第六十二話 都はまだ亡者の囁きを聴いている - 2
「『戦争で、何をすればいいか』でしたね。それなら、この国のことや、過去をお話しておきましょう。ちょうど、書庫ですから話しやすいです」
マキの深紅の瞳の奥に、一点の知性的な輝きが灯った。それは、静かな湖面に月が映るような、冷たく澄んだ光だった。
彼が微かに指を動かすと──周囲の古びた書架が応答した。
事務所に積まれた何百、何千冊もの本の隙間から、透明なガラス板が、まるで水から浮かび上がるように滑り出してきた。それらは薄氷のように薄く、縁には微かな虹色の輝きが走っている。同時に、革紐で縛られた古い巻物たちが、自分で紐を解くかのように緩み、ひらりと空中に舞い上がった。巻物は古びた羊皮紙の匂いを残しつつ、ガラス板の傍らにひっそりと着地する。
すると、ガラス板の下から柔らかな魔力の光が漏れ始めた。それは最初は淡い蒼で、次第に金色、薄紅色へと移り変わり、空中で屈折し、交差し、複雑な立体映像を紡ぎだしていく。光の粒子が微かに振動し、まるで無数の小さな星々が集まって一つの世界を形作っているようだった。これもまた、ポーランが見せたように魔法ではなく魔力粒子を集め、望んだ映像を編みだしているものだった。
「こちらがまず皓絳全体の地図です」
世界の地図自体は、外を歩くために珠桜や琴葉から叩き込まれていた。大陸の形はおおよそ把握している。
地図上で色づいている範囲は、珠桜たちが「近づくな」と警告していた危険地帯とほぼ一致していた。最大の大陸の海岸部から中部の台地まで、広大な領域が淡い金色で塗り分けられている。
「この都は──大体、この辺りにあります」
マキの細く白い指先が、地図上の一点を撫でる。触れた場所から、金色の光の輪が波紋のように広がり、微かに地形が隆起して立体的に浮かび上がった。山々に囲まれた盆地、その中央にそびえる楼閣群、そして放射状に広がる街区が、妖精の細工のように精緻に再現される。
「ここは峻険な山岳地帯、こちらは魔力が枯渇した砂漠……用はないでしょう。そして、この都に国内人口のほとんどが集中しており、一億を超える人々が暮らしています」
その指が、今度は都から離れた、広大な空白地帯へと滑る。その動きに合わせて、地図がゆっくりとズームアウトし、青い光が浮かび上がった。その色の光に、ふと青と白の輝きを持った星溶粒子を放つ、ベリースヴェートのことを思い出した。
「異能者たちが拠点とする廃墟都市は、大体この辺りです。彼らがここから侵攻してくる可能性が高いため……ここに、迎撃地点を建設しています」
マキが息を吹きかけるように細く呟くと、地図上に幾筋もの光の線が浮かび上がった。それは幾重にも重なる防衛線で、まるで金色の蜘蛛の巣が紫色の領域に向かって張り巡らされているようだった。要所には、塔や砦を象徴する小さな光の彫刻が点在している。
「遠距離殲滅部隊はここで構え、一斉照射をする手筈となっていると聞きました」
マキの指が、防衛線の奥にある三つの光点をなぞる。それぞれが複雑な魔法陣の紋様を放っている。
「撃ち漏らした者がいた場合でも、ここで対処します。李将衡はこちらの前線に加わるとお聞きしています」
彼の指が、最も外縁の防衛線の一点をそっと押す。その場所が微かに脈動し、戦闘配置を示す細かな記号が次々と展開していく。
マキは深紅の瞳を上げ、三人をゆっくりと見渡した。
「とにかく、皓絳の都に敵を一兵たりとも入れないことが、最重要なのです」
空中の立体映像が微かに回転し、防衛線の様子が拡大される。
そこに映し出されたのは、無数の守護者たちだった。近接戦闘に備えポーランと似た機能的な意匠の装束を纏った魔法士、見慣れた重い外套を纏った術師、そして──琴葉と同じ、瞳に微かな魔力の輝きを宿したネガイ。
彼らは皆、災厄が迫り来ているであろう方角を見据え、動かずに立ち尽くしていた。風が彼らの衣を揺らすこともなく、ただ時間だけが、戦いの訪れを刻んでいる。
「──……守るべきものは、あまりに多い」
マキの呟きが、光る地図の上にそっと落ちた。それはため息のように軽く、しかしその言葉の裏には、一億という生の重みが詰まっていた。
地図の映像がゆらめき、静かに消えていく。光の粒子が散り、闇に還る。マキはそっと手を振ると、残ったガラス板たちは幽霊のように空中へ消え、彼の視線は机の上に残った古い巻物へと落ちた。
「次に、敵について。私たちが、何と戦うのかお話ししましょう」
マキの指が、革紐の結び目に触れる。それはゆっくりと解け、巻物が自重で広がっていく。羊皮紙が軋む音、そして時間を経て深みを増したインクと膠の匂いが、書庫の空気に混ざる。
「彼らは七年前にも、皓絳を訪れ、この都を血の海に沈めました。二人の異能者です」
巻物が完全に開かれる。
そこに描かれたのは、まず一人の少女の姿だった。
瞳は、凝固した血塊のような深い朱色。その視線は、絵の中からまっすぐに見る者を射抜こうとしているかのようだ。掌から滴り落ちる"赤"が、羊皮紙の上にいまにも滲み出してきそうな生々しさで描かれている。
