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第六十二話 都はまだ亡者の囁きを聴いている - 3

 彼は少し間を置き、指先を巻物のもう一方の端──うずくまる少年の絵へと滑らせる。触れた瞬間、少年の周囲の闇が深まり、冷たい気配が書庫の空気さえも凍らせるようだった。ルイは思わず肩に力が入り、隣でシアが微かに息を詰めるのがわかった。


「さらに、もう一人の少年の方。彼は亡霊を使役し、操ります。こちらも厄介で……亡霊たちは被寄生者を止めたり、なんとかして災いの根源たるあの少女を探し出そうとする魔法士たちを標的に、活動していました」


 少年の絵の周囲に、半透明の靄が渦を巻きながら湧き上がる。その靄の中から、無数の顔が浮かび上がってくる。苦悶に歪んだ表情、泣き叫ぶ口、何かを訴えるように伸ばす手──全てが、かつて生きた者たちの、今は魂となった残響だ。ルイはその光景を見て、背筋に冷たいものが走った。これが、エゼキエルの力の正体か?

 亡霊たちはまとわりつくように魔法士の絵へと襲いかかる。術式を構えようとする手を押さえつけ、詠唱を阻み、動きそのものを封じ込める。まるで、生者を救おうとする意志そのものを、死者の悲嘆で溺れさせようとするかのように。

 シアが無意識に自分の腕を抱きしめる。彼女の目には、あの優しい青年の面影と、この残酷な光景との齟齬に揺れる困惑が映っていた。


「生前の要素を強く引き継ぐことができるのか、亡霊たちの中にも異能を使う存在がいます。普段、異能者と渡りあうために、魔法士は綿密に計画を立てますが、亡霊はどこから現れるかもわからない。数も、無数と思えるほど……魔法士の殉職者も多かったです」


 巻物の上で、一人の魔法士が亡霊の群れに取り囲まれ、術式がかき消される。別の魔法士が援護に駆けつけるが、その背後から新たな亡霊が現れ、背後を貫く。倒れた魔法士の体から、微かな光が抜け出し──それが少年の周囲の靄に吸い込まれ、新たな亡霊として形を成す。

 倒れた者が即ち敵となる。そんな戦いで、どうやって希望を持てというのか。この場に立っていたのであろうポーランと──琴葉も。どれだけの数の同胞の魂にとどめを刺すことになったのだろうか。


「亡くなった魔法士が、その場で少年の異能により亡霊として甦らされ、魔法を使い都をさらに破壊していく」


 新たに生まれた魔法士の亡霊が、生前の術式を再現する。火球が街並みを焼き、氷柱が人々を貫く。破壊が破壊を呼び、混乱が増幅する。


「破壊に巻き込まれた人々が血を流して、寄生が急速に拡大する」


 炎に焼かれ、氷に刺され、崩れる建物の下敷きになる──傷ついた人々から流れ出る血が、先ほどの赤い波紋と合流し、さらに速く、さらに広く広がっていく。二つの異能が互いに補完し合い、破滅の連鎖を加速させる。シアの顔色が青ざめる。彼女の手が微かに震えている。

 マキの声が、重く沈んだ。その深紅の瞳には、七年前の地獄がそのまま映っているようだった。


「その結果、五千万人が犠牲になりました。

 李将衡と、構造的に少女の異能が効かない骸兵がいなければ、あの時に全滅していた可能性もありました」


 巻物の上の光景が静かに収束し、再び静かな絵に戻る。だが、今やその絵からは、単なる記録を超えた慟哭が聞こえてくるようだった。朱色の血と、青白い亡霊の靄が、羊皮紙の上で永遠に蠢き続けている。

 書庫の沈黙が、一層深く重くなった。ルイは胸の奥で、かつてエゼキエルと交わした会話を思い出していた。



『俺……"親友"以外、友達が欲しいと思ったことはないんですが……ルイ君とシアさんは……またお話したいなと思いました』


 あの笑顔は、本当だったのか?


