第五十九話 涙は乾き、未来を守るために往く - 3
──やがて、珠桜が静かに顔を上げた。月光がその端正な彫刻のような顔を照らし、眉間に刻まれた皺が深い決意の跡を浮かび上がらせる。そこには、迷いの色は微塵もなかった。あるのは、苦渋に満ちた受け入れと、それでもこの選択肢しかないという、絶対的な覚悟の重みだけだった。
「……具体的な要求を言え」
その声は低く、しかし広場の空気全体を振動させるような威厳に満ちていた。それは単なる質問ではない。珠桜が線を引いたという宣言であり──「要求内容次第では承諾する」という意思を示す宣言だった。
その瞬間、ルイはゆっくりと銃口を下げた。シュエンの眉間から狙いを外し、滑らかで無駄のない動作でコートの内側のホルスターに収める。金属が皮革に沈むかすかな音が、緊張のピークが過ぎたことを告げる。彼は深く、静かに息を吐いた。背中の筋肉の張りがほんの少し緩むのを感じながら、シアと律灯が待つ後方へ、一歩、距離を取った。
「へへっ、話が通じる異能者でよかったですよ~ん」
シュエンの口調が、再び軽薄な仮面をかぶり直す。しかし、その目尻に浮かぶ笑みの陰で、瞳だけは相変わらず獲物を估る獣のように鋭く、琴葉、珠桜、ルイを順に切り刻むように走査していた。
「要求は二つ。まず一つはシンプルに、琴葉ちゃんを借りたい」
シュエンは、響哉に頑なに押さえつけられている琴葉をちらりと見た。その目は、商品を確認するかのようだった。
琴葉は、その予想外の要求に目を見開き、無意識に僅かに顔を上げ、シュエンの目を捉えようとする。だが、
「やめておいたほうがいいぜ。今のコイツはただの腑抜けだ」
響哉が即座に、氷のような声で言い放つ。彼は今なお、琴葉の腕を鋼の鉤のように固く抑え、その中から伝わってくる力のなさ、意志の曖昧さを、掌で確かめている。確かに、直近の──特に今日の琴葉の行動は、仲間たちの目には混乱と脆弱さの極みと映っている。信頼できる戦力ではないということを、否定してやれなかった。
だが、シュエンはその警告など、風の囁きのように軽く受け流した。彼は快活に、そしてどこか憐憫さえ込めて笑い飛ばす。
「だいじょぶだいじょぶ。その子の調整は、"製造者"の責任としてしっかりさせてもらうから」
製造者。
その言葉が、静寂の中に鈍く響き渡った。
ルイの視界の端で、琴葉の全身が――ほんの一瞬、微かに、しかし確実に震えた。それは、痛みや恐怖による生理的な震えとは明らかに異質だ。もっと深い、魂の基盤を揺さぶられるような、存在そのものへの侵犯を感じた時の根源的な戦慄だった。
響哉に押さえつけられた腕の筋肉が石のように硬直し、うつむいていた彼女の長い睫毛が、痙攣するように細かく震える。地面を見つめていた深紅の瞳が、一瞬だけ恐怖に曇り、そして急速に冷たい、何も映さない虚無へと変わっていく。
シュエンは、琴葉が何者であるかを知っている。いや、「何から作られたか」、「どのように操れば、どのように動くか」まで完璧に把握している。琴葉という、彼にとっての「製品」の一つは、今、一時的な不具合を起こしているに過ぎない。
「もう一つは、出せる戦力全部貸してほしい。一人でも死亡者を減らせれば、それだけ戦況は楽になるだろうし、万が一のことがあったときも君たちの将来の負担が減る」
「間違ってはいないね」
珠桜が低く呟く。彼もまた、計算としての合理性は認めざるを得ない。
「琴葉ちゃんの相方、白い目のオニーサン。そこの緑の髪の子も欲しいなあ。もちろん、黒華珠桜サマも。他には? あとどのくらい戦力がいるの?」
シュエンは指を折りながら、商品を選ぶように名を挙げていく。その刹那──
ザリ、と地面の砂利を擦る音を立てて、琴葉が動いた。響哉が抑え込もうとする力を、彼女は静かに、しかし圧倒的な魔力で補強した、死んだ肉体で押し返す。それは、さっきまでの無力さとは別人の動きだ。
彼女がゆっくりと立ち上がる。その瞳は、再び鋭く、宝石のように冷たい深紅に輝いている。迷いも、苦悩も、脆さも、すべてが消え去った。診療室で涙を見せた少女の面影は、灰燼に帰した。そこにいるのは、完全に戦士として再起動された、冷徹な兵器だった。
服に付いた血と塵は、彼女が手で軽く払うと、魔力の微光と共に消失した。響哉によって外された肩の関節も、もう一方の手でそっと触れると、何事もなかったかのように、無音で正確に元の位置に収まる。すべてが完璧に、無駄なく修復される。
「行くのは私と響哉。それと──」
琴葉が、ほんのわずか──機械的な精度で首を振り返る。その視線がルイとシアを捉えた。ルイは一瞬もためらわず、強く、確信を持ってうなずいた。守るべきものがある。そして、この危機はもはや彼らだけの問題ではない。シアも、ルイの意思を読み取り、決然とうなずき返す。
「ルイとシア。四人だけ。珠桜と律灯は、ここに残る」
「え? 全然足りなくない?」
シュエンが疑念を込めて眉をひそめる。援軍を期待して、命まで危険に晒したのに、得られるものが本命を含めないたった四人など。
