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第六十話 白亜の檻は異邦の客を迎う - 1

 背後には、雲をも掴みそうな巨大な城壁がそびえ立っていた。その向こうが外部なのか、あるいはさらに別の街区が広がっているのか見当もつかない。

 ただ一つ確かなのは、この完璧すぎる空間が放つ、目に見えない檻のような圧迫感だ。清潔すぎる空気さえもが、どこか息苦しい監視のように肺に絡みつく。


 ──ふと、ルイは遠くを見た。

 風に揺れる幻の木々。優しい光に包まれた家々。穢れを知らず、争いを忘れた人々の笑顔──澄幽で紡がれているのも、まさにこれではないか。

 壁の向こうの「穢れ」から守るために、幻想の杜に人々を閉じ込め、幸せの夢を見させ続ける。


 城壁の頂は雲を掴みそうな高さだが、その根元は、自分たちの足元と同じ土の上にある。

 差などない。ただ、見え方が違うだけだ。



 ルイは視線を、眼前に広がる大通りへと移した。

 石畳は鏡面のように研磨され、一片の塵、一筋のひび割れも許されていない。建物は隙間なく密集し、全てが直角と直線で構成され、装飾らしい装飾はない。ただの機能美というにはあまりに無機質で、巨大な蟻塚か、精密機械の内部を思わせた。

 建物と建物の狭間を縫うように、無数の細いレールが張り巡らされ、さらにその上空を、規則正しい列をなして無音の何かが高速で行き交っている。それは鳥ではなく、金属の箱のような物体だ。

 大通りを行き交う人々の姿は、さらに異様だった。皆、似たようなデザインの服装で、足取りは一定のリズム。まるで地面に刻まれた目に見えないレールを辿るように、秩序だった列を成して移動している。澄幽で見慣れた、自分の生まれや嗜好など、個性を表現する服装や、時にだらしない歩き方とは対極にあった。風が吹いても、髪の毛一本乱れることはない。全てが制御されている。

 廃墟と荒野が広がるこの世界に、これほどまでに完璧で、壮大で、冷たい「秩序」が存在し得るとは、ルイの想像力を遥かに超えていた。


 その時、突然、頭上を走るレールの上を、銀色の流線形の箱が、無音に近い微かな唸りを立てて高速で滑り去った。


「あれは……?」


 ルイは、みるみる遠ざかっていくその異形の乗り物を見送りながら、思わず呟いた。空に敷かれたレールも、その上を巨大な箱が高速で通り過ぎていく光景も、彼の知る「世界」の常識を軽々と超えていた。

 ──確かにルイの年代であれば、世界は度重なる災厄で世界の交通網がほとんど破壊されつくされてしまったあとなので、それを見たことはないのかもしれない。

 彼のその無垢な驚きの反応が、シュエンの目元をわずかに緩ませた。危険で恐ろしい異能者という面しか見てこなかったこの青年が、同時に「世界を知らないただの少年」の顔も持っていることを確認し、ようやくどこか親しみのような、扱いやすさを見出したようだ。


「"電車"。国土もそれなりに広いから、大半の人はあれに乗って移動するん、だ──ゲホッ! ゲホッ……!」


 説明の途中で、シュエンの体が大きくよろめいた。


「シュエン……?」


 ルイが声をかけるより先に、シュエンは口元を押さえた手を見つめた。指の隙間から、鮮血がしたたり落ち、装束の襟を赤く染めていく。彼の琥珀色の瞳が一瞬、虚ろに揺らぐ。膝の力ががくんと抜け、その場に崩れ落ちそうになる。


「――!」


 その急変を、琴葉が鋭く見逃さなかった。一歩前に踏み出し、シュエンの体を支えると同時に、彼の顔を覗き込んだ。瞳孔の開き、蒼白く血色を失った唇、浅く速く乱れた呼吸――戦場で数多の瀕死の兵士を見てきた経験が、瞬時に状況の危険度を告げる。


「──まずい、出血が多すぎる……!」


 琴葉の声に、抑えきれない焦りが走る。支える腕に伝わるシュエンの体重が、急速に重くなっていく。

 生命の灯が、砂時計の砂のように流れ落ちている実感に、琴葉の表情も歪む。彼女が最も嫌う──人の死が、すぐそこにある。


「早く医官に診せないと……ッ!」


 彼女を、緊迫した焦りが支配している。しかし、倒れかかるシュエンは、彼女が言いきるより先に動いた。


「それより……コレ、あげる」


 シュエンが震える手で懐に探り込み、四枚の金色に輝く短冊を取り出した。それは薄く、しかし重厚な質感を持ち、表面には微かに光る紋様が刻まれている。彼はそれを乱雑に琴葉の胸に押し付けるように渡す。


「大切なもの……ちゃんと、持って……」


 その直後、最後の気力も切れたのか、支えていた琴葉の腕の中で、意識が完全に遠のく。ぐったりとした重みが、全てを物語っていた。


 琴葉は一瞬、唇を強く噛んだ。悲痛と焦燥がその表情をよぎる。しかし、彼女は迷わなかった。『彼は助かる』と、確証があるためだ。



 渡された短冊を一枚一枚、ルイ、シア、響哉のそれぞれの手に確かに手渡す。その際、確実にそれぞれの掌に押し付けるようにして、確実に渡していた。


「これ……絶対になくさないで」


 琴葉の深紅の瞳が、一人ひとりの目を確かめるように捉える。


「この国の中で何かあったら――何か『不都合』なことが起こったら、迷わずこれを取り出して、相手に見せるの。これを、命綱だと思って」


 響哉が渡された短冊を指でつまみ、ひねりながら不敵な目で眺めた。


「……なんだこれ? ただの金ぴかのお札か?」


 その表面を流れる微かな光の紋様が、彼の銀灰色の瞳に映る。その金色は、この白亜の街で異彩を放っていた。


「私も実物は初めて見た……天衡院が定める秩序の中で、"客"として招かれた人物に与えられる証よ」琴葉の説明は速く、しかし一つ一つの言葉に重みがあった。

「客は、もてなさなければいけない。危害を加えることは断じてあってはならないと、守るべき秩序として定められている。だから、これを見せれば相手は少なくとも悪いようにはしてこない」