『王様! エゼさま!』


 笑う亡霊の少年たち。彼の異能は、そのような地獄を引き起こすためのものだったのか?


 ──答えは、もう巻物の上にあった。



「……それと、戦うってことだよな?」


 ルイの声は、乾いたように書庫に響いた。問いかけというより、確認だった。自分に言い聞かせるように。


「はい。今度は侵入する前に止められるよう、備えます」


 マキの答えは確かだった。だが、その確かさがかえって空疎に感じられる。



 ──正直、不安で仕方なかった。話を聞けば聞くほど、絶望が深まるだけだ。


 ルイの異能が、あの怪物たちに通用するのか? 星溶粒子で、意思を持つ血を止められるというのか? 無数の亡霊を、視界から消し去れるというのか? 何より──圧倒的な暴力を排除すべく自分も力を使ったとして、最後まで理性を保っていられるという保証はどこにもない。

 父のように、母のように。また──ミレディーナやファロンの最期のように。星溶粒子が人間の枠を外れ溢れ出し、暴走の末に消滅する未来の影が、ルイの視界にもちらついていた。


 書庫の窓の外、皓絳の街の灯りが微かに揺れている。一つ一つの明かりの下には、暖かい食事があり、寝息を立てる子供がおり、明日への希望を繋いでいる人々がいる。彼らは今、何も知らずに安らかに眠っているのか。それとも、壁の向こうに蠢く悪夢の気配に、無意識に震えながら寝床に潜っているのか。

 ──本当に恐れているのは、彼らだ。家という居場所、家族という絆、未来という約束──全てを一瞬で奪い去られる恐怖を、彼らはこの七年、生きながらにして背負ってきた。その重さは、ルイの想像を遥かに超えている。


「分かった。できる限り……いや、違うな」


 ルイは言葉を切り、深く、震える息を吸い込んだ。胸が締め付けられるように苦しい。この圧倒的な現実を前にして、軽々しく「助ける」など、口が裂けても言えるものではない。七年前、五千万という数が意味する死の山と、無数の魔法士が散っていった無念の上に、かろうじて保たれてきた脆い均衡。それが今、再び音を立てて崩れ始めている。


 勝てるのか?

 あの時よりも、より残忍に、より狡猾に、より貪欲に強大化したであろう敵に。

 リタの、血に塗れた笑みが瞼の裏に焼き付く。ヴァルケイアの館で見た、エゼキエルの静かな笑みが脳裏に蘇る。


(勝てるわけがない……)


 その思いが、胃の底で冷たく固まる。しかし──



「……絶対、助ける」



 言葉が、理性を飛び越え、絶望に吠えるように迸った。それは決意ですらなく、むしろ絶望そのものへの叛逆だった。勝てないかもしれない。無意味かもしれない。それでも、この窓の外の、儚い灯りの一つでも、自分たちの手で消させたくはない。

 マキは深紅の瞳を細め、穏やかに──しかし、その奥に深い哀惜を湛えて目元を緩めた。それは、無謀な誓いを捧げる者を看取る、静かな憐憫の表情だった。


「……そのお言葉、ありがたく受け取ります」


 彼の声は、静かに書庫に溶けていく。

 戦いは、もう始まっている。そして彼らが向き合うのは、過去の亡霊ではない。より鮮やかに狂い、より深く蝕む、現在進行形の悪夢だ。


 ルイは拳を握りしめた。指の爪が掌に食い込む痛みで、ふらつく覚悟を踏みしめる。

 勝つしかない。押し付けられる新たな規律を跳ね除ける。それが、この世界が生きる唯一の方法だ。



「……そうとなれば、俺の異能も見せておかないといけないな」


 ルイの声が、重い書庫の空気を鈍く切り裂いた。彼はゆっくりと立ち上がり、窓から漏れる微光が、その決意に硬くなった横顔の輪郭を浮かび上がらせた。マキは深紅の瞳をゆっくりとルイに向け、長い白髪が静かな動きで肩に流れた。


