第六十二話 都はまだ亡者の囁きを聴いている - 1
──結局、書庫の最奥に至るまでの間に、目当ての人物は見つからなかった。
空間が突然開け、天井が高くなる。ここは閲覧室か、小さな研究スペースなのだろう。いくつかの重厚な木製の机と椅子が配置され、その上には無造作に積まれた書物の山と、消えかけた蝋燭の跡があった。部屋のさらに奥には、低いカウンターが設えられ、その向こう側は事務所のように仕切られている。デスクの上は書類と巻物で埋め尽くされ、まるで知識の海に沈んだ船室のようだ。
そして、その最も奥──窓際の机だけが、孤島のように静かな灯りに浮かび上がっていた。
「彼だ」
ポーランが低く告げると、カウンター脇の小さな扉を押し開け、躊躇いなく奥の空間へ足を踏み入れた。ルイたちは一瞬遅れてそれに続く。
窓際。
そこに坐する人物は、背筋を伸ばし、古風な筆を静かに握っていた。机の上には墨と硯、そして無数の文字が記された紙が広がっている。その姿そのものが、この書庫の時の中から切り取られた一ページのように見えた。
そして、その顔を上げた時──ルイとシアは思わず息を詰めた。
深紅の瞳。それはまるで、闇の中でゆらめく焔のようだった。
一筋に束ねられた長い白髪は、窓から漏れる微光をすべて内側に吸い込み、自らが発光しているかのように妖しく輝いている。その髪は腰のあたりまで届き、椅子の上で静かに波打っていた。年齢はわからない。若い繊細さと、古い樹木のような深い静寂が、不思議に混ざり合っている。
ポーランがその人物の元へと進み、巨躯をゆっくりと屈めた。両手を組み、恭しく頭を下げる。
「"胡典司"。 再び邪魔いたす」
声は重々しさを保ちながらも、その底に深い敬虔さが滲んでいる。
「其方にお任せしたい、東方からの賓客をお連れした」
微かな空気の揺らぎ。白髪が、窓からの微光を受けて銀糸のように揺れる。
机の前の人物は、ゆっくりと筆を置き、手元からゆっくりと目を離す。深紅の瞳が、ポーランを通り越し、その背後に立つ四人を、ゆっくりと、確かめるように捉えた。
彼はゆったりとした動作で立ち上がる。その動きは、あまりに緩慢だ。年を重ねた者が、重力と対話しながら体を持ち上げるような、確実に時間を要する動き。背骨が一つ一つ、順を追って伸びていくのが見えるようだった。
コツ、コツ。
靴底が古い木板に触れる音が、書庫の静寂に吸い込まれていく。
──そして、ルイは気付いた。
この国に足を踏み入れて以来、ルイは薄く視野に星溶粒子を浮かべ続けていた。先の戦闘で明らかになった──魔法士の中には、ただの人間もいれば、琴葉と同じネガイ──死者が魔法の力で動く存在──も混じっている。その見分けをつけるために。
琴葉と出会った時、彼女を人間と完全に思い込んでしまったのは、その体の仕組みが人間のものではないと知らなかったからだ。人間とネガイでは、魔力の保有量が圧倒的に異なる。人間は体内を流れる細い川。対してネガイは、体全体が器となり、魔力が甕のように満たされている。もう、完全に見分けはつく。
白い髪が揺れる。僅かに伏せられた琴葉と同色の深紅の瞳が──ガラス玉のように、内側から光を失っていた。
人間離れした透き通った美しさ。肌の下から微かに蛍光を放っているかのような、不自然な輝き。
(完全に"そう"ではない。人間ではあるんだろうけど……)
ルイはごくりと生唾を飲み込んだ。喉が渇く。
「李将衡。ここからは私が引き継ぎます」
透き通った声。冷たい泉の水が、静かに石を伝うような音色だった。
「ああ。では、我はこれで失礼する」
ポーランは深く一礼し、琴葉へ向き直る。
「黒華琴葉殿。其方はこちらへ」
「……ええ」
琴葉は一瞬、ルイたちを見つめる。その目には、複雑な想いが去来しているように見えた。
ポーランは扉へ歩み寄り、振り返らずに言い残す。
「また明日、会おう」
重い扉が静かに閉まる。ポーランと琴葉の気配が遠ざかる。
書庫の奥に残されたのは、ルイ、シア、響哉──そして、窓際に佇む白髪の男だけだった。
深紅の瞳が、ゆっくりと三人を見渡す。その視線は、好奇にも、敵意にも感じられない。ただ、深い水底から物を見るような、透明な観察の眼差しだった。
彼は手を胸の前でそっと組み、ゆっくりと頭を下げた。白髪が肩を伝い、光の筋のように揺れる。
「お初にお目にかかります。この度、李将衡ならびに程宰衡から勅令を授かり、賓客の皆様の補助をすることになりました。私のことはマキとお呼びくださいませ」
その声は、確かに人間の声だった。だが、その奥に宿るものは──溜まりきった疲労と、どこか剥き出しの子供のような純粋さが入り混じった、不思議な響きを帯びていた。髪は一本一本が微かに発光し、書庫の薄暗がりでまるで静かな炎のように揺らめいている。
「立ち話は疲れるでしょう。どうぞ、こちらへ」
マキは古びた木製の長椅子を指し示した。その仕草は、どこかぎこちなく、まるで長い間人と接していなかった者が、忘れかけた礼儀を掘り起こしているようだった。
