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第六十話 白亜の檻は異邦の客を迎う - 2

 言葉は短く、丁寧だ。しかし、その声は地を這う雷鳴のように低く深く、聞く者の鼓膜のみならず、胸腔の奥深くまで震わせる威圧感に満ちていた。思わず、背筋に冷たい戦慄が走る。


「礼を述べている最中、誠に恐縮ではあるが……そちらの者をお預かりしたい。一刻を争う事態と見受けられる」


 男の視線は、琴葉が支える瀕死のシュエンへと向けられる。それは、単なる要請を超えた、穏やかながらも絶対的な要求だった。

 琴葉が、その男を見つめていた。彼女は、いつも無意識に行っている瞬きさえも忘れ、息を止めているようだった。深紅の瞳が、微かに揺らぐ。彼女はこの人物を知っている。否、知りすぎている。

 男がゆっくりと手を伸ばそうとしたその瞬間、琴葉がハッと我に返ったように一歩前に出る。


「不能劳烦李将衡亲手处理。我会直接交给负责搬运的骸兵(李将衡の手を煩わせるわけにはいきません。私が搬送を行う骸兵に直接渡します)」


 琴葉の声は、普段より少し高く、速かった。この地の言語に切り替わり、流暢で、しかしどこか硬い敬語だ。


「……好 (そうか)」


 将衡は、僅かに目を細め、短く頷いた。

 その合図と同時に、整列した隊列の中から一人の男が、まるで空間を歪ませたかのような滑らかな動きで瞬時に眼前に現れた。彼は琴葉と同じく、生気のないガラス玉のような青い瞳を持ち、表情は完全に無機質だ。ルイは直感的に理解した。これは人間ではない。琴葉と同じ"骸"──ネガイなのだ。

 琴葉は、細心の注意を払いながらシュエンの体をその骸兵に引き渡した。珠桜が付けた深手がこれ以上広がらないよう、命の灯火が消えないよう、慎重に。骸兵は無言でシュエンを受け取り、抱きかかえる。


 シュエンを確実に引き渡したのを見届けると、男は短く、しかし明確に指示を出した。


「送去沈天医那里。立刻(沈天医の元へ。至急だ)」

「遵命(仰せのままに)」


 骸兵は深く一礼すると、再びあの滑らかで非人間的な速度で、シュエンを抱えたまま隊列の奥へと吸い込まれるように消えていった。



 周囲に漂う血の臭いが、急速に薄れていく。ルイとシアは、ほんの一瞬、思わず胸を撫で下ろした。これで、あの男も助かるかもしれない。少なくとも、治療を受ける機会は得られた。

 だが、安心は一瞬だ。続いて、整然とした列から今度は二人の女性魔法士が歩み出てきた。一人は、石畳に滲んだ暗赤色の血痕を見つめ、もう一人は、琴葉のドレスに付いた飛沫と汚れに視線を向ける。二人はほぼ同時に掌をかざした。


「客人、您的衣服弄脏了。请让我为您清洁一下(お客様。お召し物が汚れてしまっていますので、清めさせていただきます)」


 機械的で、感情の波一つない平坦な声。後方で見守るルイたちには言語が理解できず、ただ不気味な儀式を目撃するだけだ。

 柔らかな光が琴葉のドレスと地面の血痕を優しく包み込む。次の瞬間、血も塵も汚れも全てが光へと吸い上げられ、粒子となって消散する。琴葉のドレスは新品同然に、地面の石畳も白亜の輝きを取り戻した。完璧なまでの清浄。

