第六十話 白亜の檻は異邦の客を迎う - 4
「やめて! 琴葉ちゃんにこれ以上酷いことをしないで!」
シアが、ついに我慢の限界を超えて叫んだ。彼女の我慢の糸は、ポーランの冷酷な解説と響哉の行き過ぎた確認、そして何よりも琴葉が無言で受け入れるその姿勢によって、完全に切れていた。
両手で響哉の腕を必死に掴み、その指を琴葉の首から引き剥がそうとする。そして、よろめき、今にも崩れ落ちそうな琴葉の体に駆け寄り、その細い身体を、まるで壊れ物を守るかのように自分の中へと引き寄せ、抱きしめた。
シアの腕の中で、琴葉の体が微かに震えている。
「琴葉ちゃん、大丈夫? 苦しかったよね……」
琴葉が、「苦しかった」という言葉に反応し、腕の中で微かに動く──拒絶するように。シアから離れようと、僅かに肩を押した。
「シア……私は大丈夫。だから……」
「──大丈夫なわけない!」
シアの声が跳ね上がった。そのアメジスト色の瞳に、初めて本物の怒りの炎が燃え上がる。これまでの心配や哀れみとはまったく次元の違う、煮えたぎるような激情だ。琴葉自身の内側に巣食う自己破壊の衝動だった。あらゆる悪意や理不尽に膝まずき、その痛みを"当然のこと"として内面化し、自分という存在を貶め続けるその姿が、シアには耐えられなかった。
その様子に、琴葉だけでなく、ルイと響哉も驚いて動きを止めた。心優しく、いつも柔らかく、花のように笑っていた彼女がこれほどまでに怒りをあらわにする様子を、誰も見たことがなかった。
シアは強く、血がでるのではと思うほどに唇を噛んで、琴葉の頭を包むようにしっかりと抱いた。
「……琴葉ちゃん自身も、自分で自分のことを傷つけすぎだよ」
その瞬間、琴葉の思考を、強烈で甘美な睡魔が襲った。シアの「願い」──『琴葉を苦しめる全てのものを消し去りたい。琴葉をもっと、幸せにしたい』 という、愛とエゴが不可分に混ざり合った願望が、異能として暴走し、琴葉の中枢核へと直接干渉した。
抵抗しようと顔を上げた琴葉の目に映ったのは、シアのいつもと違う瞳だった。大きなアメジストの瞳は、傲慢で残酷な光に満ち、どこか陶酔したように輝いている。
それを見た瞬間、琴葉の心の中で何かが、かすかな音を立てて凍りついた。
──これは保護ではない。どこかが根本的に違う。
この抱擁さえも、単なる慰めではなかった。それは、無意識のうちに滲み出た「私が守る」という、善意に満ちた、しかし確かな所有の宣言に感じられた。
「……琴葉ちゃんが、琴葉ちゃんのことを大切にできないなら」
シアの声は、囁くように、しかしその中に鋼の意志を潜ませていた。
「私が、代わりに大切にするよ。たとえ琴葉ちゃんが望まなくても」
──これがポーランや響哉など魔法士による干渉であれば、すぐにでも自分をコントロールしなおして主導権を取り戻すことができた。しかし、異能者であるシアの力は、彼女が自ら手放さない限り、琴葉の核に優しく、しかし確実に絡みついて離れない。琴葉は、思考を覆う甘く重い霧のような感覚に抗おうとしたが、結局、無力だった。
ついに、琴葉は諦めたように全身の力を抜いた。その従順な反応を見て、シアはほっとしたように微笑み、そっと異能の力を解いた。
鮮明な思考が戻ってくるのと同時に、琴葉の胸を埋め尽くしたのは、複雑に絡み合う感情の渦だった。強い屈辱感。圧倒的な無力感。そして──言いようのない怒り。
自分は、またしても「誰かを救えるような強者」ではないのだと、現実を突きつけられたようだった。シアのことも、どこで彼女をこのように曲げてしまったのだろう。また、自分は道を間違えてしまったのか。琴葉の思考は暗く、濁り、答えのない沼へ堕ちた。
「……その者を傷つける意図はなかった。ここに謝罪する」
ポーランの声は、相変わらず平坦で、情感に乏しかった。しかし、少なくとも謝罪の形式は取った。
シアがキッとポーランを睨みつけたが、すぐにへにゃりとその眉は垂れ下がった。敵対してもしょうがないと、理性的な判断があった。
「今宵は、彼女に魔法式の創造を急がせねばならん。他の客人たちには、この国の空気に慣れ、自由に過ごしていただきたい。戦いの前の、わずかな安息とせよ」
彼は、大通りの奥、白亜の塔が聳える方角を指差した。
「では、案内役を紹介しよう。彼はいまだ勤務中ゆえ、一旦その者のもとへ移動する。異論はあるか?」
断る理由はなかった。むしろ、この重苦しい空気から少し離れたかった。
ルイと響哉が先に歩き出した。響哉は一瞬、琴葉の方へ視線を投げかけたが、すぐに前に向き直る。
シアは、まだ少し震えている琴葉の手を、今度は優しく、しかししっかりと握り、「大丈夫」と囁くようにして、彼女を導くように歩き始めた。
背後では、整然と並んだ無数の魔法士たちが、異邦の客人たちの背中を、何の感情も込めずに見送っている。
この完璧で冷徹な秩序の都市が、血と亡霊の奔流に飲み込まれる運命に向かって、時は確実に流れていた。
残された時間は、最早、四十八時間すら満たない。