「十分よ」
琴葉の声は、平坦で、感情の波ひとつない。しかし、その低く響く声音の中に、鋼のごとき確信が込められていた。これは願望ではない。達成可能であるという、絶対的な計算結果の提示だ。
彼女はシュエンを見据え、そしてその視線を遠くの、見えない戦場へと向けた。その口元が、かすかに、しかし確実に動く。
「亡霊も、あの二人も──全て、私が殺してやる」
その宣言は、倫理の葛藤など最早些事であったかのように、冷徹に響いた。この件に関しては、悩む余地など最初からない。立ちはだかるのは、今までの全ての戦いが可愛く思えるほどの理不尽な物量と異能という敵だけだ。
彼女は、ほんの一瞬、間を置いた。その後の言葉は、それまでよりほんの少しだけ──ほんのわずかだけ、人間らしい温かみを帯びているように聞こえた。だが、それは哀悼に似た情感なのか、それともただの錯覚なのか。
「……ここの人だけじゃない。皓絳で暮らす人々にも、やっぱり生きてほしい。
本当は魔法士たちにだって、罪はなかったもの。魔法士たちを殺して、シュエンを殺したその先に、彼らに危険が降り注ぐのが……怖かった」
彼女は、自らの内なる葛藤を、言葉に紡いだ。
「私は、天衡院が示す秩序にも従えない。だから、私は貴方たちから逃げて──貴方たちを裏切って、この澄幽を選んだ。"響哉から教えてもらったこと"も……私には、結局向いてなかったみたい」
琴葉が、自然と顔を上げて、シュエン、珠桜、そして響哉の三人を順に見た。
「やっぱり、私は不要な殺しはしない。罪のない人を、私は斬れない」
それが、彼女なりの、歪みながらも譲れない一線だった。
守るためにあらかじめ脅威となりうる可能性を秘めた全てのものを刈り取るのではなく、本当に守るべきにとって危険なものだけを選別し、殺す。その微妙で危うい均衡の上に、彼女はこれから立とうとしている。
ルイとシアが、静かに琴葉の両脇に立った。響哉も琴葉から少し距離を置き、珠桜と律灯が立つ場所を一瞥する。
「まぁ、いいよ。緑の子、めちゃくちゃ有望株だし」
シュエンは、ルイを一瞥し、鉱脈を発見したような貪欲な笑みを浮かべた。琴葉の内面的な宣言など、彼の目的には些末なことだった。
琴葉が静かに珠桜を振り返った。彼の表情は複雑で、決して穏やかではない。怒り、心配、失望、そして認めたくないほどの理解が入り混じっている。彼は、琴葉がもう戻れない地点を越えたことを、痛いほどよくわかっている。
「……珠桜」
「……君が招いた事態だよ」
「……はい」
琴葉は深く頭を下げる。それは、師への礼節であり、自らが引き受ける重荷への畏敬の念だった。
「自分で、責任を取ってきなさい。失敗──四人の、一人でも欠けて帰ってくることは許さない」
珠桜の声には、もはや穏やかな指導者の面影はない。あるのは、厳父が我が子を戦場に送り出す時の、切実で冷酷な命令だ。それは、最大級の信頼と、最大級の恐れが交差する瞬間の言葉だった。
「……必ず、帰ってくるわ」
琴葉はゆっくりと顔を上げ、珠桜の瞳を真っ直ぐに見据えた。その深紅の目には、揺るぎない約束が刻まれている。
珠桜は、一瞬、目を細めた。長い睫毛が、ほんのわずかに震える。そして、微かに、言葉にならないほどの小さなうなずきを見せた。
「……うん」
彼の視線が、ルイ、シア、響哉へと移り、最後に琴葉で止まる。そして、胸の奥から絞り出すような、しかし確かな声で言った。
「いってらっしゃい、みんな」
その言葉が、澄幽という小さな世界での、穏やかで傷つきやすい日常への、一時的かもしれない別れの鐘となって響いた。
琴葉が、出血しすぎたためかよろけるシュエンを片腕で支えた。シュエンのサングラスの奥、琥珀色の瞳が不気味な輝きを増し、低声で詠唱が始まる。足元から、幾何学模様を描く黒と白の光が渦を巻き、四人の足下を呑み込んでいく。転移魔法の發動だ。
ルイは、光に視界が奪われるほんの一瞬前に、最後の光景を焼き付けた。
佇む珠桜と律灯の姿。月光に照らされた、懐かしい澄幽の庭。
そして──光の奔流に呑まれゆく琴葉の、完全に無表情で、しかし何かを確固と決意した側顔。そこには、迷いの影はもうなかった。あるのは、任務を完遂するための、研ぎ澄まされた意志だけだ。
視界が白一色に塗りつぶされ、重力が一瞬狂う。
そして、光が収束し、新たな視界が構成される。
冷たく、清冽で、どこか薬品のような清潔感のある空気が、一気に肺を満たす。耳には、遠くから響く規則的な鐘の音と、整然とした喧騒、そして聞き慣れない異国の言語が混ざり合う。
ルイが目を開けた。
眼前に広がっていたのは、整然と区画された白亜の街並み、天へ向かって林立する尖塔群、そして全てを囲む、雲をも凌ぐ巨大な城壁だった。
白亜の秩序の国、皓絳へ──
彼らは、この国を救う「希望」として、数億の亡霊がうごめく戦争の渦中へ、静かに、そして確実に足を踏み入れたのであった。