 二人の女性は微かに頭を下げると、一言も発することなく、正確に元いた位置へと踵を返し、無言で歩いて戻っていった。



 静寂が再び訪れる。

 不気味なまでに整然と両側に並ぶ魔法士たち。その中央の空間で、ルイたち四人と、黒髪の男だけが対峙している。


 一陣の風が、白亜の街を吹き抜ける。その余韻が消えかけた時、男は再び口を開いた。


「改めて……ようこそ、皓絳へ。我々は、其方らを歓迎する。そして──我々は、其方らに期待を寄せている」


 重々しい言葉に、ルイはごくりと生唾を飲み込んだ。



「我は天衡(ティエンヘン)(ユェン)武衡局(ウーヘンジ)の長。

 将衡(ジャンヘン)。あるいは──ポーランと呼んでくれ」



 抑揚のない、岩石が軋むような声が続く。


「そちらの言語は(チェン)宰衡(ザイヘン)に事前に仕込まれたが、間違いがあれば、容赦願いたい」


 彼──ポーランの鋭い視線が、四人を順に捉える。最後に、琴葉の上で一瞬止まり、再び全員を見渡す。



「客人たち。其方らを、我はどう呼べばよい?」


 ルイが、前方に立つ響哉の背中を見た。その視線を感じたのか、響哉がわずかに肩越しにルイを一瞥する。この状況で素直に名乗って良いものか。躊躇が脳裏をよぎるが、響哉はすぐに正面のポーランへと視線を戻し、先陣を切った。


「響哉だ」


 その簡潔な自己紹介に続くように、ルイもポーランの鋭い目を正面から受け止め、言った。


「俺はルイ。よろしく」

「わ、私はシア、です……よろしく、お願いします」


 シアは緊張で声が少し上ずりながらも、何とか言葉を紡いだ。

 残るは琴葉だけだ。しかし、琴葉は唇を固く結び、深紅の瞳を地面に向けたまま、頑なに沈黙を守っている。彼女の側面から、微かに、しかし確実に緊張と拒絶の気配が漂う。

 その様子を一瞥したポーランは、小さく、しかし威圧的な動作で片手を上げ、琴葉を指し示した。


「……崩山(ベンシャン)


 彼は、琴葉をその名で呼んだ。


「其方も、答えるがよい」


 崩山。

 シュエンもまた、同じように琴葉を呼んでいた。なぜ二人とも、琴葉をこの別の名で呼ぶのか。単なる旧知の仲というには、あまりに冷たい。それは、所有物を確認するような、一切の情動を排した確信に満ちた呼び方だった。


『私は、天衡院が示す秩序にも従えない。だから、私は貴方たちから逃げて──貴方たちを裏切って、この澄幽を選んだ』


 ルイとシアは琴葉の過去を詳細には知らない。しかし、澄幽を発つ前夜、彼女が漏らしたその言葉から推測するに──彼女は元々、魔法士の側、すなわちこの皓絳という国の秩序の中にいた存在なのではないか。

 もしそうなら、彼女の圧倒的な魔法知識も、また、この国に琴葉と同質の気配を纏う者たちが存在することも、説明がつく。


「……"今の"名前は、黒華琴葉」

「そうか」


 歯切れが悪そうに、琴葉は言い切った。しかし、ポーランはそれ以上を追及しなかった。興味がない、あるいは、もはやどうでもいいことであるかのように。

 それは琴葉にとって、ある種の救いであるはずだった。自ら"裏切者"と称していたのだ。その過去を問い詰められることもなく会話が終わったことは、一時の安堵をもたらすはずなのに、琴葉の表情は苦渋に歪み、目を伏せたままだった。彼女は、そういう性分なのだ。許されることより、問われることを待ち、その重荷を背負おうとする。


 ポーランはその後、微かに小首を傾げた。その動作一つにも、無駄がなかった。


「程宰衡は、黒華珠桜殿も同道されると言っていたが」

「珠桜様をそう簡単に外に出すわけにはいかねえんだよ。あの人は俺たちの希望そのもんだ」


 響哉の即座の返答に、ポーランの瞳に一瞬、理解の色が走った。周囲に漂っていた微かな危険な気配が、ほんの少し後退する。


「……ふむ。ならば、その分の働きは、黒華琴葉殿に期待させてもらうとしよう」

「最初から……そのつもり」


 琴葉が、顔を上げ、まっすぐにポーランを見据えた。その覚悟に満ちた姿勢に、ポーランは一度、ゆっくりと頷いた。それは評価でも同意でもなく、単に認識の確認だった。

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