 彼女は一呼吸置き、この街の空気を見渡すようにして付け加えた。


「尤も、この国で犯罪は起こらないけれど……異邦の装いだから。何か問われたら少し見せれば相手は納得する。その程度に考えておけばいいわ」



 説明を終えると、琴葉は行動に移った。倒れたシュエンの体を抱え上げようとする。しかし、彼女とシュエンでは身長差があり、かつシュエンは完全に意識を失っている。彼女では前が見えないほど体を支え、歩くことさえ困難に見えた。よろめき、足がもつれそうになる。

 街中では飛行魔法が危険とされ、緊急時以外は使用が禁止されている。医者のところまで歩いて向かわなければならないが、人混みの中を前も見えずに進むのは危険だ。

 今、証について説明している間も、彼女の声は、本来ならむせ返るほどの血の鉄臭がたちこめているであろうシュエンの肩口で、くぐもった響きになっていた──琴葉は今、匂いを感じる器官の再現を行っていないため、匂いの一切は分からないが。



 その時だった。



 大通りの喧騒が、一瞬で吸い込まれるように消えた。

 まるで巨大な生物が息を止めたかのように、世界の音が遮断される。


 その異変に、四人は反射的に大通りへと視線を向けた。


 そこには息を呑む光景が広がっていた。

 さっきまで整然と行き交っていた人々が、一斉に、そして完全に無言で、その空間から退いていく。建物の扉へ、脇道へ、あたかも潮が引くように。一人の遅れも、一歩の乱れもない。彼らは皆、無表情で、まるで予めプログラムされた避難動作を実行しているようだった。

 そして、その空けられた大通りの彼方──街の中心に聳える白亜の楼閣の方角から、一片の乱れもない隊列を組んだ集団が、こちらへと歩を進めてきた。


 白と黒の装束に身を包んだ──魔法士たちだ。それが、片側五列、合わせて十列。足並みは完璧に揃い、腕の振り、歩幅、すべてが同一だった。


「……!」


 言葉を失うしかなかった。シアは目を見開き、無意識にルイの袖を掴んだ。響哉が、鋭く警戒の姿勢を取り、ルイとシアをわずかに後ろへと押しやる。背筋に冷たい電流が走る。集団の歩みが放つ威圧感は、物理的な脅威そのものだった。

 唯一、琴葉だけが動じなかった。彼女はシュエンの体を支えたまま、その隊列をまっすぐに見据え、覚悟を決めたように静かに佇っている。深紅の瞳に映るのは、かつて自分が属していた──秩序が形を成したものだ。


 ドン、ドン、ドン──


 石畳を踏みしめる足音が、百の足でありながら一つの巨大な鼓動として響く。衣擦れの音さえも完全に同期し、不気味なまでに整然とした大合唱を形成する。さらに、どこからともなく聞こえてくる仰々しい太鼓の音が、その行進に重なり、腹の底に鈍く響く。


 街全体が──いや、この「国」そのものが、一つの意思を持った生き物のように、この完璧すぎるパフォーマンスの一部としてここに存在している。



 異邦の客人を迎えるための、この過剰なまでの秩序の示威。


 それは、歓迎なのか。

 それとも、紛れもない「力」の誇示なのか。



 ルイの疑問は、すぐに一つの形を伴って迫ってきた。



 ──コツ……コツ……



 固い靴底が磨かれた石畳を打つ音が、不自然な静寂の中に、規則正しく、そして重く響く。一人の影が、整然と整列した魔法士たちの隊列の間を分け、大通りの中央をゆっくりと歩み出てきた。


 ──白と黒の魔法士装束の上に、細かな黒と銀の刺繍が施された豪奢なマントを羽織った男が現れた。

 黒髪は厳格に整えられ、顔立ちは彫刻のように整っているが、そこには一切の感情の襞が見えない。肩幅は広く、背筋は鋼鉄の柱のように真っ直ぐで、その存在感は動く城塞のようだった。身長は響哉をも上回り、ルイたちを見下ろす視線は、鋭い審判の眼差しそのものだ。

 身長はファロンやエゼキエルらよりは低いが、それでも響哉を超える大男がルイたちと──そして、琴葉に支えられている、瀕死のシュエンを見下ろしていた。


 彼は、ゆっくりと、しかし確実にルイたちの眼前まで近づき、足を止めた。

 その瞬間、それまで微かに聞こえていた太鼓の音さえもが、完全に消し去られた。世界の音が、この男に吸収されたかのようだった。


 男は、一度、深々と頭を下げた。動作は儀礼的で、無駄が一切ない。

 そして顔を上げる。その薄い唇が、静かに開かれる。



「──遠路遥々、皓絳(ハオジャン)の地まで足を運ばれたこと、謹んで感謝申し上げる」



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