「いいのですか? 異能者にとって、異能を明かすことは一つしかない武器を晒すということです。もう少し、慎重に扱うべきことではないのでしょうか?」


 その声には、真摯な疑問が込められていた。魔法士の社会では、術式も戦力も共有財産だ。しかし異能は個人に固有の、ときに本人さえ制御不能な刃物である。


「隠したってしょうがない」ルイの言葉には、迷いがなかった。「多くの人を救うために、この能力をどこでどう生かすのが最善なのか、ちゃんと考えてもらわないといけないだろ? 誤解や不安を残したまま戦場に立つのは、こっちも嫌だ」


 彼は一呼吸置き、言葉を選ぶように続けた。目の前に広がる街の灯りを見つめながら。


「俺の異能は、異能を……いや、星溶粒子を操作するものだ。動かしたり、増幅させたり、暴走させたり。代償は伴うが、多分、思えばなんでもできる」


 シアも隣でこくんとうなずき、それに続いた。「私は! 魔力を使って、イメージしたことをその通りに実現する異能! 琴葉ちゃんに教えてもらったから……魔法もわかるよ!」

 響哉はやれやれと、興味なさげに言い捨てた。「俺のことは知ってんだろ。散々、お前らとも戦ってんだから」


 マキの深紅の瞳は、三人の言葉を一つ一つ咀嚼するように、微かに動いた。そして、ほんの少し、困惑に歪んだ。


「申し訳ないのですが、言葉で言われてもあまりよくわからなくて……」


 それは誠実な困惑だった。その正直な反応に、ルイはかすかに笑った。


「なら、直接見せればいいよな」

「見せていただけるのですか」


 マキの表情がわずかに、しかし確かに変化した。瞳の奥に、知性的な好奇心の灯りがともる。それは、未知の現象を前にした研究者の、純粋な興奮にも見えた。だが、その表情はすぐに曇り、彼は思考に沈むように細い指を顎に当てた。指先が透き通るような白い皮膚に沈み込む。


「今回の作戦をまとめておられるのは程宰衡です。あの方にも見ていただきたい……」

「アイツか」響哉が厭味ったらしく口を挟んだ。「今、立派に怪我して、どっかに運ばれていったぞ。行き先は知らねえ」

「……お怪我を。だから、貴方がたのことも、李将衡が案内してくださったのですね」


 ルイが一歩前に出る。


「連れていってくれないか? シュエンのところに」

「かしこまりました。取り次いでおきます、ですが……」


 マキは窓の外、街の中心部に聳える最も高い楼閣を一瞥した。その窓には、まだいくつか灯りが点いている。

 彼がゆっくりと振り返った時、その顔には、ルイが予想していなかったような表情が浮かんでいた。眉間に深く刻まれた皺、"苦い"顔付きだ。


「天衡院の、定常的な業務時間は終了しています」


 彼はわずかに間を置き、言葉を慎重に選ぶように続けた。



「少々"騒がしい"可能性もありますが……大丈夫でしょうか?」



 その言い方には、確かに警告が含まれている。しかし、そこには危険というより、むしろ「面倒くさいこと」「気が進まないこと」への、一種の厭戦感がにじんでいた。夜の天衡院では、昼間の厳格な秩序とは別の、煩わしい何かが動き出すのだろうか。

 ルイはシアと一瞬視線を交わし、彼女の微かなうなずきを受け取ってから、マキに向き直った。


「構わない。早く動いた方がいい」


 マキはゆっくりと立ち上がり、机の上の古い巻物をそっと巻き直した。革紐がきつく結ばれる音が、静かな決意を告げるようだった。彼の動作は、初めて会った時よりも、わずかだが確実に力強さを増している。異能という未知の力への探究心が、彼の内側の何かをかき立て、覚醒させ始めているようだった。


「では、ご案内いたします。どうぞ、着いてきてください」


 彼の白い長衣が闇の中で微かに光り、書庫の入口へと歩み始めた。

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