そして、その顔には──残酷なまでの歓喜に歪んだ、ニコニコとした笑みが刻まれていた。それは慈愛でも狂気でもなく、純粋な"楽しみ"としての破壊を露わにしている。
しかし、細部に目を移すと、その姿は惨憺たるものだった。
癖の強い金色の髪は、油と塵で固まり、無造作に絡み合っている。頬には煤や泥の跡がくっきりと付き、服は所々が裂け、ほつれ、染色が褪せてボロ布のようだ。これが激しい戦闘の結果なのか、それとも元々のあり様なのか──おそらく、後者なのだろうと、ルイは思った。
そして、もう一人。巻物の片隅に、小さく描かれた少年。
全身を覆う黒い霧。その靄の中に、二つの赤い月のような瞳が浮かんでいる。彼はうずくまり、顔を腕に埋めている。肩は震え、背中は丸まり、まるで世界の重みに押し潰されそうな、情けなく惨めな姿だ。攻撃者というより、むしろ何かから逃げ惑う被害者のようだった。
少女がリタ。少年がエゼキエル。
エゼキエルの少年期の絵は、ルイとシアの知っている彼の面影を、確かに、しかし痛ましく歪めて映し出していた。あの優しげな青年が、かつてこのような姿でこの地を踏みにじったのか──。
巻物からは、描き手の感情が生々しく伝わってくる。線の震えは恐怖を、濃すぎるインクの滲みは憎悪を、そして少女の笑みを描くための不自然に滑らかな筆致には、戦慄すら感じられた。七年という歳月が経っても、この絵が発する慟哭は色あせていなかった。
マキの指が、巻物の上をゆっくりと撫でる。触れた部分から、絵が微かに光り、動き始める。魔法によって絵が、静かなアニメーションとして甦る。
「少女の異能が『血液を媒介に人を操る異能』であることは判明しています」
「血液を……?」
ルイの問いに、マキは微かにうなずく。
「はい」
彼の指先が、絵の中の少女の手から滴る「赤」に触れる。その一滴が、巻物の上を這い、生きた蛇のように動き出す。
「彼女の血液は、特殊です」
光る血滴が、羊皮紙の上をゆっくりと進む。少女の絵の周囲に、無数の小さな人影が浮かび上がる。生存者たちだ。
「自らを傷つけ、体内からあふれ出た血液は──彼女の場合、意思を持っているかのように蠢き、生存者を探します」
巻物の上で、少女の絵が動き出す。彼女は鋭いナイフを指揮棒のように握り、ためらいなく自分の腕を抉る。傷口から溢れ出た血は、地面に落ちず、空中で球状に浮かび上がった。それは暗赤色の宝石のように輝き、微かに脈打っている。
血滴が、一人の人影──街を歩く普通の市民の絵──に近づく。人影は何も気づかず、平然と歩き続けている。血滴がその足首に触れた瞬間、それは水が砂に吸い込まれるように、すっと皮膚の中へ消えていった。人影はわずかに足を止め、首を傾げる程度だ。痛みも、違和感も、ほとんど感じていないようだった。
「生存者を見つけたら、その血液は皮膚を食い破るなどして、体内に侵入します──これで、彼女の異能発動の準備が整います。
これを"寄生"と呼びましょう」
人影の体内が、微かに赤く光り始める。血管のような光の脈絡が、足首から腿へ、胴体へ、そして首へと静かに這い上がっていく。全身の血管網が、内側から淡く発光する有様は、不気味なまでに美しい。それでも、その人物はまだ気づかない。ただ、ほんの少し、頬が紅潮しているように見えるだけだ。
「寄生されると、彼女の異能の粒子は全身に回ります。彼女はそれを利用して、洗脳や操作を行い、人々を狂気を引き起こしたり、自死へ追い込みました」
巻物の上で、寄生された人影が、ゆっくりと変貌していく。
最初は、陶酔したような笑みだ。何の理由もなく、天を仰ぎ、幸せに息を漏らす。周囲にいる他の人影たちに、熱心に何かを語りかけ始める──福音を説く伝道者のように。
その笑みが次第に過熱し、歪んでいく。口元が不自然に引きつり、目を見開き、歯を剥き出して笑う。その表情は、リタの肖像に描かれていた、あの残酷な歓喜に似てきた。この段階で、周囲の人影たちがようやく異変に気づき、困惑と疑念の目を向け始める。
そして、突然の狂乱。人影は周囲のものを掴み、壊し、近づいてくる者を引きずり込む。最後には、高い階から飛び降り、体が地面に叩きつけられる。血が噴き出し、周囲に飛び散る。
「……これだけでは終わらず」
マキの指が、その潰れた人影をそっと押す。飛び散った血滴が、今度は無数の人影たちへと飛翔していく。一つひとつの血滴が、自ら進路を選び、新たな宿主を求めるように。
「寄生された人間が出血した場合、その血液はまた別の生存者を探し、徘徊します」
巻物の上で、赤い波紋が幾何級数的に広がる。一人、十人、百人──羊皮紙が、文字通り血の海に染まっていく。赤が広がるたびに、無数の人影が狂乱し、崩れ、また血を飛び散らせる。終わりのない連鎖。
マキは深紅の瞳を上げ、三人を見つめる。その目には、この光景を何度も繰り返し見てきた者の、疲れた諦めに近い静けさがあった。
「一度寄生されてしまえば、終わりといってもいいでしょう」