ルイたちは互いに視線を交わし、警戒しながら腰を下ろす。響哉だけは最後まで立ったまま、腕を組み、背後の書架を鋭く睨み続けていた。その視線は、常に退路を用意しておくべく探す、野生の獣のようだ。
「まずは……お茶でもいかがでしょう」
マキがそう呟くと、書庫の隅に置かれていた古い陶器の茶器が、まるで意志を持ったかのように動き出した。既に水が入れられていた茶壷から突然湯気が立ち上り、しばらくして茶壷はひとりでに浮かび上がり、澄んだ緑茶が茶海に移される。誰も触れていないのに。
シアが目を見開き、驚いて聞いた。
「……魔法?」
「はい。ですがこれは式です」マキは穏やかに答えた。「この書庫の至るところに刻まれている、魔法技術師の方々が編み出した式。私のような未熟者には、救いのような品です」
「未熟者……?」
ルイが小首を傾げながら、ぽつりとつぶやいた。
彼はちらりと、視界に星溶粒子を薄く浮かべ、もう一度マキを見た。
溢れんばかりの魔力が、甕のように彼の体を満たし、静かに渦を巻いている。琴葉やその同族たちのような、死者を動かすネガイほどの量ではない。しかし、人間の魔法士たちと比較すれば、それは圧倒的だった。人間ではないと言われても納得するほどの、濃密で深い魔力の海。
これだけの魔力を抱えていれば、どんな魔法でも可能なのではないか──そんな畏怖さえ覚える。同時に、どこか危うい期待も湧いてくる。いや、文官は戦闘をしないのだろうか。それとも、この魔力は別の何かのためにあるのか。
マキは、ルイの視線に気づいたように、ゆっくりと深紅の瞳を向けた。その目には、何も問わない静けさがあった。ただ、見られていることを受け入れているだけだ。
「それで、俺たちはお前らの戦争で何をすればいい」
響哉が不機嫌そうに切り込んだ。
マキは飲杯を手に取り、ゆっくりと口元に運ぶ。その動作は優雅で、何の躊躇もない。淹れたての湯気が立ち上るお茶を、彼はまるで水を飲むかのように傾けた。
──熱くないのか?
ルイとシアが一瞬、視線を交わす。胸がざわりと騒いだ。湯気の量からして、明らかに高温だ。だが、マキの喉仏が滑らかに上下するのが見えた。彼は一気に飲み干し、湯呑を静かに机に戻した。顔色一つ変わらない。
(さすが魔法の国……器か中身を冷ます式でも刻んであるのかな)
感心しながら、ルイもシアも続いて湯呑に手を伸ばした。
──が、指が触れた瞬間、熱さに思わず手を引く。
「っ!」
二人が同時に声を押し殺した。
(──え?)
無言で目配せする。器は素焼きの陶器で、触れただけで熱がじんじんと伝わってくる。中身はもっと熱いに違いない。中身は調整されているのかも。いや、もしかすると中身だけは冷めているのか? ルイはコートの袖を伸ばして器を包み、シアもアームカバーで器を包み、慎重に口元へ運んだ。
湯気が立ち上る。鼻先に、苦い茶葉の香りと、明らかに危険な熱さが迫る。
──いや、どう考えても熱い。熱い。これは間違いなく、火傷する温度だ。
おそるおそる、同じことを考えているであろうシアよりも先に、とルイは覚悟を決めてちびっと舌を付けた。
「あっつっ……!!」
小声で悶絶が漏れる。舌先が一瞬で痺れ、熱さが脳裏を貫いた。
「ルイ君、なにやってんの?」響哉が上から呆れたような、あるいは面白がったような声で言う。
「いや、マキが平然と飲んでたから、イケるのかと……」悔しそうな表情で、響哉の顔をルイは見上げる。
「……なるほど。これは熱いのか」
ふと、マキが呟いた。彼は深紅の瞳を自分の空になった飲杯へと移し、ぼんやりと見つめている。
ルイ、シア、響哉の視線が、一挙にマキに集中する。三人の顔には同じ疑問が浮かんでいた──冗談か?
「確かに、失念していた」マキがぼそりと呟く。「湯を沸かせば熱い。この温度は、生体組織を損傷させるのに十分……ということは、今、俺は火傷を負った可能性が高い」
ぶつぶつと独り言のように。その声には、痛みや焦りは微塵もない。ただ、純粋な疑問が、どこか遠くから聞こえてくるように響く。
彼は湯呑をそっと机に置き、自分の手のひらを見つめる。その仕草は、自分が他人の体を観察しているような、奇妙な距離感があった。
「あの……大丈夫か?」
ルイが声をかけると、マキはゆっくりと顔を上げた。白髪が微かに揺れる。
「……申し訳ありません。つい、考察に耽ってしまいました」
「いや、いいんだけど……舌、大丈夫か?」
「おそらくは」
彼は少し間を置き、透き通った声で続けた。
「神経が麻痺してしまったのです。最近は、体を動かすことすら難しく……あまり、気にしないでください」
その言葉に、書庫の空気が一層冷たく重く感じられた。彼は火傷したことを認識しながらも、痛みを感じていない。ただ"事実"として受け入れている。そこには、生身の人間が持つべき生への執着や、自己防衛の本能が、ほとんど見当たらなかった。
窓から差し込む微光が、マキの白髪をさらに幽かに輝かせる。その横顔は、美しいが、どこか壊れやすく──まるで、長い間この書庫の闇に置かれ、色あせた古い肖像画のようだった。




