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第六十話 白亜の檻は異邦の客を迎う - 3

 ポーランは片手を、何もない空間へと静かに差し出した。その掌のわずか数センチ上で、空気が微かに歪み、無数の微細な光の粒子が集い始める。


 その次の瞬間、精緻無比な立体地図が、彼の眼前に鮮明に浮かび上がった。


 ──それは、単なる投影を超えた、触れそうなほどの実在感を伴っていた。

 地図上には、白亜の城塞国家・皓絳(ハオジャン)が誇示され、その西側に広がる広大な廃墟の荒野から、不気味な赤黒い奔流のような軌跡が、ゆっくりと、しかし確実に、脈打つように国境へと迫り来ていた。


 魔法とまではいかない。これは、環境に満ちた魔力の微粒子を極めて精密に操り、密集・発光させることで光の線を再現しているに過ぎない。ルイ自身が異能で行う粒子の操作と、原理的には同質の技だ。だが、ポーランはそれを息をするように、何の前触れも詠唱もなくやってのけた。

 彼は明らかに異能者ではない。異能者は魔法を使えないのがこの世界の理であるはずだから、それは自明だ。魔法士である以上、魔力操作そのものは基礎中の基礎なのだろう。つまり、粒子の単純な移動や凝集程度なら、異能など必要ない──この事実に、ルイはわずかながら歯痒さを覚えた。


「"院主様"はすでに状況を把握しておられる」

 ポーランの低音が、地図の脈打つ赤い奔流を指し示しながら響く。

「西の廃墟都市、その一領域が丸ごと、我が国へと移動を開始している。それを率いるのは、七年前この国に惨禍をもたらした二人の異能者。推定される到達は──」


 彼の言葉が一瞬、鋭く間を置く。



「明後日だ」


「あ、明後日!?」



 ルイの声が思わず裏返った。

 ──今日は残り数時間で終わる。明日一日を挟んで、もう数十億の亡霊の大軍が、この完璧な城壁の前に押し寄せるというのか?


「然り。故に、我々に与えられた時間は限られている」


 ポーランの声は、その緊迫した内容とは裏腹に、氷のように冷静だった。



「そこまでの間に、作戦を伝達し、互いの背中を預け得るだけの信頼を築き上げる。そして──残虐の血の女王と亡霊の王を、この地で討ち果たす」



 その宣言は、一切の疑念や迷いを排した、確固たる覚悟の結晶だった。迫り来る運命が動かしがたいように、彼の決意もまた、揺るぎない岩盤のごとくそこにあった。

 時間のなさに、胃が冷たく締め付けられる。だが、驚いている暇など、もはやない。ルイは顎に力を込め、瞳を鋭く光らせた。覚悟を、もう一度胸の中で固め直す。戦いは、もう始まっているのだ。



「──何を手伝えばいい?」


 琴葉が、慎重に、しかし確実に問いかけた。彼女の深紅の瞳は、すでに任務遂行モードに切り替わっている。最近の揺らいだ様子は見受けられない。


「防衛用の魔法式の拡充と、再構築だ」ポーランの答えは即座だった。

「其方がここにいるのであれば、妥協を余儀なくされていた部分の魔法式も、全て総入れ替えすることが可能であろう。今晩中に全種類の魔法式を新規創造し、骸兵に複製させ、全国への配備を完了させる」


 淡々と告げられた言葉を、琴葉はすんなりと受け止め、問いを続ける。


「新しい魔法式……一体いくつ作るの?」

「記憶しているのは三百五十程度だ。もう少し増える」


 ポーランはきっぱりと言い切った。その数字に──響哉が愕然とした。


「三百……五十……?」


 響哉は魔法の門外漢ではない。正しく、本来異能を持たない無能力者として、魔法を学び、習得した人間だ。だからこそ、ポーランが琴葉に頼んでいることの意味を理解している。


「響哉? そんな驚くようなことなのか?」ルイが不審そうに尋ねる。

「……まあな」 響哉の声には、信じがたいという感情がにじむ。「あと十時間もしないうちに、三百五十種類以上の魔法を考え出し、設計し、式として刻めって言ってるんだぞ?」



 彼はポーランと琴葉を交互に見ながら、ルイとシアに説明した。


「人間なら、魔法を三個も使いこなせりゃ上等だ。それくらい魔法を作るってのは難しい。元素の構成から、魔力の流路、発動条件まで、全てを頭の中で構築していくなんて、普通の人間の記憶力や思考力の限界を超えてる」


 響哉の視線が、静かに立つ琴葉に釘付けになる。


「その限界を最初から取り払われていて、しかも俺たちより高度な思考機能まで与えられてるアイツだからこそ、新しい魔法を生み出せる。それだけでも、もう化物だ」


 彼は、道の両側に無言で並ぶ骸兵たちを一瞥した。その目には、ある種の憐憫が浮かぶ。


「あの連中は、その思考部分を切り取られてる。だから、与えられた『式』を使うことしかできない。ただの道具だ」


 響哉はもう一度、琴葉を見つめ、深く息を吐いた。


「三百五十個だ。しかも、その要求に応えられるだけの知識を、最初から持ってるって前提。それを全部作り上げ、さらに誰でも使える『式』に落とし込む――魔力を流し込むだけで魔法が起動するなんて、正直、俺には理解の範疇を超えてる。例の、あったまるお守りみたいな単純な魔法でさえ、俺には作り上げられなかったんだ」



 ──全てを完全に理解できた自信はないが、とにかく常識を遥かに超え、想像を絶する無茶な要求であることだけは、ルイにも伝わった。少なくとも、今夜という夜は、眠る間すら与えられないだろう。

