第六十三話 星落ちる先に秩序はない - 1
──その道のりは、徐々に不安が混じるものだった。
先ほどの、ポーランに着いて書庫へ向かう道のりは、転移魔法で空間そのものが折り畳まれ、距離も短くなっていた。さらに、普通に歩いているときも彼の巨大な歩幅と速足に必死に食らいつくのがやっと。着いていくのが大変なほどに早く、目的地へ"連れて行かれる”感覚に近かった。
それに比べて、マキの歩みはあまりに脆かった。彼はゆっくりと、確かめるように床に足を下ろす。わずかに体が傾くたびに息を詰め、時折立ち止まっては、細い肩で静かに息を整えている。階段に差しかかると、その速度はさらに落ちた。手すりを掴む指が白く強張り、一段一段がまるで断崖を越えるような重さを帯びている。
ポーランと歩けば三分とかからない距離を、マキと歩けばその何倍もの時間がかかった。その一歩一歩が、命を削るように見えた。
「……その、大丈夫か?」
廊下の角で、また立ち止まったマキの背中に、ルイは声をかけた。
彼は壁に片手をつき、うつむいている。長い白髪が顔を覆い、その隙間から覗く横顔は蝋のように青白い。ぜー、はー、と漏れる呼吸は浅く、一定しない。額にはうっすらと脂汗が浮かび、普段は薄紅に澄んでいる唇は、今やほとんど色を失っていた。
マキはゆっくりと顔を上げた。息を整えようとするかのように、一度、深く息を吸い込む。
「……ご心配をおかけして、申し訳ありません」
謝罪が先に出る。そのことに、ルイは少しだけ胸が痛んだ。
「マキが嫌じゃなければ、背負っていこうか? 俺、鍛えてるから」
響哉との過酷な訓練を経て、ルイの身体は確実に変わっていた。細かった腕には無駄のない筋肉がつき、持久力も格段に向上している。何より、自分以外の誰かの重みを受け止めることへのためらいが、ほとんど消えていた。
マキはわずかに躊躇した。その深紅の瞳が、ルイの顔を見つめ、それから彼の差し出した背中へと移る。拒む気力も、拒む理由も、もう残っていなかったのかもしれない。彼は小さく、一度だけうなずいた。
背中に乗せたマキの体は、見た目以上に軽かった。まるで、内部の空洞がそのまま重量になっているかのようだ。ルイはぐっと踏ん張り、よろめくことなく歩き出す。背中の上で、白髪がゆっくりと揺れた。
「襲撃の日、きちんと安全な場所にいてくれよ?」
ルイは前を向いたまま言った。
「……心得ております」
淡々とした応答。だが、その声音の奥に、わずかな安堵が混じっていたのを、ルイは聞き逃さなかった。
階段を一段、また一段と登っていく。背中の重みが、少しだけ、ルイの心臓に響いた。
◇◆◇
天衡院医局。
澄幽の診療所とは、規模も空気もまるで違っていた。
まず、天井が高い。見上げれば、彫刻が施された白漆喰の天井は優に三階分の高さがあり、そこから巨大なシャンデリアが幾つも吊り下がっている。だが、今は夜半。灯りは最小限に落とされ、無数の水滴形ガラスは暗がりに浮かぶ氷塊のように沈黙していた。日中はこの空間を黄金色に満たしたであろう光は、今は控えめな明度で、床にぼんやりとした影の湖を広げている。
大理石の床には、無数の足跡が雑多に交差している。搬入用の大型ストレッチャーが通った跡なのか、中央には擦り切れたラインがうっすらと刻まれていた。壁際には、この国の技術の粋を集めたと思しき医療機器がずらりと並び、無機質なインジケーターの明滅が、絶え間なく闇を刻んでいる。
広いエントランスの中央には、黒檀と思われる重厚な受付カウンター。表面には緻密な唐草模様が彫られ、長年の使用で角が微かに丸みを帯びていた。その向こうでは、数人の看護師たちが書類と魔力表示板を手際よく処理している。走り去っていく白衣の裾が風を切り、短く交わされる指示が硬質な響きで宙に溶ける。押し殺した足音、擦れる衣擦れ、紙の端が擦れる音——それらが重なり、一定の秩序を保った慌ただしさを生み出していた。ここは治癒の場であると同時に、明らかに戦線の一部だった。
ルイは無意識に背筋を伸ばした。澄幽の診療所は、木の温もりと柔らかな灯りと──時に、葛城の温かくも厳しい怒声が満ちる、傷ついた者が息を潜める避難所だった。しかしここは違う。負傷者を繕い、再び戦場へ送り返す工廠のような冷徹さが、空気の隅々にまで染み込んでいる。
マキがルイの背中から降りた。足元が覚束ず、一瞬よろめく。ルイが思わず手を伸ばしかけたが、彼はかすかに首を振り、自分の足で受付カウンターへと歩み寄った。その背中は細く、儚げだが、不思議と折れる気配はない。
「请问您的所属单位和姓名?(所属とお名前は?)」
受付の女性看護師が、顔も上げずに機械的に問うた。その指先は魔力表示板の上を滑り続け、絶え間なく情報を呼び出している。
「文衡局、典司。我姓胡(胡です)」
マキの声は、淡々としていた。しかし、その応答を聞いた瞬間、看護師の指がぴたりと止まった。彼女は顔を上げ、マキの白い長衣と、その後ろに立つ三人の賓客を一瞥する。その瞳に、一瞬だけ驚愕の色が走った——いや、それは驚愕というより、ほとんど畏怖に近かった。
「……では、後ろの方々が賓客の」
「はい。私が程宰衡より、案内を仰せつかっております」
看護師の表情が微かに引き締まる。彼女はゆっくりと立ち上がり、背筋を伸ばして軽く頭を下げた。カウンターの木目が、彼女の指の圧で微かに軋んだ。
「程宰衡の見舞い……それと、"沈天医"を呼んではいただけないだろうか」
マキの言葉に、看護師は視線を手元の魔力表示板へ戻す。指が素早く滑り、複数の画面を切り替えながら何かを確認する。表示板の淡い光が、彼女の顔を青白く照らし出した。
「胡典司。沈天医は、現在程宰衡の治療にあたられております。そのため、病室に共にいらっしゃるかと。ご案内いたします」
彼女はカウンターから出てきて、奥へと続く廊下を静かに示した。その先は、さらに明かりが落とされ、廊下の両壁に等間隔に配置された燭台も、半数が熄えている。ひっそりとした緊張が張り詰めた空気は、触れれば指が切れそうなほど尖っていた。
誰もが声を潜め、足音を殺している。看護師たちは爪先で床を踏みしめ、医師たちは重い扉を滑らせるように開閉する。それは、病人の安眠を妨げないための配慮というより、死そのものを呼び寄せないための、祈りに近い静けさだった。
ルイはシアと一瞬目を合わせた。彼女もまた、無意識に呼吸を浅くしていた。この静寂は優しさではなく、刃のように研ぎ澄まされている。




