もあるのよ! 今日、アタシ、非番!!」

「え、でも『天衡院医療部門規則集・第七条第四項』に、緊急時における天医の招集は勤務時間外でも有効って書いてあるよ?」


 シュエンがのんびりと返す。その声音には、まったく悪びれた様子がない。それどころか、すらすらと条文を暗唱してみせる。包帯まみれの体で、ベッドにだらりと寄りかかりながら。


「それは知ってるわよ! でもね、でもね!」


 女の声が一段と高くなる。


「あの規則の但し書きには『ただし、招集された天医は、通常の勤務規定に縛られず、独自の裁量で治療を行える』ってちゃんと書いてあるの! つまり!」


 彼女はビシィッと人差し指を天井に突き立てた。指先が震えている。怒りか、それとも歓喜か。


「今のアタシはもう、堅苦しい秩序だの礼節だのに従う必要は一切ないってこと!! 規則がそれを許してる!!」


 宣言と同時に、彼女は横に立てかけてあった杖を掴んだ。が、迂回するのさえ億劫なのか、膝をついてベッドの上を器用に這い渡り始める。患者の横を、躊躇なく。シュエンの足の上を、ガーゼの端を踏み越えながら。当の本人は「わ、足踏まれた」と呑気に声をあげている。

 彼女はベッドから飛び降りるように着地すると、マゼンタに染めた髪を振り乱しながら、ビシィッ! とルイの鼻先を指差した。

 その瞳は、知性と狂気が同居したような鮮やかな色彩を放っている。怒りに燃えながらも、その奥には確かな冷徹さが潜んでいた。天才特有の、他人の常識を無視することを許された者の目だ。



「アタシはリンファ。天衡院で一番の天才医師であり、一番の天才魔法士」


 彼女は一呼吸置き、勝ち誇ったように顎を上げた。


「ここにいる間は毎日アタシを崇め、拝み、ひれ伏しなさい! じゃないと、次死にかけた時にゴミ箱に捨ててあげるから! ……勤務時間中じゃなければ」



 ──インパクトが、暴力的だった。


 ルイは瞬きもできずにその鼻先の指を見つめ、シアは目を白黒させ、響哉は「は?」とだけ漏らした。

 シュエンは腹を抱えて笑っている。「いひひっ」という妙に間抜けな笑い声が、病室にこだました。包帯が緩んだ気がする。点滴の管が揺れた。

 そしてマキは──完全に、魂が抜けていた。深紅の瞳は虚空の一点を見つめ、口元はかすかに開き、呼吸すら忘れているかのようだ。白い長衣の胸元で、両手が力なく重なっている。まるでこの世のすべての疲労が、今この瞬間に彼の肩の上に降り積もったかのように。


 書庫で彼が言っていた『少々騒がしい』という言葉の意味が、今、骨身に染みるほど理解できた。



 少々どころではない。これはもう──立派な一つの災害だった。

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