 果たして琴葉は、この要求をどう受け止めるのか。四人の視線が、彼女に集中する。


「分かった。すぐに取り掛かる」


 琴葉の返答には、一瞬の躊躇もなかった。人間の限界を超えた稼働こそが、彼女の存在意義である以上、このような絶対的な使命を任されることこそが、彼女にとって最大の栄誉であり、唯一無二の存在証明なのだ。

 ポーランが、ごくわずかだが、確かに満足そうに頷いた。その安堵の空気が、まだ周囲に漂いきらないうちに──


「……待てよ」


 響哉の声が、冷たい硝子の破片のように、優しくも鋭く空間を切り裂いた。それは先ほどまで、ルイとシアに冗談まじりに説明していたときの穏やかさとは、根底から異なる音色を宿していた。

 ルイははっとした。彼の目つきが、いつの間にか変わっている。笑みの名残は唇に貼り付いているが、その奥の瞳は──温度が抜けて、凍り付いていた。


「お前は……」


 響哉は言葉を続けながら、ゆっくりと琴葉に近づいた。動作は流れるように自然で、まるで歩み寄って励ます仲間のようだった。しかし、彼の手が琴葉の黒髪に触れた瞬間、ルイは背筋に冷たいものを感じた。 髪の流れに逆らわず、抵抗なく、まるで長年慣れ親しんだ道具を手入れする職人のように滑り落ちる。

 一瞬、琴葉の睫毛が微かに震えた。

 その手は、頬の曲線をなぞり、あごの鋭いラインを辿り、そして、ゆっくりと、確実に首筋へと降りていった。親指が、彼女の喉元、声帯と情報伝達経路が集中するであろう部位で、わずかに止まる。


 シアが息を呑む音が、水を打ったようにルイの耳に届いた。

 ──『やめろ』。その言葉が出るよりも前に。



「本当に俺たちのこと裏切るつもりじゃねえよな」



 響哉の声は、ささやくように低く、しかし言葉の一つひとつが鉛のように重かった。


 その言葉と同時に、響哉の親指が、琴葉の気管を押し潰すように──彼女には呼吸の必要などないと知りながら、それでもこの死んだ肉体が「苦痛」として認識することを確信した上で──静かに、しかし絶対的な力を込めて沈み込んだ。

 グッ、と。

 微かな、肉と圧迫の音。

 琴葉の目が、一瞬で見開かれた。深紅の瞳が、予期せぬ痛みに歪み、瞳孔が急速に拡散する。眉が苦悶で激しく引き攣り、唇がぱっくりと開いて、しかし声は出ない。喉元を締め上げられ、呼吸経路が圧迫される感覚が、魔法回路を通じて彼女の全意識に苦痛として焼き付く。

 抵抗はしない。

 それが、最も痛かった。彼女はただ、じっとその苦痛に耐え、深紅の瞳で響哉の銀灰色の瞳を必死に見つめ返す。その視線には、哀願も、怒りも、説明もない。あるのは、ただ「見てくれ」という、言葉を超えた切実な訴えだけだ。


「響哉……!」


 ルイの声には、警告と困惑が入り混じる。


「響哉さん、やめてあげて……? 琴葉ちゃんが裏切るなんて……そんなこと、するわけないよ」


 下手に刺激しないように、シアがおそるおそる心配そうな表情で近付いた。だが、響哉は手を離さない。

 彼の表情は、琴葉を見下ろす影に隠れてよく見えない。前髪が目深く垂れ、その下の銀灰色の瞳だけが、冷たい月光のように琴葉の苦悶の表情を照らしている。ルイたちからは、彼の口元の緊張や、顎に食い込む筋肉の動きさえ見えない。

 響哉の考えが全く読めなかった。琴葉と響哉の間の、深く複雑な軋轢は、ルイとシアにはまだ見えない闇の部分だった。


 響哉の指が、ほんの一瞬、さらに深く沈み込む。

 琴葉の体が、微かに、しかし全身を波打つように震えた。琴葉が自らの内に抱える"人間らしさ"という幻想が、いかに脆く、そして彼女を苦しめる劇毒であるかを、今、肉体を通じて痛覚として刻み込まれていた。



「……穏やかではない光景だ」


 静観していたポーランが、岩のように低い声で口を開いた。その言葉に、響哉の手の力がほんのわずか緩み、ルイと響哉の視線が彼へと向けられる。


「この地の地下に眠る我々にとっての絶対者──"黑曜様"に捧げられた骸たちの心臓は、生体器官ではなく、魔法の一切を統括する中枢核に作り替えられている」


 彼の言葉は、琴葉の内面を解剖するかのように淡々と続く。


「感情の模倣、運動指令、魔力制御、記憶の貯蔵──全てはこの核から発せられる。故に、ここを物理的、または魔力的に、修復不能なまでに破壊すれば、直ちに全ての活動は停止する。近付く必要すらない」


 ポーランの周囲で、微かな魔力の粒子が不気味に輝いた。その途端、琴葉が胸のあたりを押さえ、苦悶の表情を強く歪めた。彼女の深紅の瞳が一瞬見開かれ、口がわずかに開いて、声にならない息が漏れる。

 ポーランが、ほんのわずかに核へ干渉する魔力の波動を送ったのだ。それは破壊ではなく、あくまで「こうすればいい」という実演のための、軽い刺激に過ぎない。しかし、琴葉にとってそれは、存在の根幹を弄ばれる、耐えがたい侵襲だった。


 その時、琴葉の視線が、ほんの一瞬だけ、無意識にルイとシアの方へ流れた。

 助けを求めるわけでも、哀れみを請うわけでもない。ただ、彼らだけは守らなければいけないと、体が自然と動いただけ。



 ──だが。


 その一瞥が──シアの中で、我慢の糸を切る最後の圧力となった。



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